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ノート:紫雲丸事故

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船長名の明記について:個人名表記は適当ではないかもしれません。

理由:海難審判庁のホームページ記事中でも船長名(個人名)はあげていないと思います。また、洞爺丸事故以来、海難審判庁でのさまざまな議論を経て、「船長が海難で殉職した場合、判決理由のなかに船長名が出たとしても、主文に「船長の職務上の過失」の語句は使用しない」などの配慮もなされているようです。下記海難審判庁資料を見る限りでは、紫雲丸船長の個人名は、主文でも表記されていません。

衝突後の紫雲丸船長:下記海難審判庁資料を見る限りでは、「総員退去の指示」など、きちんとした命令を出したとは書かれていません。逆に、何の指示も与えることができなかった、と読み取れます。紫雲丸船長に正確な判断能力があったのかどうか、本事件の本質はそこにあると思われます。未熟なレーダー操作を最後まで自ら行い、「謎の左転」をして衝突させ、沈没するまでどう行動したのか、船長の責任が問われています。

左舷大破口から機関室へ膨大な浸水が始まった:〈右舷〉の間違いではないでしょうか。

その他:同じ宇高連絡船同士の衝突事故(事件)であることを、もっと明確に書くとよいのではないでしょうか。

参考資料:海難分析集(海難審判庁)

http://www.mlit.go.jp/maia/05boushi/bunseki/bunsekitop.htm

--Akimasa21 2008年4月2日 (水) 21:33 (UTC)[返信]

akimasa21 指摘の点に関しては初版を記載した時のミスです。気が付いていましたが、面倒くさくってほっときました。あと参考文献も記載しましたのでそちらも参照下さい。ちなみに海難審判庁の本件資料はもっとあります。webに公開されているのは全体のごく一部です。--KSSH7536 2008年4月12日 (土) 06:12 (UTC)[返信]

記事に対する疑問

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「5度目の事故」冒頭にある広島県大崎南村大崎南小学校が、犠牲者項の学校名に記載しておらず、予備知識なしで読み進めた場合に違和感を感じます。 大崎南村は、事故に先立つ1955年3月31日に木江町と合併して消滅しており、事故時の校名は犠牲者項に書いてある広島県木江町立南小学校であったと思うのですが、確証がありません。 ですので、確認できる方がおりましたら、ご確認のうえ記事の修正をされることを望みます。--220.156.86.214 2008年8月31日 (日) 22:07 (UTC)[返信]

現在の木江小学校は、1995年(平成07年)4月、広島県豊田郡木江町の旧・木江小学校と同町の南小学校が統合されて誕生しています。その際に、校舎校庭は旧・南小学校のものを引き続いて使用しています。そのため、旧・南小学校の紫雲丸遭難者記念館は、新・木江小学校にそのままの状態で引き継がれています

両校が統合される40年前の1955年(昭和30年)5月、木江町立南小学校では、修学旅行団が紫雲丸事故に遭遇し、殉職教師3名 児童死亡22名を出しました。事故直前の町村合併(同年3月)によって、大崎南小学校(豊田郡大崎南村)から校名変更になったばかりでした。

なお木江小学校は、2003年(平成15年)4月には、広島県豊田郡大崎上島町立木江小学校となりました。大崎上島の木江・大崎・東野三町が合併して大崎上島町となったためです。 --Akimasa21 2010年6月16日 (水) 14:53 (UTC)[返信]