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ノート:徳川慶喜

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名前について

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名前に〔家〕を継いでいないことについて誰か知りませんか? --以上の署名のないコメントは、219.173.119.31会話/Whois)さんが 2004年4月10日 (土) 08:16(UTC) に投稿したものです(123.222.169.115による付記)。

具体的な理由を示す史料の所在は判りませんが、慶喜は征夷大将軍に就任してから辞職するまで、江戸にいたことがなく、と言うより京都を離れることが許されないほどの政治状況だったので、先代(第14代)のように「家茂」へと改名する余裕がまったくなかった、ということだと思われます。なお、慶喜自身の「慶」は、家慶の一字をとったものです。--以上の署名のないコメントは、222.150.236.156会話/Whois)さんが 2004年4月10日 (土) 08:23(UTC) に投稿したものです(123.222.169.115による付記)。


徳川歴代将軍の中で〔家〕の字が付かないのは、秀忠、綱吉、吉宗、慶喜の4人です。 このうち秀忠は家康が天下人になる前の元服ですから、家康の〔家〕ではなく秀吉の〔秀〕をもらっています。この頃はまだ長子相続が制度化されておらず、秀忠が家康の後継者に最終確定したのは家康が天下を取って後のことでした。 この4人の共通点は「成人してから将軍(あるいは次将軍)になることが決まった。」ということ。尤も6代将軍家宣の場合は、壮年期過ぎてからの将軍家相続であったにもかかわらず改名していますので、最終的には本人の意志でしょう。 結局のところは「将軍職就任以前に、ある程度の実績と知名度をすでに持っていたのであえて改名しなかった」ということではないでしょうか。--以上の署名のないコメントは、61.22.143.171会話/Whois)さんが 2004年6月6日 (日) 14:20 - 2004年6月14日 (月) 13:10(UTC) に投稿したものです(123.222.169.115による付記)。


家康→秀忠、は、徳川家の系図を上にたどると、親忠→長親→信忠→清康→広忠→家康→秀忠となりますから、ある時期以降徳川家では「康」と「忠」を交代で通字にしていたのだと思われます。「家」が通字になったのはひとえに家康がえらかったから(?)でしょう。秀忠の代までは「家康個人の偉さ<歴代の慣習」だったのではないでしょうか。吉宗と慶喜に共通するのは(1)前代の将軍の片諱を名乗りにしていること、(2)将軍を継嗣したのが成人以降であること、(3)養父(前の代の将軍)が本人より年下であること、(4)吉宗は一時期(3)を理由にして将軍はつぐが養子になるのはいやだといったことがある、一方で慶喜は宗家はつぐが将軍になるのはいやだと主張していた……、というところだと思います。--以上の署名のないコメントは、130.54.12.241会話/Whois)さんが 2005年6月20日 (月) 04:26(UTC) に投稿したものです(123.222.169.115による付記)。


上の説への批判なのですが、私自身は「家」が通字になったのは、家康に傾倒していた家光が始めた慣習であると認識しています。そのため、秀忠は家忠と改名することは無かったのでしょう。 (1)については、六代家宣・十四代家茂もそうであったが、改名していますので理由としては適当ではありません。 (3)(4)については二代秀忠・五代綱吉には当てはまりません。 よって、(1)(3)(4)は名前に〔家〕を継いでいないことについての理由としては、不適当であると思います。--以上の署名のないコメントは、61.22.143.171会話/Whois)さんが 2005年6月21日 (火) 17:25(UTC) に投稿したものです(123.222.169.115による付記)。

(コメント)署名と節名を補填しました。--123.222.169.115 2024年8月22日 (木) 05:12 (UTC)[返信]

写真撮影について

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徳川慶喜の写真の評価について、トリビアの泉のコメントが引用されていましたが、信ぴょう性が薄いと思い削除しました。その回を私も視聴したのですが、番組では「慶喜の写真技術は低かった」ということで笑いをとるような作為的な演出がされており、また、コメントをした加納典明も元々は人物写真が専門であり、慶喜の写真の評価をできるとは思えず、番組内でも慶喜の写真をポイ捨てするなど演出的なそぶりをしていました。それに加納典明自身も過激なヌードをとって話題を振りまくようなタレントであること、加えて笑いをとるために演出されたバラエティのコメント等を引用するのは明らかに不適切です。--執筆者003会話2024年2月5日 (月) 15:04 (UTC)[返信]

@執筆者003さんへ
当該部分を加筆した者です。「「慶喜の写真技術は低かった」ということで笑いをとるような作為的な演出がされており」とのことですが、そうでしたでしょうか。どの部分を指しているのかお教えください。加納典明について、人物写真が分野なのはそうですが写真家ではあります。加納典明『18才の静物』という展覧会も開催していますし「評価をできるとは思えず」とまでは言えないわけではないはずです。「番組内でも慶喜の写真をポイ捨てするなど演出的なそぶりをしていました」とのことですが、そのようなシーンはありましたでしょうか。トリビアの泉では当該の放送よりもずっと後に、俳優の緒形拳はドラえもんが好きというトリビアを放送したとき、緒形はドラえもんでは他に、のび太くらいしかキャラクターを知らず、ドラミの人形を渡すも放り投げてしまうシーンはありました。それと混同しているのではないでしょうか。仮にそういうことを加納典明がしていたとしても、番組本に載っておらず、何かの方法で検証可能でないといけません。WP:TVWATCHというもので情報として適していないことになります。笑いをとる演出も同様です。--図書助会話2024年8月1日 (木) 12:48 (UTC)[返信]
この件について、youtubeに映像がありました。たしかに加納氏が写真をポイ捨てする場面はなかったのですが、慶喜の写真として知らせずにコメントさせたり、「ダメです」といったところでゲスト人大笑いする音声がかぶせてあり、明らかに笑いを取ろうとしている演出です。また、加納氏の発言も「牧歌的な風景を撮っているが、アートとしてふっとみてふっと感じるところがない」「写真という行為をただしただけという感じ」という印象を語っているので、写真の技術が低かったということではないと思います。慶喜がカメラマンを志した時代は、現在のように便利なフィルムが開発されておらず、撮影を行うのも写真乾板を作るのも化学の知識と熟練の技術が必要で、写真を何十枚も残せるような慶喜の技術が低かったとは到底思えません。また、コメントを見る限りでは加納氏は「芸術性の低さ」にダメ出ししています。ただ、プロのカメラマンといっても報道や記録のように芸術性を追求しない分野の仕事もあります。慶喜の場合も芸術的な趣向を帯びてくるのは晩年で、もっぱら記録や肖像写真など実用的な写真をとっていたので、アート性が低いということは、慶喜の写真技術が低いということをいうには不適切であると思います。また加納氏はお茶の間に知名度があるということで選ばれ、結局のところ、そこで否定的な意見のみを編集し(映像を見る限りですが、老眼鏡をかけ、かなり真面目に見入っています。アート性の低さは指摘していても技術の高さなとは評価している可能性もあります)笑いをとっているのは目に見えて明らかです。そのそも「トリビアの泉」はTVバラエティです。バラエティは視聴者に笑いをとるため、事実や真実を曲げたり、面白おかしく演出する部分も多く、リファレンスとしては不適格です。もし、慶喜の写真技術の能力がどういうものであったかについて言及するなら、テレビバラエティではなく、小沢健志氏など幕末や日本写真史を研究している方の著作や「日曜美術館」などの教養を目的とした番組での専門家の意見をリファレンスとすべきです。--執筆者003会話2024年8月3日 (土) 04:07 (UTC)[返信]
わたしが言及したWP:TVWATCHとはWikipedia:検証可能性にある「事実確認の機能を欠く情報源(「テレビで観た」や「ラジオで聴いた」など)、または編集上の監督を欠く情報源です」を指しています。笑い声までは番組本に載っていないことやYouTubeの動画は無断でアップロードされたものでその内容は情報として適していません。誰の写真か教えずに見てもらったのは公平に評価してもらうためではないでしょうか。加納典明に見てもらった理由はわかりませんし、バラエティ番組以外なら正しいというわけではなく、媒体に重きに置くだけでなく評価した人物が本職であることも考えるべきです。華族向けの雑誌で一定の評価を受けた写真を現代のプロカメラマンはどう見たかという点は有用な情報だと思います。--図書助会話2024年8月4日 (日) 14:38 (UTC)[返信]
@執筆者003さんへ
前回のわたしのコメントから1週間が経ちました。執筆者003さんの編集は不正確な記憶、明確に出典として使えない情報を元に書き換え、理由として挙げられていたため不適当です。他のわたしのコメントについても解消されていませんし、該当の編集はこちら側の考えによるものとなりますことを書いておきます。--図書助会話2024年8月12日 (月) 17:12 (UTC)[返信]
コメントが途絶えておりますので当該の写真についての記述は一部を除いて復帰させていただきました--図書助会話) 2024年8月19日 (月) 00:33 (UTC)--図書助会話2024年8月19日 (月) 00:36 (UTC)[返信]

加納典明氏の評論掲載の是非について

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編集合戦にも発展しているので再度議論をしたいと思います。加納典明氏が徳川慶喜の写真についてトリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜内で述べた評論について掲載が適当であるかです。論点としては

  • バラエティ番組の演出が施されているものと、専門誌や書籍での評論を同列に扱うべきなのか
  • 加納典明氏の写真家として専門性の是非

になるかと思います。なお、当該項目の執筆者より番組内の評論については参考文献として、番組公式の書籍が提示されています。ISBN 4-06-352711-5

広く意見を求めて編集合戦の終結を試みたいです。--China会話2024年10月18日 (金) 10:29 (UTC)[返信]

バラエティの演出として(面白おかしく)批評させているのであれば、批評としては掲載価値が低いのではないかと考えます。写真機材や技術、手法が進化する中で、撮影時の時代背景は加納氏に理解されていたのでしょうか。番組上でどのような見せ方がされたのか分かりませんが、ブラインドテスト的な批評で(現代の写真に比べて)ダメ出しするのはフェアではないでしょう。
個人的には出典とされる文献に対してページ数等示されていないのも気になります。--DIYdriver会話2024年12月3日 (火) 05:28 (UTC)[返信]
@DIYdriverさん ページ数記入については10月22日に依頼をさせて頂いておりますが、現状は特に変化がありません。--China会話2024年12月3日 (火) 11:26 (UTC)[返信]
「バラエティの演出として(面白おかしく)」は笑い声のことだと思われますが、それは番組本にはなく検証可能性を満たしていません。加納典明に見てもらった際はむしろフェアに判断してもらうために誰の写真かは伏せたのではないでしょうか(これらは既にコメントです)。ページ数につきましては現時点でも確認がとれる状況ではありません。ご容赦ください。--図書助会話2024年12月3日 (火) 12:49 (UTC)[返信]

上記の節でも書いたことと重複もありますが「バラエティ番組の演出」とは加納典明が発言した際、加納以外の笑い声があったことを指しているものの、そこまで書籍において触れられていません。つまりWP:TVWATCHです。上記でやり取りした相手は記憶頼りな上に別の放送回での別の出演者の様子と混同もしていました。後で笑い声や出演者の様子の確認をYoutubeの動画でしたことを明言していますが無断アップロードされたもので、これも出典を確認したことにはならないでしょう。それについてわたしは理由含めて既に言及しているのに相手は自分の会話ページで情報として有効だと書き込んでいます。仮に笑い声について有効な出典があったとしても別に加納典明が笑いながら発言したわけではありませんし、笑い声について解釈をしてしまうのは独自研究になるはずです。加納典明については写真家であり、人物以外の写真の展覧会を行っています。

それだけでなく、わたしは相手の会話ページにコメントするも相手は返信なしで差し戻しを行い、それが途絶えて1か月経ち再び同じことをしています。今になって会話ページで相手方は反応したかと思えば、わたしへの批判から始まっています。わたしの発言が非常識だとかわけがわからず半ば無視されたとされていますがわたしはWikipedia:検証可能性を示したり加納典明の発言が使えるかどうかコメントしているのにも関わらずです。検証可能性や無断アップロード動画を見て理由にしていることへの指摘には今まで触れてきていないのに、わたしが無視しているとされるから自分だって無視するということなんでしょうか。「バラエティ番組のコメントやツィッターの書き込みなど、そういった発言とは意味のないものを取り上げて、それを事実として公益情報として掲載」というのも「発言とは意味のないもの」の意味がわかりかねますし「公益情報」というのもなぜそういう言葉が出てくるのか。わたしや消した記述のリバートした人に対して「連中」呼ばわりもしています。それに加えてわたしは他の記事でいちゃもんをつけているなどともしていますが、一体どれを指しているのか、別のページのことならそれぞれの場所で判断することです。--図書助会話) 2024年10月18日 (金) 13:40 (UTC)--図書助会話) 2024年10月18日 (金) 14:35 (UTC)--図書助会話) 2024年10月18日 (金) 15:00 (UTC)--図書助会話) 2024年10月18日 (金) 15:18 (UTC)--図書助会話2024年10月18日 (金) 15:32 (UTC)[返信]

@図書助さん
すみません、番組公式本の出典項目にページ数の記載が無いので、該当部分に関してページ数の記載をお願いします。--China会話2024年10月22日 (火) 11:29 (UTC)[返信]
現在、番組本のページ数について対応や確認できる状況ではありません。こちらからもすみません。--図書助会話) 2024年10月23日 (水) 10:09 (UTC)--図書助会話2024年10月23日 (水) 10:45 (UTC)[返信]

出典として挙げられている書籍は信頼できる情報源ではないので記載すべきではありません。それ以上の議論が必要でしょうか。--114.155.49.9 2024年10月21日 (月) 03:48 (UTC)[返信]

コメントありがとうございます。こちらまだ書籍の中身が確認出来ていないので、中身についての論評は避けますが、編集合戦になっているので、議論の必要があります。--China会話2024年10月21日 (月) 10:10 (UTC)[返信]
議論も何も、この件を騒いでいるのは図書助氏だけです。その箇所を削除して以降、氏以外から批判、意見等はありませんでした。第三者からふさわしくないとの意見が出ている以上は削除のままでよいかと思います。--執筆者003会話2024年10月22日 (火) 12:52 (UTC)[返信]
@執筆者003さん
編集合戦の終結を目的としているので、結論ありきで進めないでください。そもそも、前の議論の途中からコメントが途絶え議論が終了したにもかかわらず、編集合戦となっているのを忘れないでください。
今回は図書助さんの編集内容に対し、異議を申し立てたのは執筆者003さんの側です。
前のコメントを見ますと「小沢健志氏など幕末や日本写真史を研究している方の著作や「日曜美術館」などの教養を目的とした番組での専門家の意見をリファレンスとすべきです。」と書かれていますが、具体的にこれに該当すると思われる評論は具体的に何がありますでしょうか?--China会話2024年10月22日 (火) 13:43 (UTC)[返信]
参考書籍としては下記のとおりです
・将軍が撮った明治・徳川 慶喜 写真 / 徳川 慶朝 監修・朝日新聞出版・ISBN:9784022555595
・徳川慶喜家カメラマン二代目・著:徳川 慶朝 ISBN:9784047100237 出版社:KADOKAWA
・将軍のフォトグラフィー 写真にみる徳川慶喜・昭武兄弟 出版社 松戸市戸定歴史館
・将軍・殿様が撮った幕末明治―徳川慶喜・昭武・慶勝写真集シリーズ別冊歴史読本47・新人物往来社
・幕末・明治の写真 小沢健志著 ちくま学芸文庫
・雑誌 太陽 徳川慶喜 1998年4月号 NO.449
上記の書籍には少なくとも、トリビアの泉の書籍よりもしっかりとした評価や記述がされております。
また評論とはややずれますが、鉄道写真家の助川康史氏は慶喜の写真について下記の通り評価しています。
「写真撮影の腕前は、雑誌に投稿しても一度も採用されないほどだったそうですが、当の「安倍川鉄橋上リ列車進行中之図」は、メイン被写体の安倍川橋梁中心に、副題の列車を左奥に配置しているところが絶妙。上様に申し上げるのもはばかり大きことながら、私は素晴らしい鉄道写真だと思います」引用 助川康史の「鉄道写真なんでもゼミナール」 第1回:鉄道写真とは(https://www.tetsudo.com/report/332/)
「安倍川鉄橋上リ列車進行中之図」は河川にかかった鉄橋をわたる蒸気機関車の写真ですが、本職の鉄道写真家の方が庄さんするくらいなので、高い写真技術とセンスをもっていたいう証左になりえると思います。また助川氏は、トリビアの泉で、加納氏とは対照的に、短いながらも写真技術的な部分にふれて解説されています。こうした論評や解説などを慶喜の写真技術についてリファレンスとすべきではないのでしょうか。--執筆者003会話2024年10月22日 (火) 15:01 (UTC)[返信]
 助川康史の「鉄道写真なんでもゼミナール」 第1回:鉄道写真とはの記事ですが、こちらは直リングでは誘導できませんでしたが、googleで表題を検索するとヒットします。--執筆者003会話2024年10月22日 (火) 15:20 (UTC)[返信]
編集合戦の終了と申しますが、はっきりと申しましたように私は図書助氏と金輪際、かかわるつもりはありません。ウィキペディアの徳川慶喜の写真の評価に対して、バラエティ番組の企画でタレント的な存在の写真家が、慶喜の写真とは知らさせずに述べた感想のようなコメントが、評価としてはふさわしくないと思ったこと、また慶喜の写真の評価を下げるような印象をうけたので削除しました。私の主張はそれだけです。議論しろと相手に吹っ掛けておきながら、相手の言い分は全否定、自分のゆがんだ意見ばかり主張する図書助氏のような存在とやりあうのは正直、時間の無駄であり精神的疲弊も大きいです。そんなことで自分の時間を無駄にするくらいなら、どうぞ、記述については残していただいて結構です。私も今後一切は削除いたしません。それで図書助氏の相手をせずにすむのなら、私の方が万々歳です。たとえ、ウィキペディアのアカウントや執筆する権利を失ったって、金輪際かまいません。[個人攻撃と思われる箇所を非表示 --China会話) 2024年10月23日 (水) 04:46 (UTC)]以上です。--執筆者003会話2024年10月22日 (火) 15:46 (UTC)[返信]
114.155.49.9さんのコメント内容が薄く、それを採用できる状態ではないと考えます。執筆者003さんは笑い声やYoutubeの動画視聴などについて会話ページで今までと同様の発言をしており、わたしの指摘に返信をいただいておりません。
相手方は加納典明に見せたのがタレントだからとしていますが、根拠は示されていませんし仮にそうだったとして写真家です。加納の発言について書かなくとも徳川慶喜の写真の評価ができる記述だとしていますが、写真家の長野重一による慶喜の写真評には出典がありません。これで「徳川慶喜の写真の評価ができる記述」なのでしょうか。
そもそもこの節が立てられているので執筆者003さんには会話ページではなくここでやりとりしていただきたいです。--図書助会話) 2024年10月22日 (火) 09:14 (UTC)--図書助会話2024年10月22日 (火) 09:20 (UTC)[返信]
・第三者から出典がふさわしくないという意見も出ていますので、削除ということでよろしいかと思います。--執筆者003会話2024年10月22日 (火) 10:24 (UTC)[返信]
上の別の箇所でもうわたしと関り合いをもたない、今まで議題になっていた記述の存在も肯定するようなコメントをされているのでその上での返信になります。そちらが第三者としているのは114.155.49.9さんのコメントのはずですが、わたしはそれに対して内容が薄いとしたものの、ウィキペディアでは使えない程度のことしか書かれていません。これで賛否に影響を与えるものにはならないかと。Chinaさんにも結論ありきで進めないで欲しいといわれています。
2024年10月22日 (火) 15:46 (UTC)のコメントに対する返信になりますが、わたしはそちらが#写真撮影についての節を立てて別の放送回、出演者との取り違えを含んで消す理由にしており、さすがに指摘しておかないととなったからです。なぜ「議論しろと相手に吹っ掛け」になるのか。わたしが「ゆがんだ意見ばかり」いっているというのも、そちらはYouTubeの動画視聴についてどれだけ答えているのか、考えを変えておられないのにどうしてそういったコメントがなされるのでしょうか。--図書助会話2024年10月23日 (水) 10:09 (UTC)[返信]
コメントコメント依頼から。当の番組も書籍も見ていませんが、その発言が有用かどうかですよね?その発言がバラエティ番組以外のものであっても「加納典明が徳川慶喜の写真について発言する」というのは「秋元治が徳川綱吉の絵画について発言する」と同レベルにどうでもいい発言に思えます(実際に秋元氏が発言したわけではなく例です)。同じ分野に見えても実際には違うというか、だからどうした?としか言いようがない。それに加えて笑いの演出の為に行われたと考えられる発言ともなれば、その発言には何の価値もあるとは思えません。
上記とは関係ないのですが、無断投稿されている動画の視聴自体どうなのかとは思いますし、それが編集されていないとは限りませんが、それをWikipediaの出典に使うのであればともかくそうではない使い方(おかしな内容であるとの判定)にWikipediaの出典のルールが使われるものなんでしょうか?--田村悠会話2024年10月26日 (土) 04:51 (UTC)[返信]
「秋元治が徳川綱吉の絵画について発言する」というのは例として正しくないかと。その例では漫画家が絵画を評していることになりますが、今回の場合は写真家が写真を評しています。分野が離れてるかどうかの程度が違うのではないでしょうか。上記で触れているように加納には静物を対象とした作品も存在します。笑い声については今までわたしがコメントしているように書籍版にはありません。そのため検証可能性の点で考慮はできないはずです。無断アップロードの動画が情報として認められると匿名掲示板や個人サイトに笑い声があったと書き込まれていれば情報として有効ともいえてしまうのかと。それだと自作自演もしやすいです。ウィキペディアにおいて同じ情報であっても文字のみでは認められないが動画なら認められるようなことにはなっていないはずです。考慮しようにも仮に検証可能だったとしてそれは独自研究だとも先にコメントしました。Wikipedia:コメント依頼/執筆者003が提出されているのですが被依頼者は本サイト上では会話ページなどでの言動についてそれを行った自体が問題となるのを謝罪していますが、その内容は正しくてわたしは間違っていると考えているようです。相手方はYouTubeの動画については考えは変わっていないようですし、出典として動画が使えるならウィキペディアを編集する上で無断アップロード動画を参考情報とすることは可能だと考えておられます。動画出典は公式動画という著作権についてクリアしているから出典になるのであって無断アップロードなら使えません。となるとノートでの議論などでもそれに倣うことになります。そして新たに表情を理由とした独自研究や推測としか言えないコメントもされています。--図書助会話) 2024年10月27日 (日) 20:16 (UTC)--図書助会話) 2024年10月27日 (日) 20:34 (UTC)--図書助会話) 2024年10月27日 (日) 20:43 (UTC)--図書助会話2024年10月27日 (日) 21:43 (UTC)[返信]
現代の漫画と江戸時代の絵画ぐらいに「別物」と言う事です。別に秋本氏ではなく手塚治虫氏でも誰でもよくて漫画家も芸術的な絵画、写実的な絵画もありますし発表もされている。けれど彼らが現代の視点で、それも趣味で行った事にあれこれ語っても、それは特に意味が無いという事です。明治時代の写真と現代の写真なんて「写真」という単語が同じなだけで完全に別物じゃないですか。
それでも記述したいという事であれば順番は入れ替えた方がいいかと思います。写真の評価の一番最初に加納が出てくるのはさすがにおかしいでしょう。--田村悠会話2024年10月29日 (火) 14:27 (UTC)[返信]
田村悠さんの考えでは現代と過去で別物だといってしまうと現代に活動している人物が過去の人物の作品を評しているのは情報として不適当ということになってしまいます。これは作品に限ったことではありません。本文に書かれている長野重一の評や上記で執筆者003さんが挙げられている文献ですら使えないのかと。同時代の人物による評価でないといけないとなると文献の入手しやすさも大きくことなります。わたしはどの漫画家ならいいかという話はしておらず、絵画と漫画では例として適当ではないといっています。それに当該の文は雑誌で入選した写真に関する記述のことだと上記の節で既に書いています。--図書助会話2024年11月1日 (金) 10:41 (UTC)[返信]
現代と昔の写真が違うというのは確かに図書助さんの言われる通りで失言でしたので取り消します。
ただ、残りはちょっと話がかみ合ってないようで、説明不足で申し訳ありません。
まず、徳川慶喜は写真家ではない、同じく徳川綱吉は美術家ではない。どちらも趣味で写真や絵画をしている。
では、ここで「美術家」という観点。ここで彫刻家が綱吉を評して何か意味があるでしょうか?という事です。漫画家といっても美術、絵画をしっかり学んでいる人はいて、例であげた手塚はもちろんトキワ荘の人達はお互いをモデルに模写しあっていたりもするし自画像も残している。それは漫画とは違う世界でしっかりとした絵画の技術を持っています。が、彼らは「漫画家」として名を残していて美術家として高名であったわけではない。漫画家と美術家はかけ離れた分野ではないのですが、あくまでも漫画家は漫画家。
漫画でわかりやすくいえば「ギャグ漫画で名を残した人」がシリアスなストーリー漫画の評価をしても、それは「漫画家」という大枠で見ただけであまり意味が無い。そのギャグ漫画で名を成した人はストーリー漫画も描いていたとしてそれで有名なわけではない。
写真家も人物をメインとした写真家と風景をメインとした写真家も同じく近くても違うジャンルです。
そして、バラエティ番組の発言だというのもどうしても引っ掛かってくる。ただ、前回書いた通り、私は絶対に記述すべきではないという立場ではない。執筆者003さんが掲げてくれた書籍や記述を追加し、その後に加納氏の記述ではどうでしょうか?
そして、ここは加納氏の話だったんですが、先に長野氏の記述について決めてしまいませんか?図書助さんのおっしゃる通り出典が無い状態で元は「写真(という分野が)芸術性を帯びてくるのは(日本では)昭和に入ってから」という記述であったのが今は何故か「慶喜の写真は晩年になって芸術性を帯びてくる」という記述になっており、出典が無い以上どちらが正しいかもわからない。おそらく最初の記述が正しいんでしょうが検証のしようがないので、除去してしまうべきと考えます。--田村悠会話2024年11月3日 (日) 18:06 (UTC)[返信]
あの、すみません。わたしは加納典明の作品に静物画の写真があること、雑誌で入選した作品(単に遺品を評価しているのではなく)の記述だとコメント済みです。加納には抗議活動の様子を収めた写真集もあります。漫画の話ですがギャグ作品だってストーリーもあればシリアスなときもありますし、ギャグ作品だからといってギャグのみ評価されているわけではないでしょう。シリアスなストーリーにも「シリアスな笑い」と呼ばれるものだってあります。それらへのギャグ作家の評価が認められないのでしょうか。そもそも対象としているような作品を描いたかどうかになるとそうではないことも多い研究家や評論家の言及が認められないことになってしまいます。
先に挙げられている書籍を出典に加筆されるのはいいですが、それは田村悠さんがやられてはいかがでしょう。わたしは現在、それはできないことを明言しておきます。執筆者003さんの反応は途絶えており、現状、前向きだとわかわるのは田村悠さんです。
長野重一の評については出典がないという状態ですが、執筆者003さんが加納の評がなくても、現在の文は徳川慶喜の写真の評価ができる記述だとしたことに対してわたしが返信する際に触れたのであってそこを議論するのはまた別の節を立てるなどする方がいいと思います。--図書助会話) 2024年11月9日 (土) 14:52 (UTC)--図書助会話2024年11月9日 (土) 15:24 (UTC)[返信]
牛の写真ですよね?Xで該当の番組について書いてた人がいたのでそこで見ました。その上で、やはり加納氏は違うだろうと思うのですが。誰が評価、評論しようと自由ですが、それが価値があるかどうかはまた別の話です。
太陽1998年4月号がこの話題に相応しそうですので、国会図書館に見に行くか、古本を買うか現在検討中です。時間はかかるかと思いますが、それを元に記述、加納氏の発言は下に持っていこうと考えています。長野氏の情報はどうしたものか困ってます。--田村悠会話2024年11月9日 (土) 19:41 (UTC)[返信]
田村悠さんの考えは分野としては同じだがその人のやった/やっているポスト、ポジション以外については役割や技術が違うので評価などの言及があっても出典として認められないことになってしまいます。政治なら市長のみの経験がある人による議員や国政についての言及、スポーツだと野球なら外野手はそれ以外、サッカーならゴールキーパーはそれ以外のポジションのプレーを評論や解説していても駄目なのかと。ポスト、ポジションが違うからとそれらの言及を記事から消したりするんでしょうか。そういう形で出典の幅を狭めるものではないと感じます。--図書助会話) 2024年11月16日 (土) 17:20 (UTC)--図書助会話2024年11月16日 (土) 17:22 (UTC)[返信]
論者と主題の兼ね合いかと思います。徳川慶喜という主題は、専門の学者による文献が豊富にありますから、採用すべきかどうか微妙な論者をあえて使う事情に乏しいと思います。もし徳川慶喜の写真について、徳川慶喜に詳しく権威ある専門家が論文等であまり細かく論じていないなら、ウィキペディアでもその程度の扱いで構わないということになるかと思います。これが最近のある芸能人Xが主題であって、その人の写真趣味について論じる情報源は、とかであれば、多くのアカデミックな文献が論じるような主題ではなさそうですから、また別かもしれませんが…。 --2001:240:2404:4DAB:2116:B318:BAEE:7237 2024年11月26日 (火) 08:54 (UTC)[返信]