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ノート:島々駅

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当時の画像を募集

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当時の駅舎の画像を探していますのでご協力下さい。--60.47.161.247 2007年3月9日 (金) 12:57 (UTC)[返信]
この駅を、昔はよく利用しました。小中学生から青年時代。でも、写真は持ち合わせません。かつてこの駅で働いていた人を知っています。また、写真を借りられる人を探せるかも知れません。でも、借りた写真は、著作権の問題でアップがむずかしいですかね。私には、時間をかけて「いずれ・・」なんとかなるかも程度ですね。中間報告です。--ジガンザン8108会話2013年10月10日 (木) 02:36 (UTC)[返信]

「歴史」に誤りがあります

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現在は、「歴史」部分の冒頭に「筑摩鉄道時代、島々駅は島々地区に置く上で、その設置が計画されていた。さらに計画当初では飛騨高山を目指して建設され、飛騨高山と松本の二大都市を結ぶ壮大な計画であった」と書かれているが、これは誤りです。誰が、こんなことを書いたのか? 同様なことは、アルピコ交通上高地線の「歴史」にも書かれていた。そのアルピコ交通上高地線における記述が誤りであることは、昨年4月12~16日に「ノート」に、なぜそのような誤った記述に至ったのかを探りながら書かせていただいた。それらをもとに、『曙光-80年の歩み』(松本電気鉄道株式会社社史編集委員会編、松本電気鉄道株式会社発行、2000年3月25日刊)にも当たり、昨年12月24日に、誤った内容を削除させていただきました。この「島々駅」にも、同様な誤りが残されているので、当該部分を削除させていただきます。 なお、松本から高山に抜ける鉄道の敷設は、現地を知らない鉄道省の役人により案になったことがないわけではなさそうです(そんな文献を読んだ記憶もあります)。しかし、現地を知れば「夢想」の一言につきます。実際、上條信らによる鉄道免許申請は、1回目と2回目は稲核までであったところ却下され、3回目に竜島までに短縮してから認められました。免許機関が「稲核までの線路を造り、収支償うことには無理がある」と判断したのではないか。さらに、実際には、竜島までの線路築造は資金・技術・収支の面を考慮すると放棄せざるを得なかったわけである。「筑摩鉄道時代、島々駅は島々地区に置く」は免許上からあり得ない。いわんや、「筑摩鉄道時代、・・・飛騨高山を目指し」もあり得ません。 現在、「要出典タグ」を貼られている部分は、誤謬なので、削除させていただきます。--ジガンザン8108会話2013年10月10日 (木) 02:29 (UTC)[返信]