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ノート:岩槻城

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 岩槻城の築城者については、書かれてあるように『鎌倉大草紙』の太田道真・道灌親子がありますが、「道灌公略譜(史籍雑纂苐三家傳史料6)」に「長禄元年丁丑、使三千代田、齋田、實田三氏之家臣、築二城壘於武州江戸、河越、岩築一矣、」とあり、道灌が長禄元年(1457)に家臣に命じて作らせたようです。 「1478年(文明10年)に古河公方方の忍城主成田顕泰の父成田自耕斎正等が築城したと記述された史料[3]が発見され[4]、近年は成田氏築城説が有力視され始めている」と書かれており、脚注3に「『文明明応年間 関東禅林詩文等抄録』所収の『自耕斎詩軸并序』にある記述 「武州騎西郡有村、曰岩付、又曰中扇、附者傅也、岩付左衛門丞顕泰公父故金吾、法諱正等、挟武略之名翼、有門蘭乃輝、築一城」による」とその出典が提示されていますが、ここに書かれているのは岩付顕泰であり、その父の岩付正等です。  「文明明応年間関東禅林詩文等抄録」(信濃史料第10巻)の自耕斎詩軸幷序の全文を読んでみると、「岩付自耕」や「武州崎西郡」などの記述は出てきますが、忍城や成田氏に関する言葉は見えないようです。その代わりに、「自得逍遥(自得は悠々自適して楽しむこと)」、越生に隠居して自得軒に住んだ太田道真と思われる「自得」の言葉や万里集九が江戸城の太田道灌の「静勝軒」に掲げた詩軸「静勝軒銘詩幷序」の中に詩文を書いた建長寺の「懶庵(玉隠英璵)」の名が見えます。さらに、「平成洞下の明識月江老に参じて、新豊洞(良价大師の住した洞山:曹洞宗)の唱を聞く」など太田道真,道灌父子が中興した越生の龍穏寺2世となった月江正文の名が見えます。 これらから考えると、成田正等とするのは間違いで、岩付正等であり、太田正等ですので、岩槻城の築城について一方の説として成田氏とすることは間違っていると考えます。 --Wifujishin会話2015年3月20日 (金) 05:20 (UTC)[返信]

岩槻城の築城について追記

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先にノートした、質問の追記です。  「文明明応年間関東禅林詩文等抄録」に正等の記述の前から後の記述を含めると次の記述があります。 「武州崎西郡有村、曰岩付、又曰中扇、附者傳也、岩付左衛門丞顕泰公父故金吾、法諱正等、挟武略之名翌、有門闡之輝、築一城、通南北衛、定國之候襟也、白羽扇指揮三軍守其中、曰中扇亦宣也、...」 この箇所を、太田灌氏のブログ[[1]] では、「歴史探究「岩槻城は誰が築いたか」第9回「自耕斉詩軸序」を読み解く(その3)」で、その中の一部分ですが「白羽扇三軍を指揮して、その中を守る。中扇といふもまた宜(むべ)なるかな」を「岩付に城を築いた正等は、白い鳥の羽で作った扇を持って三軍を指揮して領内を守った。岩付城には、中に白い羽扇をを持った強い武将が居て手強いぞとか、或いは安全だぞと、誰云うとなく「中扇」が岩付のニックネームになったが」と訳しており、その考え方が正しいように思い、なんとなく、その理由で納得していました。これは正しい考え方かもしれませんが、なんとなく納得できないようなところもありました。  いろいろと書かれていることに対して反論があって先のノートに書きましたが、「武州崎西郡有村」からの後は、「扇谷上杉氏方の築城した城の江戸城が前(逆かもしれませんが)、河越城が後で、岩付城が中で、岩付(岩槻)城を「中扇」と表現したのかもしれません。 --Wifujishin会話) 2015年3月20日 (金) 13:16 (UTC) --Wifujishin会話) 2015年3月20日 (金) 13:18 (UTC)  書き漏れの追加です。 「扇」は「扇谷上杉」を指すと考えます。 --Wifujishin会話) 2015年3月20日 (金) 13:33 (UTC) --Wifujishin会話2015年3月21日 (土) 00:17 (UTC)[返信]


私も個人的には、築城者は成田氏であると断定することには違和感がありますが、成田氏だと主張している専門家がいて、多くの方が賛同しているのは事実なので、現状の両論併記のままで良いのではありませんか。 --冬扇会話2015年3月21日 (土) 04:30 (UTC)[返信]

 冬扇様  ノートへの参加ありがとうございます。  私も議論は好きでなく、その両論併記のままでも良いと思いましたが、それですと図書館のレファレンスサービス相談と同じようになってしまいますので、このウィキペディアでは正しいことが書かれていなければいけないと思いました。今、ネットで検索すると、大体の言葉で検索してもこのウィキペディアのサイトがヒットします。  そこで見つけたことは、大部分の人が正しいことと思ってしまうと思います。私も最初はウィキペディアに書かれたことでも、自分で調べたことと違っていれば調べなおしたりして、それが正しいと思われるかを判断していました。  ですが、今のウィキペディアでは、何かの本を読んで、それをそのまま(脚注)に入れただけで、その本に書かれている元の原文までは読んでいないように思われました。  ここに書き込みを入れる時には、ただ誰かの本に書かれていた、ではなくて、書かれていた引用文書があれば、それを調べて自分が納得できればウィキペディアに書き込んで良いように思います。  これまで待っていましたが、無視していましたが、冬扇様以外には、ここに書き込みしてくれていませんが、もう少し待っています。ここを最初に書かれた方のご意見が欲しいと思っています。 --Wifujishin会話2015年3月29日 (日) 12:52 (UTC)[返信]

Wifujishi様、正しいことが書かれていなければならないという思いは大切だと思いますが、Wikipedia には「独自研究は書かない」、「中立的な観点で書く」という執筆基準があります。専門家により意見が分かれているとき、片方を正しく、もう一方を誤りと断定することには、私自身は慎重でありたいと思っています。 --冬扇会話2015年3月30日 (月) 11:40 (UTC)[返信]

冬扇様  この岩槻城の「室町時代」の前半部は著名な歴史学者の黒田基樹氏の著作を元にしており、後半部は郷土史研究家の小宮勝男氏の書かれた「岩槻城は誰が築いたか」が上梓されてから、多分、前半部と別の方が書かれたように思われます。  冬扇様が書かれたように、これらの本は「独自研究」に該当していると考えられ、著作した本人はWikipediaに執筆できないと思われますので、これらを取り上げてWikipediaに執筆される方は「中立的な観点」で書く必要があると思います。  私は道灌公略譜(史籍雑纂苐三家傳史料6)から太田道灌が築城したと思っていますが、これは独自研究になると思いますので、Wikipediaの本項には執筆できません。  「中立的な観点」からすると、前半部の「近年は成田氏築城説が有力視され始めている」は主観的な見方で、執筆基準から外れていると考えます。  貴重なご意見ありがとうございました。 --Wifujishin会話2015年4月2日 (木) 23:16 (UTC)[返信]