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ノート:塩狩峠

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分割依頼

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  • 塩狩峠から塩狩峠 (小説)へ分割すること提案します。いかがでしょうか。--Norio-abc 2007年12月12日 (水) 03:02 (UTC)[返信]
  • (いまは反対)提案をするときには、「理由」を明示して下さい。理由が分からないと審議が困難です。そのうえでコメント。いまは峠についても小説についても分量が少ないですから、分割する意味が見えません。現在の記事に十分な加筆がされたときに考えれば宜しいのではないでしょうか。--はるひ 2007年12月12日 (水) 03:50 (UTC)[返信]
  • はるひさんのおっしゃることは、ごもっともですが、地理の記事と小説の記事がいっしょになっているのが、構成として好ましくないのが理由だと推察いたします。ですが、地理の説明の部分もさることながら、小説の部分の記述があまりにも乏しくて、Wikipedia:ページの分割と統合#分割すべきでない場合に抵触してしまうのは確かです。はるひさんのご意見の通り、もう少し分量を増やしてからの方がいいでしょう。映画についてももっと加筆する余地があると思いますが、その場合、小説と映画の記述が同一の記事内になってしまうので、分割する際の記事名も再考したほうがいいでしょう。さすがに、地理と小説と映画を全て分割できるほどの加筆は無理かと思いますので。--Rollin 2007年12月12日 (水) 04:08 (UTC)[返信]
  • キリスト教徒であった事実をことさら強調し、まるでキリスト教徒だったからこのような行動に出たような構成になっていることに違和感を感じます。このような書き方は、たとえば「○○県民であった長野が・・」「血液型○型であった長野が・・」とか書くのと同列であり、行為との因果関係は不明です。彼がキリスト教徒であった事実を強調している人たちがいるのは事実ですが、キリスト教は宗派によっては自殺を大罪とみなして自殺者の葬儀を拒否するくらいであり、長野の「自殺」行為と彼の信仰との因果関係は第3者にはまったく不明です。キリスト教徒であった事実をここに書くことに反対はしませんが、彼がキリスト教徒だったゆえにこのような英雄的行動に出たというような表記方法は恣意的であり、変えるべきです。--217.235.46.140 2009年2月27日 (金) 20:56 (UTC)[返信]
  • 長野自身がキリスト教徒であったゆえに列車に飛び込んだことは、三浦が調べた資料から判断がつきます

また、私はクリスチャンですが自殺は大罪ですが彼は自殺ではなく殉教です。ゆえに、信仰によっての行動(信仰を持ったゆえの)と考えて良いと思います j6

  • 長野の行為は殉教とか自殺とか以前に、国鉄職員としての使命感からの殉職なのでは。あと、三浦が調べた資料の信憑性は低いと思います。身を挺して止めたときの心理状態を長野自身が日記に残したりしてるはずはないので。--220.104.214.232 2009年8月8日 (土) 05:47 (UTC)[返信]

脚注について

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「長野はキリスト教徒だった。そのため列車をとめたのは一種の自殺行為ではなく、単に誤って転落したのだとも言われる。」と、あるが 何故にキリスト教徒だったから事故とされるのかがこの分ではわかりませんし、また、関係ないと思われます また、キリスト教会ではこの塩狩峠は広く知られており、自殺としてではなく殉教として受け入れられています 事故ではないかと言うのは、ごくごく一部の解釈でしかなく、鉄道院自体もこれを氏の意思において事故を未然に防ぐための処置として 記念碑を建てています。 ですので、この記事は消させていただき、また、記念碑に書かれている文章の一部を掲載させていただきます--ミニラ 2010年5月10日 (月) 13:50 (UTC)[返信]

ShikiHでございます。殉教であることを否定しているのではありません。自分の身を投げ出してまで暴走列車を止めるのは止めるのは一種の自殺行為で、キリスト者にあるまじき行為ではないかという批判がありました。それに対して、転落はあくまで長野が意図したものではなく、誤って落ちたのだがそれが結果として乗客の命を救ったものだ、という反論があります。わたしはこの反論を支持するために、該当の注を書きました。本文も、故意に身を投げたと書かないように配慮してあります。顕彰碑も「乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ」と事実関係を述べているだけで、身を投げたかのか、誤って転落したのかについては触れていません。わたしはミニラさんのようには、故意であろうが事故であろうが関係ないとは思いません。殉教とするためには、身を投げたのではないほうがいいと思って注を書きました。わたしは注を復活しませんが、再考してくださると幸いです。--ShikiH 2010年5月10日 (月) 17:46 (UTC)[返信]
ShikiHでございます。少し経ちましたが本文の編集はありません。それが一番落ち着いていていいと思います。わたくしはいろいろな立場の人の配慮して書きましたが、殉教とか自殺とか事故とか、いずれも書かないのが百科事典としては最良と思います。--ShikiH 2010年5月18日 (火) 17:27 (UTC)[返信]


再び分割提案

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前回の提案時よりも小説・映画についての記述が増えたようですので、さらにバランスの悪い記事になっていると思います。「Wikipedia:ページの分割と統合」の「ページ中で特定の説明だけの分量が多く、明らかにバランスを失している場合」に該当するのではないかと思われますので、再度分割を提案いたします。ただし峠そのものについての記述が少ないので、さらなる記述の充実をはかる必要があるかとは思います。 さえぼー会話2013年8月22日 (木) 11:53 (UTC)[返信]

鉄道事故について

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明治42年2月28日と古い鉄道事故に詳細な記録などなく、判明している実態は

  • 塩狩峠付近の登り勾配を進行中の名寄発旭川行の終列車で列車分離事故発生→車両逆行・逸走→職員がデッキでハンドブレーキを操作するも転落して床下に巻き込まれる→車両停止

おおむねこのような事柄です。乗り合わせた乗客の証言は照明不十分な夜間に「デッキ上から車内にうなずいたように見えた」というあいまいなもので、ましてパニック状況下では信頼性は低いといわざるをえません。遺書を携帯していたとのことですが、それは故人の心持や信条を表しているものではあってもその場で「犠牲的精神を発揮して飛び込んだ」ことの証明にはなりえず、故人の信条・思想・信仰・人格や、小説発表後に設置された顕彰碑の存在なども事実関係の証明には一切なりえない事です。現場の行動についてなんら言及せず当事者がその場で死亡している以上いかなる方法を用いても「客車を停止させるために自ら飛び込んだのかそれともブレーキ操作中にバランスを崩して転落したか」断定することは不可能です。

よって記事中から情緒的な記述と「根拠不明な断言」を削除させて頂きました。個人的には事実関係を調査・発表する際に憶測・願望・思想・信仰などの「都合」を織り込む事や、ましてフィクションである小説と実際の出来事を混同する事は避けるべきだと思っています。まぁわからないことはそのまま「わからない」と書けばよろしいのでは?だって実際にわからないんですから。--DY28D35会話2018年3月26日 (月) 13:52 (UTC)[返信]