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ノート:吾妻鏡

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北条氏の立場を正当化する政治的意図

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「北条氏の立場を正当化する政治的意図には注意が必要」というのはそのとおりであり、例としてあげられただけに止まりません。ただし、それらは「吾妻鏡」全体の中の1/10程度のものであり、2つの事件の真相だけを詳細に紹介することが、吾妻鏡の理解につながるとはとても思えません。 実際には現在吾妻鏡を参照している人はそんなこと十分に承知だと思いますが。

「政治的意図には注意が必要」という実例は、事件名をいくつか列挙すれば事足りると思います。 また、信頼性に欠ける点を挙げるなら、もうひとつ、編集の段階で「年」をごっそりと間違えてしまったと思われる部分もあります。 それらも含めて、作為が認められる事件と同時に、信頼性の高い、あるいは史料価値の高いとされる点、こちらは「分野」でかまわないと思いますが、それを同時にあげないと、吾妻鏡の説明にはならないと思いますが如何でしょうか。そういう全体像の観点から、再編集していただければと思います。 --KTMCHI 2007年12月22日 (土) 13:16 (UTC)[返信]

IPで失礼します。作為事件の箇所はほとんど手元の書籍丸写しになってしまい、問題有りかと思い自主的に削除しました。 >実際には現在吾妻鏡を参照している人はそんなこと十分に承知だと思いますが。 wikiは「子供からお年寄りまで読むもの」「自分にとって説明の必要のない事でも読者にとっては必ずしも明らかでないので、読者がすでにわかってると決めつけて書いてはいけない」というのが基本方針だと思うので、それはどうかと。

自分はまったく素人で資料も一般書籍に限られるので、詳しい方がいればお任せしたいです。『吾妻鏡』をまったく知らない人が読んで理解できる項目にしていただければ幸いです。 125.31.77.164 2007年12月23日 (日) 05:45 (UTC)[返信]

再編集有り難う御座います。
> wikiは「子供からお年寄りまで読むもの」「自分にとって説明の必要のない事でも読者にとっては必ずしも明らかでないので
という点はおっしゃる通りだと思います。言葉足らずで失礼を致しました。で 125.31.77.164 さんが最終的に編集された版(2007年12月23日 (日) 16:01時点を見ていますが)については、この要約にはまったく異存はありません。「吾妻鏡の作為」に注意を喚起するには十分な内容だと思います。でも、宿題を頂いちゃったみたいですが。(笑)--KTMCHI 2007年12月23日 (日) 10:37 (UTC)[返信]

125.31.77.164さんにお願い 

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125.31.77.164さんに頂いた宿題をなんとかしようと現在作業中ですが、「作為事件の箇所はほとんど手元の書籍丸写しに」という書籍名を教えて頂ければ幸いです。その成り立ちからしても「作為」「曲筆」は勿論あります。その全てを書き出すことは全体評価の中では、そしてここで可能な記述の長さの中ではバランスを崩してしまいかねませんが、「作為」「曲筆」についてきちんと書かれている書籍を紹介することは、多くの読者にとって価値のあることかと思います。--Ktmchi 2008年3月20日 (木) 12:08 (UTC)[返信]


IP変わってて失礼します、元125.31.77.164です。Ktmchiさんの執筆記事をいつも楽しみに拝見させて頂いております。参考にした書籍に関してですが、他にもよく参考文献として上がっている石井進氏の『日本の歴史 7 鎌倉幕府』(中央文庫)で、P308~324の「悲劇の将軍達」「梶原景時粛清事件」「幽閉された将軍」です。
こちらの記事の2005年11月30日 (水) の編集で、史書としては不審な部分もあり、その記述内容全般を信頼することはできない。という書き込みのあと、←吾妻鏡は根本史料と認められており、信頼できないというのはやや拙速ではないか。
というやり取りがコメントアウトされており、この意を受けて吾妻鏡の不審点の具体例を上げるべきかと思い、自分が読んで分かりやすかった前述の本の記述を書いてみたのですが、丸写しでマズかったのと、吾妻鏡の史料としての価値に踏み込む部分でもあり、もっと色々調べないと意味がないと判断して削除した次第です。
他の吾妻鏡を史料としてあげている記事で、「信用出来ない史料である」と書かれていた事もあり、それもまた極端な意見で、やはりこの時代を調べるには外せない史料だと思いますし、そのあたりのもどかしさというか難しさは、単にライトな源平好きに過ぎない自分にはとても手に負えない分野であるので、Ktmchiさんのような方に書いて頂ければ何よりです。自分の執筆部分は消して頂いても改変して頂いてもまったくかまいませんので。--203.135.247.103 2008年3月20日 (木) 17:55 (UTC)[返信]
う~ん、そんなとこまで見てませんでした。いろんな歴史があるんですねぇ。「記述内容全般を信頼することはできない」は「全部信用出来ない」という意味でなくて「全部は信用できない」だと思うので、まことにその通りと私も思います。「吾妻鏡は根本史料と認められており」というのも「どの部分が」というのが無いと「おい、全部信用するのかよ!」ってなっちゃいますね。結局はどっちも正しいと思うのですが、でもそういうやりとりはここノートでやって欲しかったですね。
「源頼朝の死亡時期の記述がないなど、史書としては不審な部分も」というのはなんと石井進氏も言っているようです。五味文彦氏が座談会でそう言ってました。でも五味文彦氏はそもそも未完だっただけなんじゃないかと。
ところで石井進氏の『日本の歴史 7 鎌倉幕府』ですか。その前後は文庫本じゃない大昔のものを神田の古本屋で100円200円で買って持ってるんですが、7巻だけ持ってないんです。しょうがないから文庫本を買おうかなぁと思いつつ、アマゾンで検索したらなんと127円で出てました。送料を入れたら467円になっちゃいましたが、まあいいか、と今注文しました。(笑)--Ktmchi 2008年3月21日 (金) 17:53 (UTC)[返信]

雑談に近いが失礼 

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質・容量とも見違えるほど立派になったと思います。加筆した方々、ご苦労様。何て言うか、きちっと学術研究に則って書かれた記事というのは、一種のすがすがしさを感じるのは、私だけなのだろうか。Wikipediaで行われる月刊新記事とか、何とかコンテストとかでも参考文献の選び方まで、立ち入った審査だったらなぁ、と思う今日この頃です。重要な史料だし、いずれは海外のWikipediaに翻訳されればよいなと思う。--修正者 2008年5月25日 (日) 16:08 (UTC)[返信]

修正者さん、過分なお言葉を頂き有り難う御座います。もっとコンパクトにまとめるつもりで始めたのですが、とうとうこの長さになってしまいました。松茸さん、玄史生さん、春秋君さん、お手数をおかけしましてすいません。特に『中世法政(ホントは「制」)史料集』 は「ガーン!」でした。安達時顕尾藤時綱(藤原定員も)は新規項目追加に疲れてきて、リンクを付けずに誤魔化したんですが、やっぱり書かないとダメですかねぇ。トホホホホ(与太話しですけど)。ちょっとお休みをしてから項目追加します。--Ktmchi 2008年5月26日 (月) 11:40 (UTC)[返信]

記事の分割

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Ktmchiさんが大幅な更新準備をしておられるとの事で大変楽しみです。記事の長さを考慮して色々と削ってしまうのももったいないですし、一部を分割すればよいのではないでしょうか。歴史学者の方々による研究の変遷は、十分独立記事になるかと思います。--Gokenin 2008年10月2日 (木) 09:43 (UTC)[返信]

Gokeninさん、ご意見有り難う御座います。実は少しは削ったのですが、気になるところを書き直していたら、逆に長くなってしまいました。困った、実に困った、云ってることとやってることが違うやんけ!俺。 ただ、読む方のニーズのレベルによって、途中までの章でもある程度の全体像が解るように章構成を変更してみました。
というのはまだ下書きページでの作業ですが。1分程度で理解したい人は「頭書」だけ。3分ぐらいでというなら「1.概要」までで。10分ぐらいは読むぞ、というなら「2.吾妻鏡の研究史」と「3.編纂時期」まで。もうちょっと深入りしたい人は「4.後世の編纂物と伝承の利用」「5 吾妻鏡の曲筆」6 得宗家の顕彰」まででも十分意味が通じるように。それ以上読む人はおそらく五味文彦先生の『増補 吾妻鏡の方法』ぐらいは読んでいるか、あるいは鎌倉時代にはかなりの関心をお持ちの方だろうと思いますので、それならもうとことんお付き合い下さいって感じの構成にしてみようかと下書き中です。特に昭和の研究については出版物を手に入れるのもなかなか難しく、更にネット上にはほとんど出てこないので長くなってしまっても紹介ぐらいはしておくべきかと思いました。
ただまあ3分ぐらいで、とか10分ぐらいで読みたいという人にも、「五味文彦ぐらいは読んどるわい!」って方々にも十部に役に立つものにしたいと思っています。それが成功するのかどうかはさっぱり解りませんが。--Ktmchi 2008年10月4日 (土) 11:22 (UTC)[返信]
まだアップには至りませんが、下書きで冗長な細かい処だけ削ってやっとこさ現行のものよりも短くなりました。ほんのちょっとだけですが。基本的には「バッサリ」とはやらないで改善しようと思います。画像とかも更新・追加しようと思いますが、やり方はこれから調べるところです。--Ktmchi 2008年10月7日 (火) 15:04 (UTC)[返信]

八代国治以降、五味文彦に至るまでの研究を反映

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5月25日に投稿して以来、自分のサイトで追加情報をまとめていましたが、今回それを反映させて再度の全面改定を行いました。章立ても変更しましたがそれについては2008年10月4日 (土) に述べた通りです。

内容の面での主な点は、昭和の時代の研究を反映させたことです。 5月25日版では八代国治の『吾妻鏡の研究』をベースに五味文彦先生の『増補 吾妻鏡の方法』で補ったようなもので、その間の研究は五味文彦先生の御本の孫引き程度で、実を言うと自分でも良く解っていない処が多々ありました。それは、その間の研究は完全に専門書、というか学会誌の世界であり、入手が非常に困難であったということもあります。

現時点では、完全とは言えないまでもなんとか主だったものには目を通し、それによっていくつかの論点についてはそれなりにポイントを整理して書けるようになったと自分では思っています。と言ってもそれはあくまで自分の主観であり、他の方の目にはどう見えるかは非常に怖いところです。ご意見ご批判をお待ちしております。怖い物見たさで(笑)

尚、画像も差し替え、かつ追加しました。 そうそう、書き加えた分も多いですが、その分必死に贅肉を削りました。差し引数パーセントの縮小に過ぎませんが、ともかく肥満だけは避けられたかと。--Ktmchi 2008年11月2日 (日) 17:07 (UTC)[返信]

本当にお疲れ様です。アップされるのを待って、秀逸候補に推薦してきました。(いい推薦文が書けなくてすみません)--Gokenin 2008年11月2日 (日) 18:31 (UTC)[返信]
うわっ、早! 有り難う御座います。また暫く休みながらのんびりと周辺項目の加筆でもしていこうかと思います。--Ktmchi 2008年11月3日 (月) 08:03 (UTC)[返信]

図書館のリンクについて

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長野電波技術研究所附属図書館のサイトは見てみましたが、『吾妻鏡』に関する有益な情報は得られませんでした。「吾妻鏡(本文)の複写コピー依頼ができる施設」とありますが、吾妻鏡(本文)のコピーはそれが置いてある図書館ならどこでも出来るでしょう。古活字本の画像は載っていますがいつのどの判なのかも解りません。古活字本ではなくそれ以前の写本であるなら、例え断簡でも一部の研究者にとっては価値のあるものになるでしょうが、古活字本であればそれを必要とする人は極めて限られてくると思います。 たとば早稲田大学図書館サイトでは寛永3年校点:菅聊卜 跋:林羅山(道春)のいわいる寛永古活字本をそれと明示してHTML及びPDFで全巻全ページを公開しています。載せるならむしろこちらの方でしょうが、そこまで本格的に調べる人は既に自分で十分な情報を持っているだろうとリンクには載せませんでした。長野電波技術研究所附属図書館のリンクはそれ以上に載せる価値のあるものでしょうか。--Ktmchi 2008年11月3日 (月) 12:35 (UTC)[返信]

「秀逸な記事の選考」でのらりたさんのご質問について

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Wikipedia:秀逸な記事の選考/吾妻鏡の方で、らりたさんからアドバイスとご質問を頂きましたので即答出来る下記のご質問の部分だけ先にお答えいたします。

編纂時期:八代説の説明に付いて、「3点に注目」し、「以上から『吾妻鏡』の編纂は1290年から1304年の間と見るか、あるいは宗尊将軍記だけが1290年以降であり、それ以前は1242年以降1304年までのどこか、という事になる」というのは八代氏がその後の「編纂二段階説」を述べる前置きとして『吾妻鏡の研究』にて述べられていたということなのでしょうか?

「3点に注目」したのは八代国治ですが、八代国治は2段階説を説いてから、前半の編纂時期推定の理由として1点目を述べ、すぐ1205年(元久2)6月22日条の「左京兆是也」に言及して「前三代将軍記は文永2年(1265年)3月28日から同10年(1273年)5月18日の間に於いて編纂したるものと考ふるは至當のことと信ず」としています。その次ぎに(4ページぐらい後に)八代国治は後半の年代推定に移り、宗尊将軍記の袖書から2点目3点目を指摘して1290年から1304年の間だとしています。

従って「3点」が「「編纂二段階説」を述べる前置きとして『吾妻鏡の研究』にて述べられていた」のかと言う点は、意味的にはそうですが、記述の順番としては違っています。また「以上から『吾妻鏡』の編纂は1290年から1304年の間と見るか、あるいは宗尊将軍記だけが1290年以降であり、それ以前は1242年以降1304年までのどこか、という事になる」という部分は、袖書にある3点だけから言える範囲はということで、問題点を整理するためにこういうまとめ方をしてみました。ここは図を書きながらかなり考え込んだ点で、まさかここを質問されるとは。くだけて言えば、鋭い突っ込みで「ギク!」っとしました。(笑)

追記(らりたさんには不要な蛇足と思いますが、他の方の為に)

「袖書」とだけ言っても、一般に「袖」とは古文書の右端のことで、「袖書」は序文みたいなものですが、ここでの「袖書」は、各将軍記の巻頭にその将軍のときの天皇とそのときの摂政、關白が記されているものです。国文学研究資料館サイトに載る「吾妻鏡本文データ」から実物(?)を紹介します。

1点目は、頼朝将軍記である1巻巻頭の袖書(該当部分に飛ぶのに2~3秒がかります)で、この時期の天皇としてまず「安徳天皇」、その次ぎに

「後鳥羽院(諱尊成。)同第四皇子。御母、七條院、(贈左太臣修理大夫信隆女)壽永二年八月廿日、踐祚。(春秋四歳。)元暦元年七月二十八日、即位。(五。)文治六年正月三日御元服、(十一。)建久九年正月十一日、御脱■。承久三年七月日、遷御鳥羽院。同八日、落御餝。(御法名。)同十三日、遷御隠岐國。延應元年二月廿二日、崩御。(六十。)五月廿九日、追號顯徳院。仁治三年七月八日改顯徳院、爲後鳥羽院」

とあります。「崩御」の後に「仁治三年七月八日改顯徳院、爲後鳥羽院」とあり、これが1点目で1242年です。

2点目と3点目は、第42巻の宗尊将軍記の袖書

院(諱久仁)後嵯峨院第一皇子。御母大宮院、(大政大臣從一位實氏公嫡女)。寛元々年八月十日、爲太子。(春秋七)四年正月廿九日、御受禪。同三月廿一日、御即位。同五年正月三日、御元服。(十一。)正元々年十一月廿六日、御脱■。正應三年二月十一日、御落餝。(御法名素實)

とあり、「院(諱久仁)」が後深草院のことで「正應三年二月十一日、御落餝。(御法名素實)」とはあっても、後鳥羽院のように「崩御」も「後深草院」との追號も書かれていません。「正應三年二月十一日、御落餝」が2点目の1290年で、書かれていない「崩御」が1304年7月8日で3点目です。

実物の写真は早稲田大学図書館サイト1巻から12ページ以降15ページ冒頭までです。ここでの「新刊吾妻鏡」は両方とも「吾妻鏡の諸本」の章の北条本に紹介した古活字本の寛永版です。 --Ktmchi 2008年11月14日 (金) 14:34 (UTC)[返信]

「選考」でのКОЛЯさんのご指摘について

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「秀逸な記事の選考」でКОЛЯさんにもアドバイスを頂きました。有り難う御座います。長くなりますのでこちらに書かせて頂きます。

  • 「後世の編纂物と伝承の利用」の節ですが、『吾妻鏡』は鎌倉時代についての最大の史料なので、ほとんどのことを『吾妻鏡』をベースに理解しようとする傾向が根強くあります。八代国治が怒りまくっていたのはそうした傾向に対してなのですが、(ネット上で読める八代国治のものには「北条時頼の廻国説を論ず」があり、それで良く解ります。)それは今でも非常に根強いものがあります。逆に『吾妻鏡』の事実と相違する部分は編纂者が事実を知っていながら曲筆をしたというような見方も。これは八代国治もそうですし、5月段階では私自身その傾向が強かったようです。そうじゃないんじゃないかと研究者が思い始めたのは私が知る限りでは1960年代以降かと思います。
    例えば麻木脩平氏は吾妻鏡の研究者ではなく美学美術史学科の教授の方ですが「『吾妻鏡』の一断面」という文の中で「これではまるで説話の世界である。・・・しかし北条氏の政治的立場と何ら関係のないこのような話を、いったいどういう理由から潤色したものか、私は未だに編者の意図を計りかねている」と書かれています。実にごもっとも。しかしその話を『吾妻鏡』の研究者にしたら多分「いや~そんなもんですよ、不思議じゃありません」と言われると思います。要するに編纂者が「潤色」した訳ではなくて「後世の説話」をあたかもそのときの話しのように鋏と糊で編纂しただけ、編纂者は「説話」と「史実」の区別なんて概念は持っていなかったんじゃないかと。そういう吾妻鏡感のギャップを埋めていくにはきちんと事例をあげていく必要があると思いました。今回の書き直しの主眼のひとつは、前の版のあちこちに分散していた記述を「後世の編纂物と伝承の利用」の章にまとめて強調したことです。
  • 「執筆者の主観的断言と思われる表現」のご指摘は、廉さんのご指摘に対するお答えにも書きましたとおり一部残ってしまっているようで、それについては後で削除しようと思います。「「源氏対平家」ではない」と言うこと自体は上杉和彦氏の『源平の争乱』や、参考文献にはあげていませんが川合康氏も『源平合戦の虚像を剥ぐ』などで書かれており、既に通説になっていると思って特に注記も付けずにそのまま書いてしまいましたが、やはりはしょらずに出典を示しておくべきだったと思います。ご指摘有り難う御座います。
  • 「変体漢文」「東鑑体」については、『吾妻鏡』を解説した本や論文では「和風漢文」と書かれるのが一般的と思いますが如何でしょうか。「変体漢文」と言われればそうだとは思いますが、日本史の文献の中ではあまり見たことがありません。「漢文」には素養が無いので的を射ているかどうかに自信はありませんが『吾妻鏡』の方言みたいなものもあるようなので、それが狭義に「東鑑体」と言われるのかと思います。「和風漢文(東鑑体とも)で書かれている」とすれば広義・狭義ともに言い表せるのではないでしょうか。
  • 「参考文献の並び順」は、書かれた時代に関係無く並列のものであれば「五十音順」がひとつの秩序として良いと思いますが、研究史のようなものでは書かれた時代に非常に大きな意味があると思い、年代順に整理しました。特に今回は明治時代から平成20年まで100年以上の巾がありますので。『吾妻鏡』の文献一覧で一番充実していると思うのは高橋秀樹氏の「『吾妻鏡』文献リスト(稿)」で私はこれを参考に資料を集めていますが、分類の中では年代順なので非常に助かっています。
  • 「流布している俗説」項については、少なくとも私の知る限り『吾妻鏡』の研究者はそんな説は相手にすらしていないので、最近の概説では触れてもいません。「吾妻鏡の諸本」の成立過程をちょっとでも読めば、何の根拠もない想像の産物に過ぎないことは解るので、文章の流れを阻害するならバッサリとカットしてしまうというのでも良いかと思いますが、どうしますかね。
  • 「三大実録の2倍」は私が書いたのではないので、220.104.219.214さんに答えて頂くしか無いのですが、多分「国史大系」での厚さぐらいじゃないでしょうか。その記述って必要なんだろうかとも思いますが。例えば「中右記」や「小右記」「明月記」と比べたら、と並べても意味は無いような。「きつかわ」は「きっかわ」ですね。失礼しました。「45巻」というのはおっしゃる通り「第45巻」の意味です。これもすいませんでした。--Ktmchi 2008年11月15日 (土) 04:50 (UTC)[返信]
お返事は、選考の方に書いておきました。--КОЛЯ 会話 2008年11月15日 (土) 16:45 (UTC)[返信]
КОЛЯさんの指摘の様に『国史大辞典』では「和風漢文」は立項されておらず、「変体漢文」のみ立項されていますが、その『国史大辞典』の「吾妻鏡」の項では「吾妻鏡体」「和風漢文」という表記がなされています。そしてその説明に「当時の代表的日用文体」とあり、そして「吾妻鏡体」の項目が「変体漢文」にリンクされています。wikipediaでの「変体漢文」の説明は「正則漢文(純粋漢文)」でないもので、日本に限らないより広い範囲を指しているようですので、ここでは『国史大辞典』の「吾妻鏡」の項の表記に従いながwikipediaの「変体漢文」にリンクさせる方法を採りたいと思います。--Ktmchi 2009年1月31日 (土) 16:56 (UTC)[返信]

転載?

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[1]あたり転載なようです。もう少し調べて転載と判明すれば削除依頼に出します。外部サイト側がコピーしている可能性もあるし、外部サイト管理人の方がWikipediaに書き込んでいる可能性もあります。--fromm 2008年11月20日 (木) 02:21 (UTC)[返信]

執筆された利用者:Ktmchi会話 / 投稿記録 / 記録氏は、外部サイトの方と同一なのですね[2]。失礼しました。--fromm 2008年11月20日 (木) 02:31 (UTC)[返信]
frommさん、ご確認頂き有り難う御座います。以前に「奥州後三年記」の時だったかな? 即刻削除依頼を出されて読めなくなっちゃったことがありました。翌日「即時存続」にはなりましたが。利用者ページには「本籍地」を明示していたんですがね。そのとき Law somaさんからのアドバイスもあり、サイトの方にも[3]を書いておいたものです。今回は削除依頼前にきちんと確認して頂き感謝いたします。--Ktmchi 2008年11月21日 (金) 16:32 (UTC)[返信]
今更ですが気づいてしまったので。アドバイスをされたのはkyubeさんです。私はそのとき雑談を楽しんでいましたので(笑)--ろう(Law soma) D C 2008年12月25日 (木) 04:10 (UTC)[返信]
ちゃいまんがな「サイトの追記は、本依頼終了後も残しておいた方が」と仰ったのはろう(Law soma)さんですって。それから永久版(笑)に書き直したんで御座いますよ。あのときは有り難う御座いました。--Ktmchi 2008年12月25日 (木) 12:28 (UTC)[返信]

らりたさんのご指摘と今回の改訂について

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章立ても含めてだいぶ変更しました。

「江戸時代の研究」については「近代の研究」以前ということで、「2 吾妻鏡の研究史」を「2 研究史の概要」として「2.1 江戸時代の研究」「2.2 明治から現在までの研究」としてみました。「2.2 明治から現在までの研究」は、元の「2 吾妻鏡の研究史」の内容ですが、明治大正の研究については、星野恒と和田英松の論文を直に読んだことで認識を新たにしたこともあります。ただ、この章はあくまで「研究史の概要」ですので、この章の中での和田英松の扱いはさほど変わってはいませんが、後の章で触れるています。

「江戸時代の研究」については八代国治が大正2年に『吾妻鏡の研究』で詳しく紹介して以降はほとんど触れられることが無く、明治時代の『吾妻鏡集解』に修められた江戸時代の資料の原文を参考としました(ちなみにこの『吾妻鏡集解』が倉庫から出てきたときには仰け反りました。和綴だったんです)。この江戸時代の資料のおかげで「頼朝の死は家康が削除」の俗説がどこから出てきたかが解ったのは思わぬ収穫でした。

この記事全体のボリュームからすると、もっと短くてもとは思ったのですが、概要といえどもこれ以上カットしてはかえって書く意味がなくなるかとも思います。悩ましいところではありますが。

「歴史資料としての価値」の位置についてのらりたさんのご意見は幾つもの章の中に埋没させるべきではないという意味と受け取りました。で、これもだいぶ悩んだのですが、元々の意図はそれ以前に書いてきた研究史の「最後のまとめ」のつもりだったんです。と言うと、その後ろに「諸本」があったじゃないかと言われそうですが、私の頭の中では「諸本」は付録、本文は「歴史資料としての価値」で終わり、というつもりだったのです。しかしWikipediaの目次ではそうは受け取れませんね。そこで「諸本」と前後を入れ替えてみました。それ以降は「脚注」や「参考文献」ですから誰が見ても本文の終わり、この記事のシメと見えるのではと。

それとこのえらい長い記事の最後を、この明治から平成までの研究者の、「吾妻鏡の価値についての意見の要約」をおかないと、この長い文章を我慢して読んでくれた人が「で、結局どうなの?」ということに何も答えられない尻切れトンボになってしまうんじゃないかと思います。そうならないようにちゃんとした文章を書ければ良いのですが、残念ながら。

全体の構成については「絶対にこれが正しい」などという自信は無く、非常に迷いながらでありますので、皆さんの積極的なアドバイスをお待ちしております。

あと、「9 『吾妻鏡』の背景」の部分を「9 『吾妻鏡』編纂の意図と背景」と章名を変更して、記述を整理しました。前の版では自分でも「これでは人に伝わらない」と頭を抱えていた部分でしたので。和田英松1912年の「吾妻鏡古写本考」を入手(図書館でコピー)出来たことが頭の整理にえらい役に立ちました。

廉さんに「八代国治は『吾妻鏡』に恨みでもあるのだろうか、と思いたくなるぐらい『吾妻鏡』を語気強くこき下ろす」という部分を指摘されましたが、廉さんの指摘はまったくその通りです。私の感想です。ただ、八代国治は確かにある意味感情むき出しに書いています。しかし最近、八代国治の「恨み」は『吾妻鏡』に対してではなくて、『吾妻鏡』を持ち上げて『太平記』を全否定した星野恒とに向けられていたんじゃないか、つまり明治時代の国史編纂をめぐっての重野、星野、久米らと、川田剛や国学系・水戸学系歴史家との対立が尾を引いているんじゃないかと思い出しました。とこれは雑談ベースの「独自見解」ですが。(笑)

で本論に戻りますと、最近気にしているのは同じ史料編纂掛で、同時代に、おそらくは連携して吾妻鏡研究を進めていた熱血漢八代国治に比べて、和田英松の記述が実に冷静沈着なことです。今回の改訂は、陰謀だの曲筆(たしかにあるけど)に振り回されずに冷静に史料に向き合うという方向を多少は反映したものになったのではないかと思います。多少ですが。

「だったらこの記述は何だ!」というご指摘をお待ちしております。(>ALL)

КОЛЯさんのご指摘についてはまた明日にでも改めまして。--Ktmchi 2008年12月25日 (木) 16:18 (UTC)[返信]

「流布している俗説」について

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「秀逸な記事の選考」の方で、КОЛЯさんが「流布している俗説」つまり「頼朝の死」に関する部分を家康が隠したという俗説を「編纂の過程に関わることかと」とおっしゃるのは『吾妻鏡』に関してそれなりの見識をお持ちだからと推察致します。

この問題は2つに分解すべきだと思います。(1)として、誰もが関心を持つ「頼朝の死」に関する部分が『吾妻鏡』に無いのは何故なのか・・・。(2)として「頼朝の死」に関する部分を家康が隠したんじゃないか・・・。の2つにです。КОЛЯさんが「編纂の過程に関わることかと」とおっしゃるのは(1)の問題だと思います。しかし「流布している俗説」は(2)のことです。

(2)の俗説がどこから発生したかというと、江戸時代の「老談一言集」からだと思います。今回本文に書き加えたように、江戸時代後期に『吾妻鏡』の研究をしていた近藤守重が(探検家としての方が有名ですが)「老談一言集に東鑑の頼朝死去の所をば、大神君(家康)仰せに名将の疵に成る事をば後世につたえぬにしかじと とりて破て御捨被成候よしとて脱したりとあり。然れども応永写本にも頼朝卒去の一条なければ俗説信ずるに足らず」と『御本日記続録』に書いています。論拠は明快です。

「応永写本」とは和学講談所温古堂に所蔵されていたもので、大正時代頃は「黒川本」と呼ばれてたものと同一であろうと思われています。家康が収集したものとは別の写本です。家康が抹消出来たとすれば、それはいわゆる「北条本」だけです。家康が出版させた慶長版や寛永版などの古活字本にその部分が無くて、家康が収集した江戸城紅葉文庫に伝わる古写本にそれがあるなら家康の意向、または同意なしにはあり得ないでしょう。紅葉文庫の古写本にも無いが、その他の古写本にはあると言うなら、紅葉文庫の古写本段階から家康が隠したのかもしれないと言うことは出来ます。しかし近藤守重が言うように家康が知る筈のない他のどの古写本にも、南北朝時代に金沢文庫で作られたと見られる全52巻とする目録にもその3年間はありません。つまり(2)が「俗説信ずるに足らず」、もっとはっきり言えば事実無根、笑止千万、荒唐無稽とすら言える理由は北条本以外の古写本にあります。 以前の記述には「欠落が偶然散逸した結果なのか、意図的に抹殺されたのか等、議論が分かれるところである。」と書かれていましたが議論は別れやしません。議論にならないのです。 明治時代にも星野恒が「世俗本書ニ頼朝死去ノ条ヲ失スルヲ見テ、種々ノ憶説ヲ架スルハ皆無稽トス」(『史学叢説』1 p597割書)と書いています。

  • 私はここでは「老談一言集」と書きますが、それは近藤守重が「老談一言集」と書いているからで、おそらく現在「老談一言記」と云われているものと同じだろうと今のところ思っています。「老談一言」でyahoo検索すると、「老談一言集」とあるのは私のサイトだけで、「老談一言記」では国際日本文化研究センター「怪異・妖怪伝承データベース」の「幽魂,亡魂」のページ、「四方山話(大坂の陣後)・家康の幸村に対する評価」、同じサイトの「四方山話(大坂夏の陣)・大豆畑」なんかが引っかかります。近藤守重が「老談一言集」と書いたものが「老談一言記」と同一かどうかは「その可能性が高い」ということ以上には解りません。「老談一言記」は江戸時代中期の幕府旗本で国学者であった朝倉景衡が書いたもののようです。どうも写本がいくつか残っているだけで、部分的に引用はされても、全体が活字本にはなっていないような感じですから確認のしようがありませんが。

その一方で「編纂の過程」つまり建久7年8年9年の3年分の欠落は何なのか、つまり(1)の問題を詳細に検討しても(2)の家康云々の巷の俗説、無責任な噂、江戸時代の都市伝説を完璧に否定する確たる証拠は出てきません。

ただし(2)なんかどうでもよくて、(1)の「頼朝の死に関する部分が吾妻鏡に無いのは何故なのかということもきちんと述べるべき」ということがКОЛЯさんのご意見の中心であれば、その問題は確かに「吾妻鏡編纂方法」についてほ重要なポイントだと思います。そこまで触れると長くなりすぎるとカットしたのですが、やっぱり触れるべきですかねぇ。

あと(2)の問題は、どこに置こうかと悩みました。

  • 1案は、江戸時代に発生した俗説ですから、「2.1 江戸時代の研究」で述べる。
  • 2案は、江戸時代のもうひとつの俗説(全60巻で鎌倉幕府滅亡直前まであったという説)も加えて単独の章とする。
  • 3案が、家康絡みだから北条本の記述に含める。

今回とりあえず、3案としてみましたがちょっと悩ましいところです。

と書きながら思ったのですが、(1)(2)は本質的には別の問題としても、(2)を古写本の諸本を根拠に否定しながら、「では何で欠落したんだろう」という(1)の問題に「それは編纂が将軍記単位だったから」、「年代順に編纂したものではないから」、そして「吾妻鏡は未完だったから平行して編纂されていた将軍記の中で頼朝記が一番長編だったから尻切れトンボになってしまったんじゃないか」というあたりをあまり深入りせずにサラリとまとめるというのも手かなぁ、となると2案の単独の章が納まりが良いかなぁ、などとまた悩みだしました。このあたりについてご意見を頂ければ幸いです。--Ktmchi 2008年12月27日 (土) 03:22 (UTC)[返信]

しばらくです。この間、大きく編集が進みましたので、改めて全文読み直してみました。
さて私の指摘の趣旨は、「吾妻鏡の諸本」節に触れる内容ではないというものです。触れるのであれば、最初編纂の問題だと思ったので、「編纂時期」節か、「吾妻鏡の研究史」節か、その辺りかと思いました。
但しもし事実無根、笑止千万、荒唐無稽ということでしたら(このへん、当方は知識がないので、詳しい方の見解を信用します)、編纂の問題というより研究史ないし享受史の問題なので、今の「研究史の概要」節の方がいいかもしれません。1案ですね。2案を採るなら「『吾妻鏡』編纂の意図と背景」節内に項目を立てるという感じでしょうか。この辺り、どちらを採るかはお任せしますが、まずは1案でサラリと触れておき、残る問題を「『吾妻鏡』編纂の意図と背景」節内にサラリとまとめるという感じでは。
もっとも、「応永本」については「吾妻鏡の諸本」節に何らかの形で記述を残しておいたらいいと思います。
なお前田本という零本がありますが、重要文化財でもあり、最古の写本らしいので、触れておいていいことだろうと思います。
年末年始アクセスできなくなります。--КОЛЯ 会話 2008年12月27日 (土) 14:15 (UTC)[返信]
選考の方見ないでこっちに書いてしまいました。向こうにも一部重複して書きます。--КОЛЯ 会話 2008年12月27日 (土) 14:22 (UTC)[返信]

年号のカッコ内表記について

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「選考」での議論で触れましたが、数種類の「日本の歴史」その他の歴史全集ものにおいて、1209年(承元3)10月15日等、カッコ内が西暦であれ和暦であれ「年」を付けないのが通例です。また、「2000年の五味文彦『増補 吾妻鏡の方法』において」まで和暦を付加する必要などないと思います。

うーん。西暦(和暦)のはなしほど興味はないし、正直どっちでもいいのですけれども、一応書いときます。Wikipedia:表記ガイド#年月日・時間では、○○年(○○年)となっています。冒頭にあるとおり、必ずしも従わなければならないわけではないですが。--Mobnoboka 2009年1月25日 (日) 15:42 (UTC)[返信]
それが慣例ということもありますが、私自身はカッコ内にまで「年」の表記を入れるのは冗長ではと思い書かないことにしています。ただし私も他の方の書いた記事までこの日付の形に修正しようとは思いません。ほとんど全面的に手を入れる場合は別ですけどね。そのあたりは文章そのものの書き手の判断で良いかと。この修正はカッコ内にも一律に「年」を付けるという修正に対する再修正ですので、こうしてノートに理由を出しておきました。--Ktmchi 2009年1月25日 (日) 16:35 (UTC)[返信]