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ノート:史料批判

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歴史批評?について

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内村鑑三著鈴木範久訳『代表的日本人』の本文および訳注に、歴史批評、本文批評、高等批評についての記述があります。それによれば、その意味は本記事の史料批判と同意、とあります。ただ、記事『本文批評』では、「本文批評」は、文献のオリジナルの姿を探すこと、という意味のようですね。Uryah 2006年3月3日 (金) 15:33 (UTC)[返信]

  • 鈴木範久訳とは、岩波文庫版の新訳のようですね。手元の岩波文庫版旧訳(P150)には、日蓮が仏教典を研究し、法華経以外は不十分な内容である、と批判したときの文脈で、日蓮時代は「所謂高等批評学」がない時代であった、という趣旨の文章が見つかりました。内村自身がそれほど学問的に厳密な意味で使っているとは思えません。また、鈴木範久氏は「高等批評学」では読者にわかりにくいだろう、と思って、歴史批評、本文批評、史料批判といった言葉を使って説明しているのでしょう。しかし「本文批評」などはふつう文学史研究の分野で使われるように思いますし、「歴史批評」という言葉も様々な解釈ができそうな言葉です。史料批判の同義語とは言い難いと考えます。
  • 資料を紹介いただく場合は、書名のみでなく、何ページ・第何章にあるなどと書いていただくと、検証する際の手間が省けます。(新訳の方は未見ですので、時間があったら探して見ます) --忠太 2006年3月4日 (土) 02:51 (UTC)[返信]

上杉鷹山の章74ページとその訳注189ページ、日蓮上人の章152ページとその訳注193ページ、です。内村鑑三の原文にはどんな言葉で書いてあるのでしょう。もし機会があったら、見てみますね。もし見つけたら、教えてください。鈴木範久氏の言葉では、189ページの訳注を見てみてください。Uryah 2006年3月4日 (土) 04:14 (UTC)[返信]


テキストクリティーク

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「日本ではテキストクリティーク (text critique) とよばれることもある。」という記述の典拠を示していただければ幸いです。 --忠太 2006年12月1日 (金) 15:40 (UTC)[返信]

私の場合は 「史料批判」 より先に 「文献批判」 として知りました。この 「文献批判」 という言い方をしているのが安本美典氏で、確か氏が 「テキスト・クリティーク」 という表現も使っていたように記憶しています。それが書かれていたのは講談社現代新書でしたので、その出典は 『卑弥呼の謎』ではなかったかと。ちょっと虚覚えなので、違ったかもしれません。--Bay Flam 2007年8月24日 (金) 01:37 (UTC)[返信]

テキスト・クリティークはわりとよく聞く表現という印象があります。加藤一郎『ヨーゼフ・クラマー──「ベルゼンの野獣」か「生贄の羊」か--戦争犯罪裁判のテキスト・クリティーク』「言語と文化」15号、立教大学、2002年とかだと、タイトルでも使われていますね。ネットで探すなら、「史料 クリティーク」で検索してみるとひっかかるかと思います。アナール以降、史学史とか歴史理論といった範疇ではフランスの影響が強く、そういう影響もあるのだろうと独り合点しています。--S kitahashi(Plé)2007年9月28日 (金) 15:21 (UTC)[返信]

市町村史について

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「特に市町村史などはこのような内的批判を経ていないことが多い」という記述がありますが、他の歴史書(ピンからキリまで存在するはずですが)に比べて市町村史がいい加減だというのは論証可能でしょうか。 --忠太 2007年5月8日 (火) 16:42 (UTC)[返信]

論証不能だと思います。市町村史もピンキリですしね。トップクラスの歴史研究者が市町村史の監修、編集、執筆にたずさわることも多いですから。この説明は、不必要に市町村史を貶めていて不適切な記述だと思います。全国を対象にしていても内的批判を経ていない歴史書はいくらでもあるわけですからね。それに、時代をさかのぼると、内的批判をしたくてもできないような状況、断片的な資料しかないような状況もあります。どうしても言いたいのなら、「歴史学の入門者や郷土史家のなかには内的批判の重要性を認識していない者もいる」くらいにしておいた方がいいような気がします。--Greenland4 2007年9月28日 (金) 15:53 (UTC)[返信]


11月下旬の修正について

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今回かなり修正させていただきましたので、コメントさせていただきます。私の修正分は、大半が今井登志喜著『歴史学研究法』によるものです。旧字体の本ですので、文章を易しく改め、さらには論理構成を汲んで、書きなおしています。元の本はかなり難解です。私の修正に意見のある方は、根拠を示してください。 他の方の文章を、一部、内的批判から外的批判に移動させました。作業の実際上、内的批判も外的批判も同時進行することが多いので、内的批判の説明でも悪くはないのですが、理解のしやすさから考えると、外的批判の部分での説明のほうが、わかりやすいのではないかと、考えました。 いささか出すぎかと思いましたが、実証史学批判を読んで、逆に実証史学の説明が少ないと思われたので、バランス上、これくらいは必要だと思って書きました。--盛衰栄枯 2007年11月28日 (水) 05:17 (UTC)

内容的に歴史学研究法と一部かぶってしまってます。それぞれかなり書き込まれてるので、まとめるのも難しい状況ですが。 --忠太 2007年12月3日 (月) 13:21 (UTC)[返信]

 項目「歴史学研究法」は、内容は近いけれども参考文献が違う。日本語文献に現れる語彙は、こちらが多い。史料批判と言う言葉が歴史関係者の間でどの程度汎用なのか、詳しいわけではありませんが、先に書かれた「偽書」の説明文の「由来(来歴)」の言葉などは、この「史料批判」の説明でないと、理解しにくいでしょう。歴史的用語としての「史料批判」は、こちらの説明のほうが通用していると感じます。  史料を狭く解釈しすぎている、うわさや伝説を一蹴する、と批判されている部分に対応する部分を引用してみましたが、史料の使い方について、批判されているほど厳密に狭く解釈しているわけではないと思います。日本国内での批判は批判として聞いたことがありますし、それに対応するように、説明する必要があると思いました。 「歴史学研究法」のほうは、むしろ海外の現況を示しているようです。実証主義への批判を予想して書いているわけではありません。ウィキを利用する人が、使いやすい方を使えばいいのではないでしょうか。  私は、アフリカのある民俗の伝説を、真なりと解説する番組に出会って、不審に思っていたことがあります。理由がついているらしいと、予測できるのを発見しました。しかしさて、その理由を読んで、いかがなものかなあと思った次第ですが。--盛衰栄枯 2007年12月4日 (火) 03:26 (UTC)

参考文献の扱いについて

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参考文献の今井著『歴史学研究法』に昭和10年原文などと説明を付けてあったのを、なぜ消すのですか?昭和6年満州事変、8年国際連盟脱退、10年天皇機関説問題化、そして項目「歴史教育」の教育史の項目に書きましたように、日本の歴史教育は長い厳しい時代にありました。昭和15年には津田左右吉の本も発禁処分になりました。このような厳しい時代に書かれて問題視されず生き残り?、戦後は健康上の理由で限られた修正のまま出された、今に残る貴重な本だということは、書いておきたかったのですが。--盛衰栄枯 2007年12月11日 (火) 13:09 (UTC)[返信]

(コメント)消してしまったのは私です。ここは「史料批判」という項目であり、その説明がなされれば充分なのではないかと考えました。『歴史学研究法』という本の説明ならば、たとえば「歴史学研究法 (学術書)」というような別の項目を立てて、そこで詳細に述べればよいのではないかと考えた次第です。史料批判について説明している著作は他にもあるわけですし、そのなかの1冊について、過剰なほど詳細に書いてしまうと後で加筆したい人が困るのではないかと考えました。たとえば、19世紀前半のランケの『近世歴史家批判』などは、史料批判をとおして近代歴史学の基礎を確立した画期的な著作だとされています。貴重だと思うから詳細に書くという方法だとキリがないんじゃないかと思いました。ごめんなさい。--Greenland4 2007年12月11日 (火) 13:33 (UTC)[返信]

なるほど。ではこれも項目を立てましょうか。私はまだ編集というのはよくわからないから、ご面倒をおかけするようです。「史料批判について説明している著作は他にもある」なら、それを参考文献で紹介してくださいな。ついでに言えば、それも本の紹介という形にしていただければありがたいです。--盛衰栄枯 2007年12月11日 (火) 14:01 (UTC)[返信]

せいすいえいこさんの『歴史学研究法』に関する説明を項目「今井登志喜」のところに加筆しておきました。参考文献については、参考文献に相当するからそこで紹介というふうには、簡単にいかないみたいです。孫引きはよくなくて、あくまで記事を加筆なり修正なりしたときに参考にしたものでないと掲げることができないらしいんですね。あまりお役に立てなくて申し訳ないです。--Greenland4 2007年12月11日 (火) 14:24 (UTC)[返信]

私は史料批判という訳語の始めは今井著ではないかと思います。p35に「前から使われていた考証という語に当たるが、Kritikという鋭い原語を生かしてこの訳語を用いることにする」とあるからです。これ以前のものとしては坪井九馬三「史学研究法」があるみたいですが、これを当たるのは大変そうです。検索していてこんなおもしろい文を見つけました。歴史学研究法がどういう扱いだったか、その一端がうかがえます。 http://www.tousuishobou.com/tousui/no,9.htm --盛衰栄枯 2007年12月12日 (水) 00:43 (UTC)[返信]

なるほど、そうでしたか。それは貴重な情報ですね。ありがとうございました。「日本において史料批判の語は坪井・今井らが使用したのを始まりとする」という一文を加筆できますし、引用も付加することができます。大きいテーマなだけに「考証」とのかかわりなども取り上げることができますね。ウェブページも楽しく読ませていただきました。ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。--Greenland4 2007年12月12日 (水) 01:48 (UTC)[返信]

坪井著には「史料批判」は出てこないような気がします。ネット検索では、坪井著の著作に関して史料批判という言葉を使っていますが、坪井著では考証という言葉ではないかと思います。南京事件など、かなりきわどい事が対象なので、今井著は引用したくない、しかし史料批判について語りたい、しかし考証という言葉は使いたくない、その挙句の苦肉の策ではないかと、疑っています。--盛衰栄枯 2007年12月12日 (水) 04:58 (UTC)[返信]

参考文献についてではありませんが、議論の中身に近い話題なので、ここに付けます。

日本で「史料批判」の訳語を初めて用い、定着させたのは今井登志喜とありますが、『歴史学研究法』は1935年(昭和10年)であり、仮に定着させたのはそれでもよいとしても「訳語を初めて用い」というのはどうでしょう。原勝郎は1898年(明治31)の「吾妻鏡の性質及其史料としての價値」において、「史料の批評に二樣の別あり」とその訳語を用いていますが。原が最初かとどうかは判りませんが、少なくとも「初めて用い」は除いた方が良いと思いますが如何でしょうか。--Ktmchi 2008年4月24日 (木) 13:48 (UTC)[返信]

坪井九馬三の用語は「考証」

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林健太郎著『史学概論』p28に、「坪井九馬三『史学研究法』においては「考証」という字が踏襲されている」と、書いてあります。林著と今井著の関係については、私ホームページ「史料批判」http://park.geocities.jp/siryouhihann/index.html トップページの下段に追加したところです。--盛衰栄枯 2007年12月14日 (金) 13:07 (UTC)[返信]

私の書き込み分を削除しました。間違って他の人の分まで削除していたら復帰してください。今後、私の書き込みによって知りえた知識を、ウィキペディアで使用しないでください。--盛衰栄枯 2008年2月7日 (木) 10:29 (UTC)[返信]