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ノート:卑弥呼

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コメント

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  • 卑弥呼=天照大神が「現在、最も有力な説」というのは、初めて聞きましたが?「最も」は言い過ぎでは?Stanislaus 14:42 2004年2月13日 (UTC)
    同感です。それは学会で最も有力な、という意味ですか。「倭迹々日百襲姫説」のような言葉には、()で読みを補って欲しいと思います。Mishika 2004年11月26日 (金) 09:03 (UTC)[返信]
    卑弥呼は(170〜247年頃)は、3世紀ごろの倭国を治めた女王です。 中国の『魏志倭人伝』に登場し、神がかりの力で人々を惹きつけたと伝えられています。 邪馬台国を統治し、外交手腕にも長けていました。 その出自や正体については謎に包まれたままだそうです--103.95.105.80 2024年6月14日 (金) 00:50 (UTC)[返信]
  • 「卑彌呼が本来の表記」と字形にこだわるなら、 魏書帝紀の正始四年「冬十二月 倭國女王俾彌呼 遣使奉獻」も載せておいてはどうでしょう。 三国志としてはこの「俾彌呼」が本来の表記、ということになるでしょうから。 (参考: http://www.chistory.org/book/p04cao04.htm ) 2005年8月22日 (月) 05:54 (UTC)
  • 「248年 - 死亡(72歳という説もある)」とありますが、 まず 248年というのも安定した解釈ではないでしょう。 そして、 「72歳という説」 は、 まったく初耳です。 「72歳という説」 の載った文献等を示してください。--以上の署名のないコメントは、210.231.192.67会話/Whois)さんが 2005年8月22日 (月) 06:10‎ (UTC) に投稿したものです。[返信]
    とりあえず意見を反映させました。Izayohi 2005年8月22日 (月) 10:10 (UTC)[返信]

2004年12月11日 (土) 03:08 211.129.253.182による追加

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『卑弥呼』 その名は中国にも伝わり誰にあたるか、諸説あるが卑弥呼は鬼道に仕えと記され、鬼道(古代中国夏王朝の風習の中の鬼神に類し、万物の大切さを解いた 言葉に原点があります。これを古代中国神話にも見える、夏王朝の先人伏義(三皇(伏義、女媧、神農)が創りとある。 卑弥呼は鮮卑国の巫女である、鮮卑 遊牧民族を成して、その原型は古代中国ヤンシャオ民族の別名である。 殷の末頃倭人と呼ばれた民族が東北から本州一帯に渡海し小国を形成した、 起源前1000年前殷の消滅により避難して来たヤンシャオ民族の呼び名で この民族を総称して鮮卑から卑人の事を倭人と呼ぶ。 卑弥呼ありの卑は民族の名称であり、倭国の総称名 卑弥呼は倭国(鮮卑)女王卑国の巫女と記した。 「参考」 . ヒ いや.しい いや.しむ いや.しめる 卑見; 卑近; 卑小; 卑属; 卑下と辞典に載せるが中国文献の(匈奴民族) 鮮卑、匈奴と遼東に侵入と光武帝の時記す。 神武東征後倭国の名悪し(中国命名鮮卑の言語国名)改め、やまとがある。 邪馬台国の国々」シンポジュムで参加された 高島忠平、西谷正、奥野正男、安楽勉、柳田康夫、田島龍太氏 で伊都の平原遺跡が卑弥呼の墓と結論一致した。

「経歴」 170年倭国大乱起こる   187年卑弥呼倭王となるか?   204年朝鮮南東に238年公孫統治なるか、 239年魏国明帝から親魏倭王の金印卑弥呼に授与さる   248年卑弥呼没卑弥呼宗女台与魏に貢献女王となる

ノートに移動させました。Izayohi 2004年12月11日 (土) 11:05 (UTC)[返信]


反響

              [kojimagu] 『卑弥呼』は倭国の内の伊都国平原に、移った南越王の鬼道を司る女で ある、それが卑弥呼という。 古代中国では今で言う神主(祭祀)の職をしていて、女が巫女となる。 越国は(越王勾践)の 苗裔で南越というのは古代中国の南方にいた「百越」の中の一部族、 越の故地は長江河口付近にあり、この国夏王朝の祖とされる伏義が鬼道 の開祖である。伏義の裔が禹で徳があったとされ、会稽山に祀られたの が鬼道の始まりである。これは伏義の自然の中に神が宿るとする教えの 為の鬼道であって、古代の夏王朝からうけつがれていた。漢武帝の時 遂に敗れて越国から移動せよと告げられ東夷の国に移った所が前原で あった、巫女は王に従事していて、同道して来ていた。 鬼道の神祀りはこの国が始まりとなり、巫女の卑弥呼はこうして 魏国の皇帝から呼ばれたのかは、不明だが凡その検討はつき武帝に 告げられた男王がなると、武帝は安心出来ない事情が出来るので、 倭国戦乱も落ち着き、とりあえずは巫女が代役になったのだろう。 その後も台予がなるが、戦乱の終了と共に魏国も晋に敗れて、 卑弥呼の後男王が復活していた。

        [kojimagu]

以上は元々、上記Izayohiさんの署名の前にあとから挿入されていた、60.40.218.252さんによる2005年2月10日 (木) 01:23 (UTC)の書き込みです。 - Gombe 2005年4月21日 (木) 08:48 (UTC)[返信]


卑弥呼の実態とは、生口といいシャーマンにお願いしてきいてもらうのが口寄せである。之を風習の中の祭祀で巫女が、【独身女】がするのが中国古代の方法で、今日の台湾の少数民族の中にも、守り受け継がれている。 我が国でいつごろから始まっていたかと云えば、魏の国の武帝の時、百越国の 南越王が武帝との戦乱始末で国替えを求められ、他の国へ移動の催促となり、 中国ではなく昔の一族が居る伊都平原に、王は移る【男王で尊と呼んだ】 この百越国は古代中国黄帝の流れで、春秋時代の越王勾践の末であった王は、 鬼道と呼ばれた神祭祀を行っていたので、皇帝外(血族外、庶民出身王)の王は 鬼道之を恐れていたという。 この祭祀で取り締まりの役目を女がしていた訳で、之を巫女といった。 当時の中国では倭人の事を卑人と呼んでいて、卑の単語の発端は殷の時あまりにも、いやらしい事から当時の人は卑人と呼んでいたという。それで倭人の国を 卑の国とか鮮卑、東の方角にあることから東夷国と呼んだ。 それでこの国の祭祀を行う役目を司といい之が女である、卑の国の巫女であるので、卑弥呼と呼んだのである。【児島著】

以上は、219.162.115.16さんによる2005年2月15日 (火) 21:27 (UTC)の書き込みです。 - Gombe 2005年4月21日 (木) 08:48 (UTC)[返信]

3.9 卑弥呼=卑弥呼説

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  • 3.9 卑弥呼=卑弥呼説の最後の段落部分について、何が言いたいのか全く分かりません。日本語になっていない様に思います。どなたか手直しお願いできないでしょうか?219.97.128.34 2007年3月19日 (月) 13:10 (UTC)[返信]

あまりに意味がとりにくかったのと、「東京学派の無責任さ」などという、いささか中立性を書く文章があったので、ばっさり削除してしまいました。「東京学派」は、東洋史学の用語として用いているのでしょうか?日本史学・考古学ではあまりきかない表現だと思うのですが…一応、要出典タグを貼らせていただきました。日本史学・考古学でこの区分を用いた文献があったらご教授いただけるとありがたいです。--ごまふあざ 2007年3月21日 (水) 14:09 (UTC)[返信]

日本史でこの言葉を使うかは不明ですが、私の想像する所、内藤先生は「東洋史学に於ける」京都学派の創始者なので、それに対抗した白鳥先生が東京学派の創始者だとIP氏は勘違いしているのではないのかなと思いますが。東京学派の創始者は前田直典先生か西嶋定生先生と思います。らりた 2007年3月21日 (水) 14:19 (UTC)[返信]
なるほど。ありがとうございます。あまりに自明なもののように「東京学派」という表現がでてきて、少し悩んでしまいました。西嶋定生氏を中心とした人々と人文研の関係は、なんとなくうかがったことはあるのですが。東洋史学で卑弥呼に関わって議論があるのでしたら、削除部分は表現を修正して戻して、要出典をとってもよいのかもしれませんね。--ごまふあざ 2007年3月21日 (水) 15:37 (UTC)[返信]

現在の歴史学では一次史料、同時代史料およびこれに準する良質な編纂史料のみを史実の論拠とするがルールですから、卑弥呼を神話伝説中の誰かに当てるのが議論にならないのは当然です。--120.74.249.221 2008年7月15日 (火) 03:37 (UTC)[返信]

駄目です。出典がない以上Wipkipediaでは未検証扱いです。「学術的観点からは~が普通である」と主張するには、そう主張した検証可能性を満たす出典が当然必要です。それがなければ貴方の個人的意見と全く変わりません。--222.12.3.181 2008年7月19日 (土) 18:26 (UTC)[返信]

卑弥呼=下照姫説

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アマテラス(天照大御神)は、卑弥呼が日神、さらには照姫という解釈で、後世作られた可能性が高い。同じく、照姫という意味では記紀神話に下照姫が載せられている。下照姫にも、兄弟としてアジスキタカヒコネが記されている。卑弥呼をもとに、天上界は天照姫、下界は下照姫に書き分けて作られたという解釈も成り立つ。 アマテラスと比べ、下照姫はより現実的に描かれており、その原像に迫る糸口となる。また、下照姫の場合、異名同神関係にある神を見出すことが相対的に容易であり、実像に迫ることが可能となる。 異名同神という言葉自体あまり耳慣れないかもしれないが、各地の神社にはどう見ても同じ神でありながら様々な名称で祀られている場合が少なくない。例えば、アジスキタカヒコネの場合、神社での祭られ方からすると、一言主事代主大物主大山咋神ナガスネヒコなどが異名同神となる[要出典]。下照姫の場合、アマテラスのほか、ミツハノメ、アメシルカルミズ姫、タマヨリビメ、トビヤ姫、イチキシマヒメなどである[要出典]。 卑弥呼(ビミファ)は、姫神とも解釈できるが、イチキシマ姫は姫神と称される女神(宗像三女神)の一神である。これらの関係から、魏志倭人伝に登場する台与(壱与)というのは、事代主の娘イスキヨリ姫となる。豊受大御神(トヨウケビメ)、トヨタマヒメなど、「魏志倭人伝」の台与を連想させる名前もその異名である[要出典]。 ここでは詳細を略すが、異名同神関係を整理すれば、神々の体系と「魏志倭人伝」に登場する人物の対応が取れてくる。「魏志倭人伝」に描かれた世界は、記紀神話の天の岩戸等、幾つかの物語に対応する可能性が指摘されている[要出典]

上記に関し、出典を明記していただけなかったので、とりあえずノートに移しました--Takeshi14 2008年7月20日 (日) 12:26 (UTC)[返信]

質問 - 倭地の比定

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薔薇騎士団さん、要約らんで「倭ですらまだ日本と比定されてません。」と書かれていますが、学界では倭=日本が定説・通説であると思いますが、その「…比定されていません」の説を唱える学者・研究者はどなたなのでしょうか。誰もが検証できる出典をお願いできますか。--Rekishi 2009年6月3日 (水) 00:36 (UTC)[返信]

管理者としての立場上、気付いた時点での保護をしましたので結果的に薔薇騎士団さんの編集で固定されていますが、私もRekishiさんと同じ疑問を持っております。是非出典をお願いします。出典をお示し頂ければ、その研究者がよほど学会で信用のない方でない限り、薔薇騎士団さんのご趣旨を踏まえた合意に至ると思いますので宜しくお願いします。要は、倭の女王乃至倭王という定義は原典に記載されているものであり異論はほぼないと思われますが、その説明に付されている「日本の弥生時代後期における」が問題なのではありませんか?そこはの説明に委ねるのも手ではないかと思います。--ろう(Law soma) D C 2009年6月3日 (水) 01:48 (UTC)--ろう(Law soma) D C 2009年6月3日 (水) 02:04 (UTC)下線部追記[返信]
まず私は卑弥呼が倭の女王でない、と思っているわけではありません。倭の女王とされる人物としただけです。つまり否定でなく、単に断定を避けるべきだというスタンスです。まず「倭」ですが、倭の所在については私個人も日本列島に存在したと思いますが、少数ですが朝鮮半島にあったとする説もあります。また卑弥呼は倭の女王ではなく熊襲の女酋とする偽僣説もあります。次に卑弥呼が「女王」かどうかについては、倭姫命説や倭迹迹日百襲媛命説などは皇女(王女)です。また卑弥呼は固有名詞ではなく、女性を意味する「ヒメ」「ヒメミコ」などとする説もあります。ですから、「卑弥呼は……『魏志倭人伝』等の史書で倭の女王と記されいる人物』」あるいは「弥生後期の日本列島に存在したと考えられている倭国の女王」等の記述でもいいと思います。--薔薇騎士団 2009年6月3日 (水) 08:05 (UTC)[返信]
ああ、趣旨が分かりました。女酋説や皇族説を踏まえての編集でしたか。であれば反対しません。了解です。--ろう(Law soma) D C 2009年6月3日 (水) 11:05 (UTC)[返信]
卑弥呼についてはいろいろ説があるでしょうが、「倭の女王」説が通説ですから、それを変える必要は認めません。他の説があるならそれを出典とともに書けばいいことであって、差し戻すことではなかったと思います。保護解除してもらって、元に戻してください。--Rekishi 2009年6月3日 (水) 22:28 (UTC)[返信]

(インデント戻します。)「断定を避けるべきだという。。。」出典をお示しください。出典なきものは除去されます。--Rekishi 2009年6月16日 (火) 14:09 (UTC)[返信]

比定されていないのだから、断定できないのは論理的に考えて当然ではないでしょうか。比定されていないが、魏志倭人伝等で記述されているのは確かである、という意味なら、「『魏志倭人伝』等で倭国の女王とされている人物」というような記述でもいいと思います。いずれにしろ、倭国も比定されてない(九州説、大和説)、卑弥呼も比定されてない(女王説、女酋説、皇女説)以上、断定するのは無理があります。--薔薇騎士団 2009年6月16日 (火) 14:59 (UTC)[返信]
だから、「断定できない。。。」という出典を出してくださいといっています。あなたが一人そう言っているのであればWikipedia:独自研究は載せないに抵触するのではないでしょうか。出典なきものは除去します。--Rekishi 2009年6月16日 (火) 15:15 (UTC)[返信]
比定できていない=断定されていない、です。普通の日本語だと思いますが……。それでは比定の意味をお示しください。--薔薇騎士団 2009年6月16日 (火) 15:45 (UTC)[返信]
だから、だから、「断定されていない。。。」というのでれば、その出典を示してください、といっているのです。比定されていないというのは出典ではありませんよ。意味を聞いていません。論点をはぐらかさないでください。出典なきものは除去します。--Rekishi 2009年6月17日 (水) 00:14 (UTC)[返信]
卑弥呼は比定されていません。これは学会の常識です。私の説明はごく常識的な説明で、ろう(Law soma)氏もすぐに理解してくださいました。貴殿こそ、比定されていないのに断定されているというおかしな論理矛盾について、十分な説明をされていません。学会で比定されていないのに、どうして断定できるのか、その出典を根拠を示してください。--薔薇騎士団 2009年6月17日 (水) 00:57 (UTC)[返信]
「これは学会の常識です。」であれば、なおさらのこと出典の一つや二つはすぐ出せるはずですけど。どうでしょうか。ついでですので「倭国も比定されてない(九州説、大和説)」ですけど、倭国は倭国でしょう。邪馬台国なら九州・大和など色々ありますが。--Rekishi 2009年6月17日 (水) 01:29 (UTC)[返信]
記事内にすでに様々な説が列挙されていますが? あれがおかしいというのなら出典を示してください。あと、魏志倭人伝には邪馬台国の女王とありますので、「倭国の女王」というのも少しひっかります。魏志倭人伝には「倭」「倭地」「倭国」とありますが、これは特定の国家の名称ではなく、主として日本列島を指す地域名と解したほうがいいと思うからです(もっとも当時は日本列島の全体は倭人ですら分からなかったでしょうから、厳密には主として西日本地域でしょうが)。ですので、「倭に存在した邪馬台国の女王」がより正確だと思います。それはそうと、私の質問に答えてくれませんか。--薔薇騎士団 2009年6月17日 (水) 03:27 (UTC)[返信]
「断定されていない、、、」の出典はどうしましたか。これが話の中心ですよ。出典を示してください。話の中心を外さないようにお願いします。--Rekishi 2009年6月17日 (水) 04:56 (UTC)[返信]

最初から述べてますが、日本語が通じにくいようなので挙げます。神功皇后説、熊襲の女酋説、甕依姫説、倭姫命説、倭迹迹日百襲媛命説、日女命説、天照大神説。はい、挙げましたよ。断定されていませんね? で、あなたが女王説が断定されているという出典を示してください。--薔薇騎士団 2009年6月17日 (水) 05:43 (UTC)[返信]

薔薇騎士団さんは議論している相手に対しての礼儀を守ってください。Rekishiさんも長い経験をお持ちですし欠史八代でrvなさってもおられるのですから中立的な観点は十分ご理解なさっている筈です。ここでは両論併記まですべきかは疑問ですが、定義文で「断定」しているのと、本文に列挙している様々な説(その中には全く有力でない説もありますがある程度以上評価されている説も複数あります)を考慮し「断定」を避けるのとでは、後者の方がより望ましいのかな、と思います。両者とも間違っている訳ではないのですから冷静に話して文案を詰めてください。--ろう(Law soma) D C 2009年6月17日 (水) 06:12 (UTC)[返信]
仲裁は時の氏神とか(訳が分かりませんが、)。で、本文は中間をとって「倭の女王<ref>[[陳寿]][[魏志倭人伝|『魏志』倭人伝]]</ref>。」では、どうでしょう。皇国史観のようなバイアスのかかった古代史はご免です--Rekishi 2009年6月17日 (水) 06:44 (UTC)[返信]
皇国史観を「バイアス」と非難したのは、主に戦後の「マルクス主義史観」の学者たちですがね。どっちもどっちです。記紀の史料価値を否定する一方で、中国の史書を盲目的に信頼することに疑問を持たない学者は今日でも多いです。それはそうと「断定」の出典が述べれていません。--薔薇騎士団 2009年6月17日 (水) 21:15 (UTC)[返信]
ここの議論の目的は「倭国の女王(倭王)」なのか「倭国の女王(倭王)とされる人物」なのか、が出発点だった筈です。史観論争でも双方の「断定」「断定されていない」という文言の出典要求合戦でもありません。双方ともに複数の説が存在することは分かっているのですからその論争は一旦棚上げし、文案を考慮すればいいだけではないでしょうか。近年、纏向に王権の設定がなされるようになってきたためにセンシティブになっている議論ですが、「中国の史書で倭王とされている人物」というのは事実であり、有力説を強調するにしても「一般的には云々」を入れるかどうか程度の話だと思うのですが。--ろう(Law soma) D C 2009年6月18日 (木) 03:05 (UTC)[返信]

まず整理したいと思います。

  1. 『魏志倭人伝』等で「倭(邪馬台国)の女王」と記されているという問題。
  2. この記述が史学、考古学的に正しいと断定されているか、という問題。

前者に関してはおよそ疑問の余地がありません。ですから、「卑弥呼は、……『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭の女王。」という記述でしたら、何ら問題ありません。この文章ではあくまで史書でそのように書かれている、と述べているだけで、卑弥呼が実在の人物か、実在の人物だとしたら誰に該当するのか、といった事柄には何ら言及していないからです。 ところが、後者の記述、たとえば「卑弥呼は……弥生時代後期の倭国(邪馬台国)の女王である。」といった書き方をした場合、読みようによっては、卑弥呼の実在は立証されており誰であるかも断定されているような印象を与える恐れがあります。ところが現実はといえば比定すらされていないわけです。ちなみに「比定」とは蓋然性が高い、可能性が高い、という意味であり、「断定」とは意味が違います。おそらく卑弥呼が誰であるか「断定」されることは、今後もあり得ないでしょう。だから「~とされている人物」という言い方のほうがより厳密なのです。--薔薇騎士団 2009年6月18日 (木) 12:26 (UTC)[返信]

注意。インデントを戻すときは戻すと書いてください。そうでないと議論が続いているのかそうでないのかが分かりにくくなります。議論の時には、公式な方針Wikipedia:礼儀を忘れないにもご配慮をお願いします。
現在本文は「倭国の女王(倭王)とされる人物。」となっています。だからその出典が必要なのです。「断定」と「比定」の説明や「言い方の方がいいのです」という前に出典をお願いします。「~とされている人物」という言い方のほうがより厳密なのです。」と言い切るのも「断定」ですよ。その出典もついでにお願いします。
仲裁者さんが「文案」を言う前から、既にその文案を示しています。この意味は「卑弥呼は、……『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭の女王。」です。私の示した文案が受け入れなれないときは、「倭国の女王。しかし、他に○○○の説もある。」と書けばいいのではないでしょうか。これで合意できなければ、他の誰かが替わってくれるのを期待して、私はいったん引きます。--Rekishi 2009年6月18日 (木) 13:47 (UTC)[返信]
次々私に質問していますが、まず私の質問に先に答えるのが礼儀ではないでしょうか。--薔薇騎士団 2009年6月18日 (木) 14:59 (UTC)[返信]
追伸。貴殿の文案は、倭の女王が比定されていない、というニュアンスが読者にわかりにくいので却下です。--薔薇騎士団 2009年6月18日 (木) 15:02 (UTC)[返信]

(インデント戻します)双方感情論になっております。だったら「卑弥呼は、……『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭の女王。」に書き換えます。これで今回の編集合戦による保護の後始末は終わります。以後の出典争いなどは本文には直接関係のない議論ですのでどこか余所でお願いします。--ろう(Law soma) D C 2009年6月19日 (金) 01:48 (UTC)[返信]

編集ありがとうございます。異論ありません。--薔薇騎士団 2009年6月20日 (土) 03:55 (UTC)[返信]

「壹與(ゐよ)」

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「壹與(ゐよ)」とありますが「壹」が「ゐ」にあたるのでしょうか。「い」ではないのでしょうか。 --以上の署名のないコメントは、27.120.235.21会話/Whois)さんが 2013年12月20日 (金) 00:49 UTC に投稿したものです。

「媛蹈鞴五十鈴媛説」について

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Sen216様。Wikipediaでは独自研究は記載しないことになっています。 この説について記載したいのであれば、信頼できる資料出典として明示して、その資料に記された内容に忠実に記述してください。 独自研究を載せないのは、必ずしもそれが「正しくない説」であるからではありません。それどころか、実際には独自研究が正しくて通説が正しくないということもあるでしょう。しかしながら、単純にWikipediaの方針として、Wikipediaは「正しい説」を記載する場ではなくて、「他の情報源によって検証可能な説」を記載することとしているのです。 お示しになられているhttps://o-yan216.wixsite.com/mysite/homeは、個人的には、よく調べられてて興味深いサイトだと思います。しかしながら、Wikipediaの定義では、個人のウェブサイトは信頼できる情報源ではありません。 とりあえず保護依頼を出しました。 --以上の署名のないコメントは、Rabbitcat会話投稿記録)さんが 2017年4月24日 (月) 23:29 UTC に投稿したものです。

国家反逆罪ほか

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①「人物比定」の節に「卑弥呼が魏の国に対して軍の派遣を要請した行為は国家反逆罪に問われるものであり」とあるけど国家反逆罪自体今も昔もないのだから問われることはなくて変な表現じゃないかな ②同じ節に「なみにヨロヅハタトヨアキツシヒメは伊勢神宮の内宮の三神の一柱であり(もう一柱はアマテラス)」は三神の一柱なら2つ紹介してもいいんじゃないかな。息子の嫁と思えないほど高位の神だとは誰が行ったのかな。祭神の選定基準もわからないし、残り一柱の天手力男神はどう高位の神なのか--代言人(/) 2019年12月27日 (金) 13:39 (UTC)[返信]

著作権保護期間中の像の写真

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報告 佐賀県神埼市の『卑弥呼像』は2001年に建立されたため、現時点でまだ作者の没後70年は経過していないものと思われます。そのため、屋外美術を被写体とする写真の利用方針などに基づいて取り扱うべきと考えます。したがって、Artanisenさんが2020年1月8日 (水) 12:27 (UTC)にウィキメディア・コモンズにアップロードした画像「Statue-of-Queen-Himiko-at-Kanzaki-Station.png」は、そもそもウィキメディア・コモンズにおいては受け入れ不可となります。申し訳ありませんが、このような状態では掲載できません。Artanisen会話 / 投稿記録 / 記録さんの2020年1月8日 (水) 13:26 (UTC)の編集によってこちらの記事に掲載されましたが、いったん除去いたしました。--Nnkrkrhhdi会話2021年11月28日 (日) 16:14 (UTC)[返信]

報告 旧神埼町役場都市計画課によれば、この像は2001年4月の神埼駅北口開設に併せて建立されたとのことです。また、別の出典にて確認すると、この像の左手が指差しているのは吉野ヶ里遺跡、右手に持っているのは吉野ヶ里遺跡から出土した巴形銅器とのことなので(川口素生『途中下車で訪ねる駅前の銅像』交通新聞社、2014年)、この像が建立されたのは少なくとも吉野ヶ里遺跡の調査発掘が本格化して以降とみて間違いないでしょう。吉野ヶ里遺跡の調査発掘が本格化したのは比較的近年になってからですので、作者の没後70年は経過していないと推察されます。--Nnkrkrhhdi会話2021年11月28日 (日) 16:14 (UTC)[返信]
調査していただきありがとうございます。 元のアップローダーはそらみみです(file:Sculpture_of_Himiko_in_front_of_Kanzaki_Station.jpg)。 この画像を削除することに同意します。-Artanisen会話2021年11月28日 (日) 20:55 (UTC)[返信]
返信 (そらみみさん宛) 、ご意見をお聞かせください。-Artanisen会話2021年11月28日 (日) 21:01 (UTC)[返信]
コメント お知らせありがとうございます。確かにリンク先で銅像の設立時期は2001年4月であることを確認いたしました。したがって、記事での画像の除去とウィキメディア・コモンズでの画像の削除に異存ございません。このようなファイルを精査せずにアップロードしまして、本当に申し訳ございません。コモンズの削除依頼の方にも削除に同意するコメントをしました。今後ともよろしくお願いします。--そらみみ会話2021年11月28日 (日) 21:23 (UTC)[返信]
報告 既にウィキメディア・コモンズにて削除されることを確認しました。--そらみみ会話2021年11月29日 (月) 01:08 (UTC)[返信]
感謝 そらみみ会話 / 投稿記録 / 記録さん、ご連絡いただきありがとうございます。削除依頼に対する審議によりファイルが削除されたとのこと、承知いたしました。--Nnkrkrhhdi会話2021年11月29日 (月) 06:17 (UTC)[返信]
コメント Artanisen会話 / 投稿記録 / 記録さんは「元のアップローダーはそらみみです(file:Sculpture_of_Himiko_in_front_of_Kanzaki_Station.jpg)」などと主張しています。そもそも他の利用者を呼び捨てにするのもどうかと思いますが、「Sculpture of Himiko in front of Kanzaki Station.jpg」については、たしかにそらみみさんがアップロードしていますが、そのあとでArtanisenさんが類似画像をわざわざ同名で上書きアップロードしておりますので、最新の版はArtanisenさんがアップロードしたものであり、こちらも削除対象となります。最終的にアップロードしたのはArtanisenさんであることに変わりはありませんので、他者に責任転嫁するのは望ましくないと思いますので、今後はアップロード時にご留意いただければ幸いです。--Nnkrkrhhdi会話2021年11月29日 (月) 06:17 (UTC)[返信]
ありがとうございます。 画像の最初のアップロード者が最も責任があります。 これは、最初のアップローダーが必要な調査を行ったと考えられているためです。-Artanisen会話2021年11月29日 (月) 06:25 (UTC)[返信]

著作権保護期間中の像の写真(2回目)

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報告 大阪府立弥生文化博物館に展示されている人形の写真が掲載されていますが、これは「鏡を掲げる卑弥呼の姿を再現」するために制作された人形です。大阪府立弥生文化博物館は1991年に開館した施設ですから、現時点でまだ人形の作者の没後70年は経過していないものと思われます。しかも常設展示室の中に展示されていますので、屋外美術を被写体とする写真の利用方針すら適用不可能です。

したがって、Artanisenさんが2021年1月5日 (火) 17:38 (UTC)にウィキメディア・コモンズにアップロードした画像「Queen-Himiko-Museum-Yayoi-Culture.png」は、そもそもウィキメディア・コモンズにおいては受け入れ不可となります。申し訳ありませんが、このような状態では掲載できません。Artanisen会話 / 投稿記録 / 記録さんの2021年1月6日 (水) 15:03 (UTC)の編集によってこちらの記事に掲載されましたが、いったん除去いたしました。--Nnkrkrhhdi会話2023年4月11日 (火) 10:47 (UTC)[返信]

報告 Artanisen会話 / 投稿記録 / 記録さんから「たぶん、画像は削除する必要があります」とのコメントがありました。既に一度「ノート:卑弥呼#著作権保護期間中の像の写真」にて同様の問題を過去に指摘されており、被写体が著作物だった場合の扱いについては充分理解しているものと思われます。にもかかわらず、何の対処もしないまま放置していた挙句、他人に指摘されると「たぶん」と回答するとはあまりに無責任だと思います。ウィキメディア・コモンズの会話ページをご覧いただければわかるとおり、長期にわたり継続的に著作権侵害を繰り返しており、ひじょうに問題だと思います。--Nnkrkrhhdi会話2023年4月11日 (火) 11:31 (UTC)[返信]
こんにちは、彫像がアンティークでない場合、画像を削除できることに同意します。 あなたの他の点に関して: 私がアップロードした写真の大部分は許可され、承認されています.Artanisen会話2023年4月11日 (火) 11:36 (UTC)[返信]
質問 既に一度「ノート:卑弥呼#著作権保護期間中の像の写真」にて同様の問題を指摘されていたのに、なぜ今まで放置していたのですか? また、「画像を削除できることに同意します」と言っているにもかかわらず、コモンズの削除依頼ではスピード違反の論理を振りかざして反対していますよね? 削除依頼に同意するつもりは全くないようですが、どういうことでしょうか? なお「私がアップロードした写真の大部分は許可され、承認されています」とおっしゃっていますが、長期にわたり継続的に多数の著作権侵害を繰り返していることに変わりはありません。--Nnkrkrhhdi会話2023年4月11日 (火) 11:43 (UTC)[返信]

メイン画像について

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みなさんこんにちは。現在、近年描かれた素人が作成したと思われる、怪しげな画像がメイン写真として使われていますが不適切ではないでしょうか。

  • 卑弥呼の肖像として一般に広く通用している画像
  • 専門家による歴史学的考証を受けて描かれた画像

のどちらかでないと閲覧者の卑弥呼像に誤解を与える可能性があります。これは個人的な印象ですが、月桂樹のような冠はヨーロッパ文化っぽいですし、全体的にロシアの母なる祖国像を模したようにも見えます。したがって、私はこの記事からは削除すべきと考えますが皆さんはいかがでしょうか。

なお作者はこのfacebookアカウント[1]で活動してるようです。そこからFC2ブログ[2]へとリンクがあります。また絵には署名があり、自己PR目的で投稿した可能性もあります。他にもファイルがアップロードされていますの確認したい方はこちらのリンクで[3]。なお同氏の恐竜の絵には、他者によって正確さに異議があるという注意を促すテンプレートがすでに貼られています。--Voncercue会話2023年9月17日 (日) 03:21 (UTC)[返信]

異議が無いようでしたので当該のファイルはこの記事からは削除しました。 --Voncercue会話2023年10月5日 (木) 10:23 (UTC)[返信]

没年の断定について

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可変IPユーザーが没年248年の根拠とする火の鳥伝記文庫『卑弥呼』を確認しましたが、特にその根拠は記されず、本項の卑弥呼#卑弥呼の死の方が遥かに詳しいです。同書をもって、他書の記述・他者の研究を上回る形で没年を断定することはできないと考えます。(ただし『卑弥呼の死』の項についても出典不足の感はあります)--鳴海会話2023年12月15日 (金) 09:09 (UTC)[返信]