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ノート:会津世直し一揆

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猪苗代で焦土作戦など無かったと思っていたのですが

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猪苗代が新領地として選ばれなかったのは、猪苗代は帰農した蒲生の旧臣が多かった為であった、という説明しか聞いた事が無いのですが…。そもそも母成峠を突破してきた西軍が猪苗代を通過したのは完全な奇襲で、会津藩の主力は南面に向けられており北東方面は完全に手薄でした。猪苗代において焦土作戦云々を展開するだけの余裕も戦略眼も会津藩には無かったのです(それがあったとしたら十六橋を早々に破却している筈ですが、最年少の白虎隊を母成峠突破の知らせを受けてから橋破却の為に派遣して後手後手に回っている始末でした)。「猪苗代における焦土作戦」云々について要出典タグを貼ろうかと思ったのですが、何も言わずに貼るのも如何なものかと思いまして、まずはノートに書き込ませて頂きました。--Kliment A.K. 2008年3月18日 (火) 14:22 (UTC)[返信]

ご指摘のとおり、もとの版では会津藩兵が猪苗代の市街地に直接放火したようにしか読めませんので、ご指摘に従い誤解を避けるために文面を訂正しました。--呆庵入道 2008年3月18日 (火) 15:52 (UTC)[返信]

焦土作戦云々の他にも、色々と文面に誤謬が見られます。修正させて頂きます。

元々「白虎隊にまつわる郷土歴史教育云々」というのは、会津若松市内では盛んに行われているものの、猪苗代・喜多方などでは全く行われていません。猪苗代は先述した通り、帰農した蒲生の旧臣が多かった為、今でも松平については愛着は殆ど無く、むしろ野口英世の方が観光資源化されています。会津若松と猪苗代は地理的にもかなり離れており、「猪苗代で起きた事」と「会津若松市における後世の郷土教育」を結び付けて論じる構成そのものがそもそもナンセンスです。--Kliment A.K. 2008年4月2日 (水) 13:18 (UTC)[返信]

「蒲生の旧臣云々」には出典は必要ないのですか?--呆庵入道 2008年4月4日 (金) 12:35 (UTC)[返信]

猪苗代史執筆に関わる者であれば常識だと思っていたのですが…^^;

--Kliment A.K. 2008年4月4日 (金) 12:49 (UTC)[返信]

私は、松平容大を当主とする松平家が、藩領として下北半島を選んだのは、旧会津藩領の民心が松平家から完全に離反していたためであることに言及したかっただけなので、猪苗代の郷土史についてはまったく調べていません。蘆名家の遺臣というならばまだしも、ほんの短期間だけしか会津を統治していない蒲生家の遺臣がなぜこの時期になってネックになるのか、まったく理解できなかったので質問したわけですが…。なるほど、隠れキリシタンが問題なのですね。ご教示ありがとうございました。と申しますか、ご提示の参考資料のとおりであるならば、蒲生家の遺臣であるという身分的な問題よりも、隠れキリシタンであるという信仰上の問題のほうが、本文の記述にとっては重要なのではないでしょうか。土佐山内家の例を引いて論じるよりも、保科正之が狂信的な吉川神道信者・朱子学信奉者で、神仏習合の形態をとる仏教寺院や朱子学を批判する儒者を弾圧したことと関連づけて記述したほうが、ことの本質をよく捉えた記事になると思われます。--呆庵入道 2008年4月5日 (土) 07:45 (UTC)[返信]

>ほんの短期間だけしか会津を統治していない蒲生家の遺臣

連れてきているのですよ、蒲生氏は。他の地域からも。

当時、そうした事は当たり前に行われていた事です(だからこそ山内も保科も、家臣団を引き連れて来ている訳でして)。で、隠れキリシタンという問題は確かに興味深い問題で、江戸時代初期にはそうした問題も大きかった訳ですが、幕末に至るまでの猪苗代のアイデンティティたりえていません(ですから猪苗代には長崎ほどに大きなカトリック教会はありません)。幕末に至るまでの「猪苗代の反松平」の原因を「信仰の問題」に主に帰すのは無理があります。発端は信仰だったかもしれませんが、幕末の記事に記載するには不適当でしょう。--Kliment A.K. 2008年4月5日 (土) 07:53 (UTC)[返信]

いえ「鉢植え」化された近世初期の大名が、転封にともなって家臣団を引き連れてゆくことは承知しております。関ヶ原戦後の上杉家や佐竹家も、国人領主出身の家臣まで含めて根こそぎ父祖伝来の知行地から引き離して新領地に転出しております。長曾我部家が完全にとりつぶされて遺臣は浪人になるか帰農するかしかなかったのに対し、蒲生家は大きく減封されたにせよ会津からよそへ転出しておりますので、なぜそれほど多数の家臣が残留したのだろうか、と素朴な疑問を感じたわけでして。いずれにせよ、キリシタンの問題を幕末まで引きずっていたわけではない、ということは了解いたしました。たびたびのご教示ありがとうございます。--呆庵入道 2008年4月5日 (土) 08:12 (UTC)[返信]