コンテンツにスキップ

ノート:ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

記事名

[編集]

この人物の表記ですが、確かに調べたところでは「シドッチ」と表記しているものが多いのですが、現在のWikipedia日本語版では、日本語で定着している表記よりもより原語の発音に近いものを記事名にすることが多い(アルフレート・ヴェーゲナーロアール・アムンセンなど)ようであり、「シドッティ」の方がよいのではないかとも思われます。また、名前のGiovanni Battistaはファーストネーム・ミドルネームの関係ではなく全体で一つの名前(フランス語のJean-Baptisteなどと同様)であるため、Battistaの部分も入れるべきではないでしょうか。

以上のようなことを総合すると、記事名をジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティとするのがよいのではないかと思いますがどうでしょうか。ご意見をお願いします。ウース 2007年4月2日 (月) 14:57 (UTC)[返信]

2年以上異論がなかったので、ご提案のとおり移動いたしました。 Kzhr 2009年4月30日 (木) 14:37 (UTC)[返信]

宣教師が西洋諸国の日本侵略の尖兵ではない?

[編集]

この根拠は何ですか?英語版にも同様の記述があるけれど。シドッティ本人や彼以前の宗教的情熱から来日した宣教師の多くがそのつもりでなかったとしても、実際の所はその通りだったのでは?長く続いた内戦の結果として銃の普及や戦闘経験を積んだ者の多さなどの為アジア・アフリカの他地方と比較して日本の制服は困難であることを認識するまでは、東方植民地の施政者や宣教師の一部は日本も当然アジア・アフリカの他地域同様の手順でキリスト教化・植民地化されると思っていたはずです。 --Ypacaraí会話2016年4月4日 (月) 12:30 (UTC)[返信]

始めに念のため申し上げますが、「宣教師が日本侵略の尖兵である」という件に関しては事実というよりは史観であることをご承知おき下さい。それが正しいかどうかと白石がどう認識したのは別の問題ですので。さて、根拠は何であるかというお尋ねですが、東洋文庫版の西洋紀聞に収録されている天主教大意の部分を直接ご覧になった方がよいかと思います。白石は「彼国の人、其法を諸国にひろめ候事、国をうばひ候謀略にては無之段々、分明に候」と言っているわけで、つまりは「教えそれ自体に侵略の意図があるわけではない」と、キリスト教と日本侵略を切り離して考える思考法をしています。さらに続けて「といへども、其法盛になり候へば、おのづから其国に反逆の臣子出来候事は、また必然之理勢にて候歟」としており、大明が滅びたことに触れながらキリスト教が盛んになれば国に反逆する分子も現れるのは当然のことであるという意見を表明し、徳川家光の行った禁教・弾圧政策については一定の評価をしています。ここではキリスト教そのもの自体には害を認めず、キリスト教に熱狂するあまり国に反逆する者の害を考えていることがうかがえます。そのキリスト教の教理をどれほど知っていたか、という点についても補足しなければならないでしょう。シドッティを取り調べる前に転び伴天連の岡本三右衛門が記した天主教大意(現存しない)を読んだと記されています。いずれにしましても「キリシタンとは何か」という知の継承が断絶してしまった当時にあって、白石はその情報にアクセスでき、実際にそれをした稀有な人物です。最後にこの質問に対するお答えとして核心をつく部分になりますが、「其教の本意並其地勢等をかんがへ候に、謀略の一事はゆめゆめあるまじき事と存ぜられ候事」と記しております。教えそのもの自体は侵略とは無関係であるし、地政学的にみても侵略は考えられないということです。これについて「実際の所とは違うだろ」と仰られたとしても、白石sがどう判断したかについては揺るぎませんのでご了承下さい。--Nzero会話2016年4月25日 (月) 03:23 (UTC)[返信]
そのうち読みます。どうもありがとう。 --Ypacaraí会話2017年3月12日 (日) 06:14 (UTC)[返信]