ノート:ジェフリー・キングストン
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統合提案
[編集]提案:ジェフ・キングストンをここに統合しませんか。理由:同一人物のため。 --203.189.104.102 2016年9月30日 (金) 11:43 (UTC)
人物
[編集]「人物」の部分に書かれていることは、キングストン氏による他者の評価です。ここ書くべきことは、他者によるキングストン氏の評価です。 --2001:240:2418:DB30:7562:CD19:291E:DE6A 2019年1月22日 (火) 00:30 (UTC)
- 修正しました。[1]--TaguchiA(会話) 2019年2月2日 (土) 11:23 (UTC)
- 形式が変わっても内容の問題は継続していると判断します。節を崩したとしても、キングストン氏の伝記であるページに、キングストン氏による他者の批評が書かれている状態に変わりはありません。こういったことを書くべきなのは、その批評が非常に画期的であり、後世の研究の出発点となった(従って多数引用された)場合であるとか、論争の出発点となった場合などです。安倍氏への評価がそのような意味で特別だったのでしょうか? 要するに、この批評に対する第三者の信頼できる情報源の言及があるでしょうか? --2001:240:2419:8952:7562:CD19:291E:DE6A 2019年2月3日 (日) 07:14 (UTC)
- まず、ご質問にお答えする前に一言だけ。私はこの記事のキングストン氏のことは記事の編集をする前までは名前も知りませんでした。単に節の見出しと内容の不一致を直せばいいと思ったので編集した[2]わけです。さて、本題ですが2001:240:2419:8952:7562:CD19:291E:DE6Aさんのご質問「要するに、この批評に対する第三者の信頼できる情報源の言及があるでしょうか?」ですが、私には分かりません。あまり検索・調査してみようともしませんでした。この点について私は無責任かもしれませんが…。しかし「第三者の信頼できる情報源の言及」があるに越したことはないでしょうが、なくても記事に残しておいてもいいのではないでしょうか? キングストン氏に迷惑がかかるとも思われませんし、この論考の掲載媒体は東洋経済新報社の東洋経済ONLINEで媒体としても問題ないと思われますし、記事の構成については「(構成:ピーター・エニス記者)」と責任の所在が明記してあります[3]。今問題にしているのはキングストン氏の学問的業績や学問的主張についてではなく、キングストン氏の政治的意見・見解なのですから、マスコミに求められて発表した個人的見解ですから、ウィキペディアの記事にあれば読者のためになるでしょう。キングストン氏がどういう人物なのか理解する一端になるでしょうから。
一方でただし「日本の安倍晋三総理大臣を強硬な極右翼主義(中略)と考えている」については正確な本文は「強硬かつ極端な右翼主義者である安倍首相」[4]ですから修正すべきであるにしても、とにかくそれはキングストン氏個人の意見であり、何もそれが多数意見であるとか、ウィキペディアがその意見に賛同しているとかを主張しているわけではないので記事中にあってもいいのではないでしょうか。--TaguchiA(会話) 2019年2月5日 (火) 11:54 (UTC)--TaguchiA(会話) 2019年2月5日 (火) 17:39 (UTC)- 記事全体が短いですし、節が不要だったという点は同意します。この点のご編集には感謝します。
- 出典のタイトルの下に書いてある著者名は「ジェフリー・キングストン 」、記事の末尾に(構成:ピーター・エニス記者)ともありますね。両者が記事に関与したが、キングストン氏が主な文責を負うということでしょう。エニス氏が主であれば、タイトルの下に来るのはエニス氏なのが自然です。つまり自主公表した情報源でしょう。仕事として評論をする人が発表した意見をいちいちそれだけで掲載していては切りがなく、恣意的につまみ食いするのも考えものです。なので、書くなら客観的に重要だと分かるもの(他者から注目された主張)に限りましょうということです。
- まず、ご質問にお答えする前に一言だけ。私はこの記事のキングストン氏のことは記事の編集をする前までは名前も知りませんでした。単に節の見出しと内容の不一致を直せばいいと思ったので編集した[2]わけです。さて、本題ですが2001:240:2419:8952:7562:CD19:291E:DE6Aさんのご質問「要するに、この批評に対する第三者の信頼できる情報源の言及があるでしょうか?」ですが、私には分かりません。あまり検索・調査してみようともしませんでした。この点について私は無責任かもしれませんが…。しかし「第三者の信頼できる情報源の言及」があるに越したことはないでしょうが、なくても記事に残しておいてもいいのではないでしょうか? キングストン氏に迷惑がかかるとも思われませんし、この論考の掲載媒体は東洋経済新報社の東洋経済ONLINEで媒体としても問題ないと思われますし、記事の構成については「(構成:ピーター・エニス記者)」と責任の所在が明記してあります[3]。今問題にしているのはキングストン氏の学問的業績や学問的主張についてではなく、キングストン氏の政治的意見・見解なのですから、マスコミに求められて発表した個人的見解ですから、ウィキペディアの記事にあれば読者のためになるでしょう。キングストン氏がどういう人物なのか理解する一端になるでしょうから。
- 形式が変わっても内容の問題は継続していると判断します。節を崩したとしても、キングストン氏の伝記であるページに、キングストン氏による他者の批評が書かれている状態に変わりはありません。こういったことを書くべきなのは、その批評が非常に画期的であり、後世の研究の出発点となった(従って多数引用された)場合であるとか、論争の出発点となった場合などです。安倍氏への評価がそのような意味で特別だったのでしょうか? 要するに、この批評に対する第三者の信頼できる情報源の言及があるでしょうか? --2001:240:2419:8952:7562:CD19:291E:DE6A 2019年2月3日 (日) 07:14 (UTC)
- 出典記事(東洋経済)の中身を見ると、「多くの日本人、そして長らく日本を注視してきた識者たちは、強硬かつ極端な右翼主義者である安倍首相の下で、独善的な国家主義が復活することについて強い懸念を表明している。」[5]であり、主語は「私」(=キングストン氏)ではありません。多くの日本人はそう懸念している、とキングストン氏が考えている、ということでしょう。つまりキングストン氏が他者の意見を紹介している、という格好です。この書き方なら恐らく意見にキングストン氏も大筋で反対はしていないのでしょうが、本人の主張かというと、少し留保せざるをえません。仮にキングストン氏がはっきりと「私は……と考える」と言っていたとしても、それが客観的に重要な意見かどうか分からないという問題(前述)は残ります。
- 本人が自己紹介の一部として「私は長年○○という主張をしてきた」と自分のブランドのようにして掲げた(丁度「私の専門分野は○○です」というように)のであればまた別ですが、出典はそういう記述とはとても思えません。政治家であれば政治的意見は誰と共闘するかに関わり本人の立ち場表明として重要ですが、キングストン氏は政治家ではありません。 --2001:240:240C:C764:D96F:17AC:D895:F123 2019年2月8日 (金) 07:55 (UTC)
- 確かにご指摘のように「主語は「私」(=キングストン氏)ではありません」でした。その点を理由に「安倍晋三総理大臣を強硬な極右翼主義」の箇所を除去[6]しました。残りの「日本の朝日新聞」以下の除去にも反対はしません。あとは2001…さんや他の利用者の方の編集を待ちたいと思います。--TaguchiA(会話) 2019年2月10日 (日) 06:15 (UTC)
- 他者から注目された主張に限りましょう、という提案に賛否はないようですが、異論がないと判断していいのでしょうか。 --2001:240:2417:FE1B:BC8B:DCB7:2A1:4269 2019年5月20日 (月) 14:00 (UTC)
二次的な情報源のない主張の記述
[編集][7]Trudyguadsさんから加筆があったようですが、上記の議論ではこういった二次的な情報源のない主張の記述はしない方がよい、という方向で固まりつつあります。反駁したければ論拠をご説明願います。このままでは、論拠は出さないが編集は強行する、という風に写ってしまいます。 --2001:240:2409:C72A:E89A:4966:CE37:BE67 2019年3月18日 (月) 03:14 (UTC)
- 異論なかったため、そのように除去しました。 --2001:240:2404:867C:6169:1D2E:D1BB:7010 2019年8月10日 (土) 10:22 (UTC)
バレンタインが女性差別の象徴?
[編集]それをいうならバブルの頃、女性たちが男性を、アッシー君、メッシー君、ミツグ君、シモベエ、ベンリー君、挙げ句は、濡れ落ち葉などと呼んで差別したことはどうなるんですか?バレンタインはたった数百円のチョコなのに、そのお返しのホワイトデーでは何万もする指輪を男性が女性に贈るのは、女尊男卑の男性差別ではないんですか?なぜそちらは問題にしないのですか?また、今も日本ではデート代は100%男性が出します。それは男性差別ではないんですか?フェミスターリニズム、フェミナチズムともいえる記述を、ウィキペディアとはいえ載せるのは問題だと思います。--110.66.35.123 2019年4月2日 (火) 11:39 (UTC)
- 補足 男性が女性にプレゼントをするのは良くて、その逆は家父長制というこの男の見方は、それこそ女性差別的では?女性が男性にプレゼントをすることを認めるのは、女性を経済的に対等とみなしているのだし、リベラルで両性の平等という憲法の理念に適っているのでは?女性を保護する対象とみなし、男性がデートに誘ったりプレゼントを上げる対象としてだけ見るのは女性蔑視であり、キングストンのほうが悪質な女性差別主義者だと思いますね。--110.66.35.50 2019年4月3日 (水) 18:15 (UTC)