コンテンツにスキップ

ノート:シュルレアリスム

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

写真と絵画と小説

[編集]

記事写真からは「シュルレアシスム_(写真)」に記事が向かっていたんですが、暫定的に統合します。詳しくはないので、自信がないのですが、絵画と写真は記事のレベルでは分ける必要ないと思ってます(別の章を立てた方がいい部分もあるかもしれませんが)。もし分けるならむしろ絵画・写真と小説との間で分ける方がいいかもと思います(誰か、識者に運動の精神だけでなく、作風についても記述頂きたいところですが)。--Kozawa 02:01 2003年11月16日 (UTC)

最初のシュルレアリスト

[編集]

世界で最初のシュルレアリストは アルチュール・ランボーだと思うのですが、 いかがでしょうか。「地獄の季節」では最終章で神に対して信仰心を告白しているから 駄目でしょうか。シュルレアリストは無神論が基盤にないと駄目かなと思いますが、 私はA.ランボーが最初のシュルレアリストだと思います。「地獄の季節」を読んで 救われた読者もたくさんいると思います。しかし、A.ランボーの短い人生は強烈な 精神の苦悩の連続だったようです。ゆえに、ランボーの散文詩はフランス語で書かれた 最も美しい文章とフランスでは言われているようです。--Yooton 2004年12月31日 (金) 09:00 (UTC)[返信]

超現実の意味

[編集]

現実を超越した先にあるものが「非現実」か「過剰な現実」かは表現者や鑑賞者の解釈によるものではないでしょうか。「異質な現実」という解釈もあるでしょう。--Redhair 2008年4月26日 (土) 07:30 (UTC)[返信]

そうですね。現実を包括し、さらに拡がっている上位概念としての「超」ではあると思うのですが……「過剰な現実」としている説明は、現代若者語の「超」の用法に引きずられている気さえします。ここに挙げられている出典には当たっていませんが、果してそのような記述が本当にあるのでしょうか。内容を曲解している可能性を疑います。--死郎 2010年4月26日 (月) 16:30 (UTC)[返信]
「過剰な現実」「強度の現実」という解釈は巌谷國士氏の「シュルレアリスムとは何か」を参考にしたものだと推測しますが、彼の説を国立新美術館の学芸員が引用して芸術新潮2011年2月号で公に紹介してます。しかし疑問は残ります。キリコの形而上絵画の後にくるシュルレアリスムの方向性がなぜ急に 主観をできるだけ排除した形而下の客観性、写実性、現実性へと正反対になるのでしょう?そしてシュルレアリスム以前の象徴主義も以後の幻想絵画も「強度の現実」を志向するシュルレアリスムとは成り立ちが全く異なると、この学芸員は紙上インタヴューで述べています。巌谷氏が自説を裏付けるために使った根拠は辞書の語義と写実的傾向のシュルレアリスム絵画の図のみであり、他者の説の引用が無いため、国際的な定説なのか、あるいは彼の独自研究なのか、「シュルレアリスムとは何か」で確認することはできませんでした。 おそらくは、realism と日本語の「現実主義」が意味している範囲が互いに異なることに留意しなかった語義上の混乱ではないかと思います。realismは実念論としても使用され、形而上的な実体を指す用語としてもあります。日本語の現実主義は、もっぱら目に見える客観的な事柄に関わっています。
 巌谷説を国内で定説として扱うのはまだ無理があるのではないでしょうか。シュルレアリスムは巌谷説のように客観への一極化ではなく、むしろ主観と客観との矛盾と葛藤から生まれた新しいリアリズム、というふうに二極をもとにした考えのほうが自然である気がします。--Basicsur 2011年2月24日 (木) 09:51 (UTC)[返信]


 巌谷國士のシュルレアリスム解釈は間違いであると断定できます。彼の説を引用した本ページは実際の現状と異なるため、実際に近づけるため、語義の訂正が必要であると思われます。以下は編集の参考のための私の文章です。

「シュルレアリスムとは何か」からの巌谷説の引用です。

「主観的な幻想を描くのがシュルレアリスムだという(日本語の)定義は明らかなまちがいで、ここで頭から消去しないといけない。むしろ、人間におとずれる客観的なものたち、つまりオブジェたちが生起し表現されるのがシュルレアルスムですから。いいかえれば、主観にもとづいて幻想を展開するのではなく、むしろ、客観が人間におとづれる瞬間をとらえるのが、シュルレアリスムの文学や芸術のありかただということになるでしょう。」

 と、あくまでシュルレアリスムは客観を目指したものだと彼は主張します。私は巌谷説はおかしいと思います。そもそも主観なき客観がありうるのでしょうか?結論から言いますと、 realismと現実主義は意味する範囲が若干違います。おそらくこの語義上のニュアンスの違いで巌谷さんは知らず知らず迷路に嵌っているのではないでしょうか。

 辞書を引いてみます。

英英辞書によれば

Realism

1現実的な方法で困難な状況を扱い、あるいはそれを受け入れる能力。こうなればいいなあ、という思いよりも何が実際可能かということに基ずく姿勢。

2 本物に見える、あるいは本物であることの質、クォリティー。

3 美術や文学におけるスタイル。とくに人生における不愉快なものが実際のあるがままに描写され、語られるようなスタイル。

広辞苑によれば

現実主義

一般に現実的なものを重視する態度。

1 主義や理想に拘らず現実に即して事を処理する態度。目前の既成事実に屈服する態度や日和見主義と同じ意味になる場合がある。

2 空想や夢想におちいらず現実のきびしさを十分に知って事に処する態度。この場合は必ずしも理想主義とは矛盾しない。 

Surrealismの場合はフランス語ですが、英語のrealismには、質や、あるがまま、あるいは不愉快な真実をもそのまま直視する、という意味あいもあるのだと思います。体裁をはぎ取りあるがままの真実を明らかにする精神活動にも使用できるのでしょう。さらに、実念論、実在論といった形而上学の一種を意味する言葉でもあります。日本語の現実主義と比較すると、realismは社会的客観的現実のみならず質や精神をも包含した言葉であることが予感されてきます。夢をリアルに描く、という表現は自然ですが、夢を現実的に描く、という表現は何か変です。「現実」には空想、夢想を排除するという意味合いがあるからです。


 空想、夢想、無意識を扱う超現実主義が、現実を超えていると解釈するのは日本語の体系の中では自然であり、実際に合致しています。 しかし、現実とrealismとの微妙な差異を指摘し、「現実」には質的な真実も包含されていることへ注意を促す必要はあるでしょう。

巌谷説の問題は、シュルレアリスム=「強度の現実」主義という結論の後に、「シュルレアリスムは主観をできるだけ排除して客観に至ろうとした」と自著「シュルレアリスムとは何か」で極論に行き着いてしまっているところです。「現実」を日本語の発想のまま解釈しています。そしてその説に立つ南 雄介さんは、芸術新潮のインタヴューでこういう発言をしています。

「ルドンやモローの象徴主義についてはシュルレアリストたちも重視しており、夢幻的な雰囲気などたしかに共通していますね。しかし、いわゆる幻想絵画は基本的には物語を描いているわけで、その物語はそれ自体として完結した論理性を持っている。結果的にいかに幻想的な印象を与えるとしても、もう一つの現実、「強度の現実」を志向するシュルレアリスムは、なりたちを全く異にしているのです。」

果たして彼のコメントは実際に合致しているのか? アンドレ ブルトンのシュルレアリスム宣言の引用、

「私は、夢と現実という、外見はいかにもあいいれない二つの状態が、一種の絶対的現実、いってよければ一種の超現実のなかへと、いつか将来、解消されていくことを信じている。」    これはつまり弁証法であり、シュルレアリスムは客観と主観との矛盾から生まれた新しいリアリズムという捉え方のほうが自然で、主観を排除して客観のみを目指したという発想は、間違いと言っていいと思います。巌谷説が正しければキリコの形而上絵画の直後のシュルレアリスムは突然、キリコに反旗を翻して、主観を排した客観、幻想ではない形而下の現実を目指したことになります。むしろ、象徴主義も幻想美術もシュルレアリスムも全て連続していると考えるべきなのではないか。

なぜダリの美術館の真っ正面にはウィーン幻想派のエルンスト フックスの彫刻が置かれているのか?どうして幻想画家のギーガーやロバート ベノーザはダリと親密な関係をもてたのか?明かににシュルレアリスムと幻想美術は深く関係し連続しています。

芸術新潮では、抽象表現主義とポップアートにおけるシュルレアリスムの影響しか紹介していませんでした。ここにはアメリカ美術のみを中心にもっていこうとする政治的文脈が色濃く反映されています。そして図らずも巌谷説がシュルレアリスムと幻想美術(ヴィジョナリーアート)を完全に切り離すうえで大きく役立っています。

--Basicsur以上のコメントは、Basicsur会話投稿記録)さんが[2012-01-31 14:36:36 (UTC)]に投稿したものです。

シュールリアリズムの誤用について

[編集]

本文では日本だけの誤用であるかのように見受けられますが、シュルレアリスムとは何か(amazon URL)http://www.amazon.co.jp/dp/4480086781 によりますと、元々英語圏記者の翻訳ミスであるとの記載がありました(よくあるシュルレアリスムを1語ではなく、シュルとレアリスムの2語に捉えて、それぞれ翻訳したという説)。この本自体のソースが不明なので、こちらの説の真偽も不明ですが、この誤用の件で日本だけであるというのは何か裏付けがあるのでしょうか?

例えば、日本では流入当初シュルレアリスムと呼んでいたが、途中からシュールリアリズムになったのでしょうか。 それとも最初からシュールリアリズムであったのでしょうか 。であれば、そのソース(シュールリアリズムという言葉をどこで知ったのか)は何だったのでしょうか。

日本人が翻訳時にミスをしたのでしょうか。それとも例えば欧米圏の雑誌に上述の書籍の翻訳ミス(が正しかったとして)の英語表記があり、それを取り込んでしまったのでしょうか。

また、海外での発音の件に触れた一文について、おそらく実際に見聞きされた情報を載せておられるのだと思いますが、例えば正式な論文や学芸員の方であれば本邦においても当然正当な発音ではないでしょうか。

恥ずかしながら浅学でして、私は「ふと気になったので」程度のお話しかできませんが、皆様のご意見を伺いたいと思います。 よろしくお願いします。––以上の署名の無いコメントは、58.190.18.148ノート/Whois)さんが 2012年10月8日 (月) 03:16‎ (UTC) に投稿したものです(Bellis会話)による付記)。[返信]

「元々英語圏記者の翻訳ミスである」という記載は、「シュルレアリスムとは何か」のどこのページにあるのか、教えていただければ考えやすいです。見つけることができませんでした。--Basicsur会話2012年11月6日 (火) 15:37 (UTC)[返信]

シュレアリスト

[編集]

外国語表記を日本語に翻訳するときに、色々な考え方があると思いますが、「シュレアリスト」はミスタイピングなのか、そういう発音が正しいのか判然としません。すくなくともシュレアリストという言葉は国語辞書含め世界に存在していません。  「シュレアリスト」という言葉を考案した執筆者はどうお考えでしょうか? 「サリーアリズム」という言葉も世界にまだ存在していません。訂正すべきかどうか執筆者の意見を伺ったうえ、皆さんで決めてはどうでしょうか。--以上の署名のないコメントは、Basicsur会話投稿記録)さんが 2013-06-14 14:36:56 (UTC) に投稿したものです。

マグリットは詩人なのでしょうか?

[編集]

「概要」欄において、ルネ・マグリットがシュルレアリスムの詩人の例として挙げられていますが、彼には詩人としての業績があるのでしょうか? コトバンクなどで検索してみても彼の詩作について言及した項目が皆無なので、詩人として顕著な業績があるとは考え難いです。2017年3月11日(日本時間)までに具体的な根拠が示されないようであれば、該当箇所を削除します。--122.133.198.160 2017年2月11日 (土) 01:05 (UTC)[返信]

チェック 疑問点テンプレートを添付して一ヶ月お待ちしましたが、特に具体的な根拠が示されませんでしたので、該当箇所を削除しました[1]。--122.133.198.160 2017年3月12日 (日) 02:20 (UTC)[返信]

アポリネール、マルクス等について

[編集]

特別:差分/76734108の編集内容の要約欄より転記)

Hparis11edさま。「日本では当初「超現実主義」と訳された」の出典が不要な理由をご教授願います。「詩集『アルコール』によってフランス詩を大きく変え」た点を具体的に書いてもらわないと門外漢には理解不能です。ここは理解できる人だけが読めばいいサイトなのですか?マルクスも同様。「フランス共産党」ならまだ理解できますが。それにここはブルトンの項ではないんですから、マルクスに言及する必要があるのでしょうか?ぜひお教えください。あとの年記・ページ数等はありがとうございました。

--議論の流れの確認のため、編集内容の要約欄におけるFalcatedさんのコメントをこちらに転記させていただきます。--Hparis11ed会話2020年3月23日 (月) 16:13 (UTC)[返信]

  • Falcatedさん、コメント、ありがとうございます。1) まず、「超現実主義」は脚注1の表記揺れに入れたいと思います。2) アポリネールが「詩集『アルコール』によってフランス詩を大きく変え」たにつきましては、すでに出典が付されているわけですから、howテンプレート貼付の前に出典をご確認ください。併せて、「ギヨーム・アポリネール」をご覧ください。もし、アポリネールをまったくご存知ない場合でも、すでに1段落設けて書いている内容にさらに加筆すると、記事の内容のバランスを欠くことになり、まさに「ここはアポリネールの項でない」のだからということになると思います。詩集『アルコール』はシュルレアリスムと直接関係があるわけではなく、重要なのはアポリネールが当時の前衛文学・芸術運動の先駆であるということ(特にシュルレアリスムという言葉を最初に使ったということ)だからです。今回、シュルレアリスムについて文学運動について一切書かれていなかったので加筆しましたが、書かれていなかったのはフランス文学に関する背景知識に基づいて執筆することが困難であったためと思われます。背景知識がなくても理解できる記事を書くことは非常に重要ですが、このような内容について個々に「門外漢」だからという理由で加筆を求められるとすると対応しきれなくなるおそれがあります。3) マルクスについても同様です。マルクスの影響はブルトンだけではありませんし、少なくともシュルレアリスムの文学者に共通する思想であり、思想としてのマルクス主義か、フランス共産党の思想・運動か、というところで運動内の対立・分裂につながっていますので、これについてそれぞれの作家の思想・活動に触れながら説明するとしたら、これも記事の内容のバランスを欠くことになると思われます。「ルイ・アラゴン」などシュルレアリスムのテンプレートの「作家・理論家」の各記事をご覧いただきたいと思います。いかに複雑な事情があるか、ご理解いただけると思います。--Hparis11ed会話2020年3月23日 (月) 14:09 (UTC)[返信]
    • Hparis11edさま 長文のご意見、ありがとうございます。1・2)は理解いたしました。私としてはわざわざ2)該当資料を読む気も時間もありませんが。3)もおっしゃりたい事は分かりました。--Falcated会話2020年3月24日 (火) 04:08 (UTC)[返信]