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ノート:エルサレム聖書

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統合提案:旧エルサレム聖書、新エルサレム聖書、エルサレム聖書

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「旧エルサレム聖書」と「新エルサレム聖書」は英語圏でのみ意味をもつ概念ですので、「エルサレム聖書」への統合を提案します。議論の場はこの「ノート:エルサレム聖書」でいかがでしょうか。--おーた 2007年7月3日 (火) 13:26 (UTC)[返信]

それから、あまりにも英語圏に偏っていた「エルサレム聖書」の記述を大幅に改稿しておきました。フランス語オリジナルについての説明をメインとして、それが世界的にどういう影響を与えたかを、英語版と日本語版に相当するフランシスコ会訳について説明しました。「新エルサレム聖書」「旧エルサレム聖書」の統合が合意頂ければ、ここにそれらの記事内容を加筆していきます。--おーた 2007年7月3日 (火) 14:19 (UTC)[返信]

統合に賛成します。フランシスコ会訳は…………とりあえず目先の問題から解決していきましょう。というわけで統合に賛成です。--Aphaia 2007年7月3日 (火) 19:43 (UTC)[返信]


「旧エルサレム聖書」のノートにも書きましたが、「旧」「新」という項目は、不要でしょう。統合に賛成です。
<<Ecole Biblique et Archéologique Française de Jérusalem>>についてですが、「フランス聖書考古学研究所」というのは、おかしいと思います。institut なら分からなくもないですが、ecole です。先生がいて、生徒がいて、学び舎というイメージでこう名付けられたのでしょう。それから、「エルサレム」を抜いたものを記事名にするのもおかしいでしょう。à Jérusalem でなく、de Jérusalem です。エルサレム聖書は複数持っていますが、皆、<<Ecole Biblique de Jérusalem>>と記されています。優先順位から言うと、「エルサレムの>>フランスの」と思われます。
それと、疑問点です。カトリックの機関が、始めて本格的に聖書原典から翻訳した云々は、欧州全体のことでしょうか。「カトリックの伝統に沿って」云々とありますが、テキストの異同を示す注釈は、エルサレム聖書以前のカトリック訳で、どれになされているのでしょうか。それと、「聖書に一切注釈をつけない」とありますが、プロテスタント訳の嚆矢であるルター訳はつけているので誤謬でしょう。--K 2007年7月7日 (土) 09:08 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。さっそく統合作業が始まってしまったようですね。もう少し意見を待つつもりだったのですが。まあ、ボチボチ進んでいければと思います。
EcoleとInstitutの関係は日本語の「学校」と「研究所」の関係に1対1に対応していないと考えており、この場合は学部生は採っていなさそうなので「研究所」と訳しております。実際、インターネットで検索する限りこのL'Ecole Biblique et Archéologiqueは「学院」というよりも「研究所」として言及されています。それから、「フランス」と「エルサレム」が重なるのがどうにも嫌で「エルサレム」を抜いてしまったのですが、これは短慮であったかもしれないと考えています。Kさんのように「エルサレム・フランス」と並べるのが無難なのかなとも。ただ、実際の日本語文献でどういう訳語が当てられているのかいくつか見てから判断すべきかと思いました。
それからカトリックがウルガータ文献を離れて原典からの本格的な翻訳を行ったのはフランス語では「エルサレム聖書」というのは確かなように思われます。ルイ=スゴンの翻訳はプロテスタント系ですから。ただ、欧州全体で初かと問われて調べてみましたが、聖書翻訳のスペイン語の項に「1569年、カシオドロ・デ・レイナによって原典から翻訳された最初のスペイン語訳聖書が出版され、「ビブリア・デル・オソ」と呼ばれた。」という記述があり、この「原典」がギリシャ語・ヘブライ語なら、「カトリック初」というのは間違いになります。ご指摘に感謝です。
それから、プロテスタント系の聖書は「注釈をつけない」についてですが「聖書内の引用箇所や並行記事を示す「引照」を除けば」というのが正確ではあります。ルターの聖書についてはよく知りませんが、プロテスタントの聖書が注釈をつけないのは、世界への聖書普及に大きく寄与した英国外国聖書協会からの伝統です。基本綱領に「註や注解なしで聖書を広く普及させること」とあります。一応、「聖書のみ」というプロテスタントの教義に従って余計なことは書き込まない、というのがその理由になってはいますが各諸教派の意見が対立して注釈がつけられなかったというのが実情のようです。ともかくも、この伝統が今も続いており、各国聖書協会系の聖書は注釈と解説がありません。RVでもRSVでも、日本聖書協会の大正改訳でも口語訳でもよいからお確かめください。これは、フランス語・ドイツ語のような欧州内言語でも同じです。カトリックとの共同翻訳が始まってからはこの方針は修正されており、たとえばREBには原典テキストの異同を示す訳注がついていますし、日本語の新共同訳には巻末に解説が(カトリックの伝統からすればごく僅かですが)ついています。--おーた 2007年7月7日 (土) 13:46 (UTC)[返信]
(追記)Kさんの質問でまだ答えていないものがありました。テキストの異同を示す注釈はたとえば、1910年のラゲ訳聖書にもあります。私は実物を見ていませんが、海老沢有道『日本の聖書 聖書和訳の歴史』に実例が載っており、これはバルバロ訳にも引き継がれています。(こっちは実物を持っています。)これがカトリックの聖書翻訳の伝統であるというのは、田川建三『書物としての新約聖書』などを参照ください。
それからWikipedia:統合提案に出すのを忘れていましたので、先ほど投稿しておきました。--おーた 2007年7月10日 (火) 13:30 (UTC)[返信]
えっと・・・私も田川さんの本は読んでおりまして、この本は大変に優れているので、参照されることは非常に良いことだと思うのですが、もう少し、慎重に書かれた方が良いかと・・・
おっしゃる通り、英米の聖書協会の影響下にある聖書は、注釈がないわけですが、逆に言えば、聖書協会が力を持つ19世紀以前の聖書や、英米の聖書協会の影響下にない聖書は、注釈を持っていることが多いのです。例えばルター訳や、ルター訳の影響を受けているティンダル訳は注釈を持ちます。それから、英語系に限っても、カヴァーデイル訳、大きな聖書、主教(司教)の聖書、ジュネーブ聖書、これらはみな、注釈があります。そしてこのジュネーブ聖書の注釈こそが、欽定訳の注釈が無くなる原因だったはずです。私はいちいち調べてませんが、16世紀のその他の欧州の翻訳は、ルター訳の強い影響下にあり、また、当時の大知識人の人文学者が訳しているので、恐らく同様でしょう。
また、19世紀以降でも、英米の聖書協会の影響下にない聖書には、英語圏でさえも、注釈があるものがあるのです。英語圏では、19世紀後半に、いわゆる根本主義が興りますが、この根本主義系の訳は、注釈付聖書が結構あります。いわんや、他国のプロテスタントでしょう。他の西欧国にも聖書協会がありますが、これらがどれほど英米の聖書協会の影響を受けているのか、私は知りません。田川さんの本にも書いてあるはずですが、ドイツ聖書協会は、英米とは違う独自の道を歩んでいます。また、ドイツやスイスと並んで、プロテスタントの本場であるオランダが、後進の英米に主導権をとらせるというのは、信じがたいことです。たとえそうであったとしても、すでにみたように「プロテスタントが、聖書に一切注釈をつけない」というのは、間違えです。
それから、カトリックの注釈の問題です。カトリックが伝統的に注釈を重んじるのは、確かですが、私が引っかかったのは「テキストの異同を示す細かな訳注」というところです。カトリックは、プロテスタントへ対抗するために、16世紀にヴルガータの「決定版」をだしています。本文批評に関して、そういう頑な姿勢であったカトリックが、(20世紀以降の翻訳ならわかりますが)「伝統的に」、テキストの異同を示す注をつけていたというのも、これまた俄かには信じがたい話です。
最後に ecole のこと。エルサレム聖書の記述に関して、田川さんの本を参照されているようですが、田川さんの本に「エルサレム聖書学院」とあるのに、この部分だけ「研究所」とするのは、理解に苦しみます。この機関自身が ecole (英名はschool)と自ら名付けているのだから、「学院」(学校)と訳す以外にないでしょう。田川さん風に言えば、いくら、実際には言行が書かれているからといって、praxeis を勝手に「言行録」と訳してはいけないように、「実際は研究所みたいだから・・・」といって、私的に名前を変えて良いものではありません。学校であることと、「学部生」云々は、本質的に全く関係がありません。--K 2007年7月11日 (水) 13:59 (UTC)[返信]

全体に、これはWP:Vとも関連することですが、「○○は××である」と言いきるのは出来るだけやめる方向で進めるのはいかがでしょう。聖書翻訳にはいろいろな版があって、そのすべてに実物を当たるというのは専門家でもなければ非常に難しいので(そして本来はそうでなければ確定的なことをいうことはできないので)、うえのようないいきりは原本を当たれる人たちに任せておいて、我々素人は、△△によれば○○は××である/△△は○○は××であると主張している、というところで止めておく、というのがウィキペディアの精神にも適うんじゃないかと。--Aphaia 2007年7月12日 (木) 09:18 (UTC)[返信]

まあ、確かに歴史的に喧々諤々のこの分野のことですから、言い切るのは危険ですね。心します。その上で、Kさんから出ている疑問点に答えておきます。
まず「学院」の件ですが、ひとつの単語にひとつの訳語しか対応しないとは私は思っていないので、実態に合わせた訳語を選択すればよろしいのではないかと思います。私が「研究所」と訳したのはそのように訳している文献に何度か当たったのでそれが頭の中にインプットされていたからのようで、たとえば、ジェームス・C・ヴァンダガーム、秦剛平訳『死海文書のすべて』p.40なんかにはそう訳されてあります。もちろん、田川建三のように「学院」で訳す人もいること承知の上で、私は「研究所」のほうがしっくり来るなと判断してそう訳しました。ただ、そんなに拘る話でもありません。Kさんから他に「学院」と訳されている例などを紹介していただければ、そういうのを見ながら考えたいですね。
「プロテスタント系翻訳が注釈をいっさい含まない」というのは確かに書きすぎでした。『書物としての新約聖書』に欽定訳が注釈を含まない「悪しき伝統の出発点」と書かれていたのが(p.563)頭に残っていて、プロテスタント系聖書一般の話にしてしまいました。ご指摘に感謝です。
カトリック系聖書について「テキストの異同を示す注」はウルガタを底本にした1910年のラゲ訳でもやっていました。ただ、こういうスタイルがどこまで遡るのか調べられませんでした。Apaiaさんが仰るように、書き方を工夫してみます--おーた 2007年7月13日 (金) 13:15 (UTC)[返信]

旧エルサレム聖書と新エルサレム聖書と統合しました

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「統合案内」に出してからは6日経過なのですが、このノートとキリスト教ポータルで提案してからはそろそろ2週間ということで、統合を実施しました。

「エルサレム聖書考古学研究所」の件、ご本家のホームページで学生さんたちの集合写真を見ているうちに「学院」に納得しました。

「現在、フランスで最も使用されている聖書でもある」という記述には「要出典」タグを貼りました。TOBより使用されているのか、その辺りが疑問だったもので。どなたか、ご指摘ください。

統合するに当たって、以下の記述が宙に浮いてしまいました。ここだけ妙に細かくて他の記事とアンバランスだと考えました。特に第2文以降はヤハウェの項に書かれていますから、それでよいのではないでしょうか。

(以下、とりあえず統合から外した記述)
また、エルサレム聖書の特徴として、ユダヤ人経典であるタナハに基づくテトラグラマトン(いわゆるヤハウェ神)の解釈において「主」や「神」といった記述を一本化するといった、それまで見られなかった方針があげられる。「ヤハウェ」はもともとヘブライ語であり、ヘブライ文字では母音を記さず、יהוהと綴る。神聖な神の御名ということを以って長らく発音されず、綴りをラテン文字に直し、「YHWH」としたことによって「エホバ」と読まれる誤解が生じたという歴史的背景が存在する。なお、世界英語聖書(WEB)やアメリカ標準版(ASV)の修正版では「ヤハウェ」と書かれるが、アメリカ標準版(ASV)および新世界訳聖書では「エホバ」が使われている。

--おーた 2007年7月16日 (月) 01:02 (UTC)[返信]