ノート:エドワード7世 (イギリス王)
この「エドワード7世 (イギリス王)」は、下記のような選考・審査を経て良質な記事に選出されています。さらなる加筆と改善によって、秀逸な記事となるような編集を歓迎します。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
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1. | 2014年12月17日 | 良質な記事の選考 | 通過 |
競馬節の記述について
[編集]- 「即位後も競馬に熱中し続けた国王はエドワードが初めてだった」出典『ケネス・ベイカー(英語版) 『英国王室スキャンダル史』 樋口幸子訳、河出書房新社、1997年(平成9年)。ISBN 978-4309223193。』
出典のある記述ではあるのですが、端的に言ってひどい誤認です。断定できるレベル。
即位後にニューマーケット競馬場を創設し、数々の競馬の規則を作り、イギリス競馬の創設者とさえ言われるジェームズ1世 (イングランド王)(16-17世紀)、牧場を作りまくって競馬にのめり込み過ぎて清教徒革命を招いたチャールズ1世 (イングランド王)は捕まった後も競馬場に軟禁されていましたし、王政復古で王位についた途端にまず競馬を復活させて自ら出走したチャールズ2世(17世紀)、アスコット競馬場の庇護者アン女王(クイーンアンステークス)、などなど、「競馬に熱中しなかった国王」を探すほうが難しいです。
「ジョージ4世」も、スキャンダルがあったとこまでは事実ですが、「競馬から身を引いた」のではなく、「ニューマーケット競馬場から出禁を食らった」のであって、別の競馬場にはバンバン行っています。ずっと後になって、ニューマーケット競馬場に詫びを入れて許してもらっています。
もちろん、これらの諸王が競馬にのめり込んだ事に関する出典もゴロゴロありますが、こういう場合はどうしたら良いでしょう。これらの出典を大量に示して「他の王」について言及するのもいかがなものかなと思います。出典があるものの冒頭の記述を除去することはできますか?
- ジェームス1世に関する出典
- 『競馬の世界史』p39-45「前期スチュアート王朝と共和制時代」
- 『イギリス競馬史』p63-85,第3章ジェームズ1世時代
- 『世界の競馬場1 ヨーロッパ競馬ガイド』p45-47
- ニューマーケット地域史協会 国立競馬博物館元館長によるニューマーケット競馬史
- The Cromwell Association Cromwellian Britain - Newmarket
- チャールズ1世に関する出典
- 『競馬の世界史』p39-45「前期スチュアート王朝と共和制時代」
- 『イギリス競馬史』p63-85,第3章ジェームズ1世時代
- 『イギリス競馬史』p86-117,第4章王政復古まで
- Inigo Jones and the Prince's Lodging at Newmarket
- The Cromwell Association Cromwellian Britain - Newmarket
- 『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』p221-225
- チャールズ2世に関する出典
- 『イギリス競馬史』p86-117,第4章王政復古まで
- 『競馬の世界史』p46-56「王政復古と後期スチュアート王朝時代」
- The Cromwell Association Cromwellian Britain - Newmarket
- 『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』p221-225
- ニューマーケット競馬場公式HP Newmarket Timeline
- 『サラブレッド』ピーター・ウィレット著、日本中央競馬会・刊、1978
- 『競馬の世界史』ロジャー・ロングリグ・著、原田俊治・訳、日本中央競馬会弘済会・刊、1976
- 『近代スポーツの誕生』松井良明・著、講談社現代新書、2000
- 『馬と人との歴史全書』,キャロライン・デイヴィス,別宮貞徳監訳,東洋書林,2005
- 『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』デニス・クレイグ著、マイルズ・ネーピア改訂、佐藤正人訳、中央競馬ピーアールセンター刊、1986
- 『イギリス競馬史』T・クック著、千葉隆章・訳(『馬の文化叢書 第10巻 競馬 揺籃期のイギリス競馬』江上波夫・木下順二・児玉幸多・監、原田俊治・編、財団法人馬事文化財団・刊、1995に収録)
- The History of Newmarket:and the Annals of the Turf,I-III,John Philip Hore,1886
- 『世界の競馬場1 ヨーロッパ競馬ガイド』渡辺敬一郎・著、中央競馬ピーアールセンター刊,1992
- 『競馬百科』日本中央競馬会・編、みんと・刊、1976
などなど。
--柒月例祭(会話) 2014年11月4日 (火) 05:22 (UTC)
- 競馬関連でさらにいくつか。崩御のあたりの話ですが、Witch of the Airがケンプトン競馬場で勝ったのは5月6日のことで、ジョージ5世とその勝利のことを話し合ったのも6日のこと。また、Witch of the Airは馬名(固有名詞)なのでそのまま「ウィッチオブゼエア(出典内の表記のまま)」とするのがよいと思います。いずれも出典は『競馬の世界史』p275「良き時代とアメリカの侵入」。
- あとは1900年にエドワード7世は馬主としてグランドナショナル(ダービーに匹敵するかそれ以上のレース)も勝っているので、こちらも言及するに値するでしょう。そのほか、皇太子時代に、母親に(行くなと言われたのに)嘘をついて競馬に行ってたとか、逸話はいろいろあります。
- 『競馬の世界史』p137には「競馬界に入ってまもなくの頃は、かつての皇太子(ジョージ4世)と著しく対照的であった。つまり安い値段で馬を買い、またその出走にも野心がなかったのである」とあるのですが、ここから本文の「初めはそれほど持ち馬の出走に熱心ではなかったというが、」とするのは適切ではないと思います。服飾登録を行ったのは1875年ですが、実際にその服色で出走させたのは1877年。ですが、実際には1868年にジョッキークラブの会員になっており、1877年までは親が怒るから堂々と自分の名義で出走させて無かっただけで、友人から名義借りしていました。(『ダービーの歴史』アラステア・バーネット、ティム・ネリガン著、千葉隆章・訳、(財)競馬国際交流協会刊、1998、p112-116「王室所有馬」)「ジョージ4世と好対照」なのは、ジョージ4世が<国が傾くほどの借金をして高馬をバンバン買い、レースではインチキしてでも勝とうとしていたこと>との対照でしょう。
- ひどく厳密には「ミノル」はレンタルなので、エドワード7世の服色で走ったことは確かですが、エドワード7世の「持ち馬」といえるかはビミョーです。--柒月例祭(会話) 2014年11月5日 (水) 18:28 (UTC)
御迷惑をおかけして申し訳ありません。競馬に関する色々な文献を御紹介いただきありがとうございました。いずれ拝見し、参考にさせていただき、御意見・修正等させていただきたいと思いますが、目下、参考文献もほとんど図書館に返却してしまっており、手許になく、また現状貸出数が上限いっぱいなので、すぐに新たに借りるということができない状況です。なので現在今すぐに私から御意見を述べさせていただいたり、あるいは本文を修正したりするのは無理な状況です。記憶の限りですとベイカーの著書は大衆向けっぽい本で学術書のような類の本ではなかったと思いますので、より正確であろう性質の出典があるのでしたら、それにしたがって修正して頂ければ幸いです。御紹介いただいた本を確認させていただくまでいかなる修正にも私から異論はありません。御迷惑おかけいたしますが、よろしくお願いいたします。--Omaemona1982(会話) 2014年11月10日 (月) 07:23 (UTC)
- 迷惑だなんてとんでもないです。私の方は競馬しかわかりません。修正点についてはおおよそ、次のような感じで考えます。
エドワードは即位前・即位後問わず競馬に熱中していた。特に馬主としては、皇太子時代も含めるとダービー3勝、グランドナショナル優勝など、歴代の王族中でも最も成功した(or 歴代の王で、皇太子時代も含め、ダービーを3勝したのはエドワードだけである。)【出典D】。1900年には馬主と生産者部門のチャンピオン(賞金総額)になっている【出典D】。 エドワードは皇太子時代の1864年にジョッキークラブの会員になって賭けを行ったが、母ヴィクトリア女王を憚って、自分の名義で馬を出走させることはしなかった【出典B】。エドワードの競馬仲間は、大学時代からの友人であるヘンリー・チャップリン(en:Henry Chaplin, 1st Viscount Chaplin、【※注】1863年にハーミットでダービー優勝)、フレデリック・ジョンストン(en:Sir Frederick Johnstone, 8th Baronet、【※注】1883年にセントブレーズでダービー優勝)だった【出典B】。自己名義で服色登録を行ったのは1875年で、実際にその服色での出走は1877年が最初だった【出典B】【出典C】。 はじめのうちエドワードは安馬で満足していたが、1885年に競走馬生産に乗り出すため、サンドリンガムに牧場を拓いた【出典C】。
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記述と出典との関係では、斜字にした部分には課題があります。ダービーに3勝したうえに三冠馬まで得た国王・王族は今でもエドワード7世だけです。しかし直接的に「ダービーに3勝した王族はエドワード7世だけだ」と言っている出典は私も持っていません。ダービー優勝者の歴代リストみたいなものはたくさんあり、そこに3回登場する王族が他にいない、というだけです。2回だとヨーク公、1回は皇太子時代のジョージ4世。これに次ぐものとしたら、おそらくエリザベス2世(ダービー以外のクラシックは全て勝った)。ここでも直接的・端的に「歴代の王族で競馬で一番成功したのはエドワード7世だ」と書いている出典はありません。「1900年の馬主・生産者のチャンピオン」までくると出典が出てきます。ここらへんをどの程度の記述でまとめるか、というのが課題です。後半部分はちょっと時間をください。--柒月例祭(会話)
- この作業、まだ終わりませんでしょうか? 作業完了次第、良質な記事に推薦したく思っているのですが。--Tam0031(会話) 2014年12月14日 (日) 15:32 (UTC)
- すみません。資料を掘っていくとどんどんいろいろ出てきまして、滞っていました。基本的には、競馬に関してはどこまで書いたとしてもエドワード7世の全体の評価にはほとんど影響ないようにおもいますので、適当なところで見切りをつけて反映させます。あと2,3日だけ時間をください。お待たせしてすみません。--柒月例祭(会話) 2014年12月15日 (月) 08:46 (UTC)
- っていうか、(言ったからには数日でなんとかしますけども)内容が整ったら良質なりに推薦するんであって、良質に推薦したいから早くしろというのは順序が逆じゃないですかね?--柒月例祭(会話) 2014年12月16日 (火) 12:34 (UTC)
- 別に急いでもらう必要はないのですが、作業している様子が無いので、忘れているのではないか、あるいはこの内容でよいと考えているのではないかと思ったもので。もし問題が無いなら推薦したいと思っていますから、念のため確認しました。--Tam0031(会話) 2014年12月16日 (火) 13:37 (UTC)
- まあ、作業している様子が見られない、というのはそのとおりでしょうね。実際には資料を読んだり探したり(King Edwardや彼の馬・王室の馬に関する本を何冊かアマゾン経由でイギリスの本屋に注文しているんですが、まだ届かない)なんかはしています。この内容でもいいと思えば「疑問点」タグは外します。まあ私の方もアピールが足らず、「文句をつけただけで、あとは放置している」とみられてもしょうがない感じはありますので、そこはすみませんでした。--柒月例祭(会話) 2014年12月16日 (火) 14:01 (UTC)
改稿しました
[編集]当初の目論見よりも、ボリュームがすごい増えました。
全体のバランスを考えると競馬節が長すぎるのではないか、ということで言うと、私もそのように思います。「王」としてのエドワード7世を100としたら、競馬は1ぐらいでしょうから、それにしては長すぎるということになります。
しかしながら、「王」とか関係なくただの「スポーツマン(競馬の生産者・馬主)」としてみると、クラシック8勝、ダービー3勝、馬主チャンピオン、生産者チャンピオン、三冠馬生産、リーディングサイヤー生産、というのは凄まじい成績で、イギリス競馬の歴史の中でもこれほどの成功をおさめたイギリス人はほとんどいないです。なので、これでもかなり控えめに書いている、という感じです。
それでも過剰にすぎる、という感想もあるでしょうし、そこはこれから良質の選考にかかるということなので、そこでの判断に委ねます。--柒月例祭(会話) 2014年12月17日 (水) 12:33 (UTC)
- 書き忘れましたが、追加するかどうか迷ってやめたものを、いちおうここに書いておきます。
- 1896年ダービーを記録した映像 - 本文にも書いたとおり、映写機の発明が1893年なので、1896年6月のこの映像は競馬や皇太子をぬいても、貴重な最初期の「動画」といえるでしょう。動画を見れば、現代の競馬の様子とはまるで違い、柵はなく、先頭の馬がゴールしたらもうゾロゾロ観客が走路に流れ込んでいる様子がわかります。あの中に「皇太子」や「国王」がいて、観衆にかこまれるわけですから、「熱狂」や「警官隊が必死に観客を押しとどめる」「囲まれてやばいと思う」とかの記述の意味がわかると思います。記述の流れからして張りたいところだったのですが、Youtubeの動画をどうはるのが一番いいか、あるいは貼る必要がないか、決めきれなかったのでやめました。1896年に撮影・公開なので、著作権に関する問題はないはずです。--柒月例祭(会話) 2014年12月17日 (水) 12:39 (UTC)
- 競馬だけの実績を見ても特筆に値するということなので、これだけ書いても良いのではないでしょうか。貴族でも実業家でもない人だったとしても、競馬の実績だけで記事を立てられるようなくらい、ということですよね。ところで、競馬場の数90箇所に打消し線が引いてありますが、これはどういう意味があるのでしょうか?--Tam0031(会話) 2014年12月17日 (水) 13:47 (UTC)
- すみません、打ち消し線のところは下書き時の消し忘れです。--柒月例祭(会話) 2014年12月17日 (水) 13:54 (UTC)
分割提案(競馬)
[編集]競馬に関する部分をエドワード7世と競馬という記事へと分割する提案です。目論見としては、ジョージ4世 (イギリス王)・ジョージ4世と競馬と同じようなものを想定しています。
- 2014年に競馬に関する加筆を行いました。この時点でも、「英国王エドワード7世」に関する記事としては競馬の分量が過大でバランスが悪い(この人の主要な事蹟は競馬ではないのに)と考えていました。
- しかしながら当時から「書き足りない」とも考えていました。その後、約3年の間に、出典となる情報源も手元で積み増しされました。とくにジョージ4世と競馬でも使用した『Ascot The History』には、ずばり「バーティ」という章があり、エドワード7世と競馬に関する事柄だけで数十ページのボリュームが有ります。
- というわけで、競馬節を分割したいと思います。本体のほうには概略を残し、詳細はエドワード7世と競馬を参照としたいと思います。--柒月例祭(会話) 2017年10月13日 (金) 09:25 (UTC)
提案 告知を行い10日ほど経ちましたが、異論がなので分割作業に入ります。--柒月例祭(会話) 2017年10月25日 (水) 04:11 (UTC)
報告ひとまず分割を行いました。引き続き修正・編集を行います。--柒月例祭(会話) 2017年10月25日 (水) 05:04 (UTC)