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ノート:アッサリフ・イスマイル・アルマリク

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削除・あるいは加筆した点について

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二冊の参考文献に目を通し、初版に存在する以下の箇所について修正しました。


  • 父は十字軍と戦って勇名を馳せた英雄だったため、その息子であるアルマリクも重臣や民衆からの信望が厚かった。

→二冊いずれにも記述無し。削除せずに残すべきでしょうか?

  • この混乱を巧みに介入したのがアイユーブ朝のサラーフッディーン(サラディン)であり、彼はダマスカスの将軍を調略して寝返らせ、事実上支配下に置いた。

→『イスラーム事典』に記述無し。『イスラームの「英雄」サラディン』には、イブン・アルムカッダムが要請したくだりはありますが(106-108頁)、サラディンがダマスカスの無血開城の際にダマスカスの将軍に何らかのはたらきかけをした記述は無し。

  • このため、1175年にはヌールッディーンの遺臣らがサラディンに対して反攻するが、逆に敗れてしまい、かえってザンギー朝の衰退が表面化した上、名目上とはいえヌールッディーン時代に従属していたサラディンが事実上独立することになってしまった。

→『イスラームの「英雄」サラディン』110-111頁を要約。

  • その後、アルマリクはアイユーブ朝や十字軍だけではなく、ルーム・セルジューク朝などからも圧迫を受けるようになり、父時代の勢力を大きく失うことになる。また重臣間の抗争も抑えきれずに巻き込まれて、1181年に18歳の若さで暗殺された。

→二冊いずれにも他国からの圧迫・重臣間の抗争に巻き込まれた記述は無し。『イスラームの「英雄」サラディン』には、死の前に重病にかかっている記述あり、死因についての言及無し。

  • 一説にこの暗殺はサラディンが暗躍していたともいわれる。彼の死を待っていたようにサラディンはアレッポに侵攻し、わずか2年後には支配下に置いてザンギー朝は終焉を迎えた。

→『イスラーム事典』に記述無し。『イスラームの「英雄」サラディン』には、サリーフが重病にかかっていることを知ったサラディンがアレッポとモスールの連合を阻止する命令を出したという記述はありますが、そこからサラディン暗躍説に持っていくのは少しばかり飛躍しているのではないかと思います。没後の出来事については、ザンギー朝イマードゥッディーン・ザンギー2世の項目に載せた方がいいと思い、削除しました。--オオミズナギドリ 2011年6月5日 (日) 13:19 (UTC)[返信]

改名について

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本項目の改名を提案します。現在項目名がアッサリフ・イスマイル・アルマリクとなっていますが、恐らくこれは歴史書か人物伝関係の索引で、al-Malik al-Ṣāliḥ Ismā`īl となるべきものが、見出し語としての書式を優先して al-Ṣāliḥ Ismā`īl, al-Malik などにしていたものをそのまま項目名にしてしまったものだと思われます。(英語版がそうしてしまった影響だと思うのですが) 本来の人名としては「アル=マリク・アッ=サーリフ」al-Malik al-Ṣāliḥ で一続きの尊号であって、これに個人名(イスム)の「イスマーイール」Ismā`īl がくっつく形ですので「アル=マリク」の部分を後ろに倒置してしまうのは人名表記としては不自然なもので項目名としてあまり適切なものとは思われません。

イブン・ハッリカーン en:Ibn Khallikan などの13、14世紀頃のアラビア語の人名辞典でも al-Malik al-Ṣāliḥ Ismā`īl 等の書かれ方をしていたと思うのですが(残念ながら自分は現在ちょっと確認出来ません(汗)、イブン・アスィールの『完史』(の刊本)の索引では「アル=マリク ・アッ=サーリフ・イスマーイール・ブン・ヌールッディーン アレッポ(ハラブ)のサーヒブ」( الملك الصالح إسماعيل بن نور الدين صاحب حلب al-Malik al-Ṣāliḥ Ismā`īl b. Nūr al-Dīn Ṣāḥib Ḥalab)となっています。(恐らく『完史』の最も流通している刊本であるCarl Johan Tornberg が1871年に刊行した12巻+索引本の場合) 『完史』の索引ではミームの項目(M)で al-Malik al-… の称号を持つ人物で一括されてまして、アイユーブ朝アル=アーディル al-Malik al-`Ādil Abū Bakr b. Ayyūb やアル=カーミル al-Malik al-Kāmil Muḥammad b. al-`Ādil も、勿論アル=アジーズ al-Malik al-`Azīz `Uthmān b. Ṣalāḥ al-Dīn やアル=アシュラフ・ムーサー al-Malik al-Ashraf Mūsá もこちらのミームの項目に配列されています。

また、『完史』本文でもヒジュラ暦569年(1173年8月 - 1174年8月)の項目のヌールッディーン逝去の条の記事につづく「彼の子息アル=マリク ・アッ=サーリフの統治の叙述(dhikr mulk walad-hu Malik al-Ṣāliḥ)」の条の冒頭でも「しかして、ヌールッディーンが亡くなり、彼の後を継いで彼の息子 Malik al-Ṣāliḥ Ismā`īl が王位に立った。( لمّا توفّي نور الدين قام ابنه الملك الصالح إسماعيل بالملك بعده lammā tawaffī Nūr al-Dīn qāma ibn-hu Malik al-Ṣāliḥ Ismā`īl bi-al-Mulk ba`d-hu)」とあって、Malik al-Ṣāliḥ Ismā`īl ないし Malik al-Ṣāliḥ でひとまとまりの人名として扱うべきものであったことが伺えます。そのため、項目名もこれらに準拠する形で改名・整理する必要があると思いますが、これは同じ人名要素の構成を持つアイユーブ朝の人物たちも何らかの形で揃える必要がありますので、それらとも調整をせねばならないと思います。

加えて、アイユーブ朝にはアル=アーディルの息子でアル=カーミルの兄弟だった al-Malik al-Ṣāliḥ `Imād al-Dīn Ismā`īl en:As-Salih Ismail も実は同じ尊号(al-Malik al-Ṣāliḥ)と名前(Ismā`īl)を有する人物であるため、これとの区別も考慮せねばなりません。今後の編集作業の目安として以上の事を述べておきたいと思います。--Haydar会話2014年3月26日 (水) 15:40 (UTC)[返信]