ニルス・リードホルム
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![]() 1959年のリードホルム | ||||||||||||||
名前 | ||||||||||||||
愛称 | Il Barone (The Baron) | |||||||||||||
ラテン文字 | Nils Liedholm | |||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||
国籍 |
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生年月日 | 1922年10月8日 | |||||||||||||
出身地 | ヴァルデマルスヴィク | |||||||||||||
没年月日 | 2007年11月5日(85歳没) | |||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||
ポジション | MF | |||||||||||||
クラブ1 | ||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||||||||||
1943-1946 |
![]() | 60 | (24) | |||||||||||
1946-1949 |
![]() | 48 | (22) | |||||||||||
1949-1961 |
![]() | 359 | (81) | |||||||||||
監督歴 | ||||||||||||||
1963-1966 |
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1966-1968 |
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1968-1969 |
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1969-1971 |
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1971-1973 |
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1973-1977 |
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1977-1979 |
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1979-1984 |
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1984-1987 |
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1987-1989 |
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1992 |
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1997 |
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ニルス・リードホルム(Nils Liedholm、1922年10月8日 - 2007年11月5日)は、スウェーデン出身のサッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはMF。
スウェーデン代表や選手時代の大半を過ごしたACミランでは、同僚のグンナー・ノルダール、グンナー・グレンと共に「グレ・ノ・リ」トリオ (Gre-No-Li) を形成し活躍。現役引退後には指導者としても成功を収めた。
経歴
[編集]選手時代
[編集]リードホルムは1942年にIKスレイプニルで選手キャリアをスタートさせる。1946年からはIFKノーショーピングへ移籍し、2度のリーグ制覇に貢献した。1949年にイタリアのACミランへ移籍し、同年9月11日のサンプドリア戦でリーグデビューを飾るとレギュラーに定着し、1949-50シーズンには37試合出場18得点を記録した。そして在籍期間中に4度のリーグ制覇(1951年、1955年、1957年、1959年)と2度のラテンカップ制覇(1951年、1956年)、そして1958年のUEFAチャンピオンズカップでは主将として決勝のレアル・マドリード戦に出場し準優勝に貢献した(試合は2-3でミランの敗北)。
リードホルムはグンナー・ノルダール(セリエA通算257試合出場225得点の記録保持者)の得点の多くをアシストした。またフィジカルトレーニングの重要性を理解していた初の選手の一人であった。その為、練習時間の中で他の選手よりも多くの時間をフィジカルトレーニングに費やした。また週に2回は100メートル走、3000メートル走、投げ槍、砲丸投げと高跳びを行ったという。この事が40歳近くまで現役を続ける事が出来た要因となった。
スウェーデン代表としては1946年に代表デビューを飾り、1948年のロンドンオリンピック金メダル獲得に貢献。1958年のFIFAワールドカップ・スウェーデン大会では主将として大会に挑み、同国の決勝進出に貢献した。決勝のブラジル戦では前半4分に先制点を決めたが、ブラジルの反撃もあり2-5で敗れた。
監督時代
[編集]現役引退後は指導者の道へ進み、古巣のACミランやフィオレンティーナで監督を務めた。そして1979年にASローマの監督に就任すると、2度のリーグ制覇(1979年、1983年)、3度のコッパ・イタリア制覇(1981年、1983年、1984年)、1984年のUEFAチャンピオンズカップ準優勝(決勝でリヴァプールFCにPK戦の末に敗退)に導いた。ローマ時代にはパウロ・ロベルト・ファルカンやブルーノ・コンティらの攻撃陣と、当時のイタリアでは珍しいゾーンディフェンスを採用して成功を収めた。
その後
[編集]晩年もイタリア国内に留まり、息子と共にブドウ園を運営していた。また、20世紀の終わりにはスウェーデンの大手新聞社Aftonbladetの読者投票による20世紀最高のスウェーデン人選手に選出された。
2007年11月5日にアレッサンドリア県の自宅で死去、85歳没。