ニサ (ポーランド)
Nysa | |||
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中心の広場 | |||
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愛称: Śląski Rzym Silesian Rome | |||
北緯50度28分17秒 東経17度20分2秒 / 北緯50.47139度 東経17.33389度 | |||
Country | ポーランド | ||
県 | オポーレ県 | ||
郡 | Nysa County | ||
グミナ | Gmina Nysa | ||
Established | 10世紀 | ||
Town rights | 1223 | ||
政府 | |||
• 町長 | Kordian Kolbiarz | ||
面積 | |||
• 合計 | 27.5 km2 | ||
標高 | 195 m | ||
人口 (2019) | |||
• 合計 | 48,849人 | ||
• 密度 | 1,800人/km2 | ||
等時帯 | UTC+1 (CET) | ||
• 夏時間 | UTC+2 (CEST) | ||
郵便番号 |
48-300 | ||
市外局番 | +48 77 | ||
カープレート | ONY | ||
ウェブサイト | https://nysa.eu |
ニサ(ポーランド語: Nysa [ˈnɨsa] ( 音声ファイル))、あるいはヌィサは、ポーランド南西部、ニサ・クウォツカ川(グラッツァー・ナイセ川)河岸にある町。オポーレ県に属し、人口は48,849人(2019年)。ニサ郡の郡都である。周辺自治体を含めると、60,123人の都市圏を形成している。ドイツ語名はナイセ(Neisse、旧表記 Neiße)。
歴史
[編集]ニサはシレジア地方の最古の町の一つである。10世紀ころにおそらく町ができたとされ、その後同名の公国の首都となった。ニサ公国としてヴロツワフ司教座の一部となった。1350年以降にできた町の要塞設備は、1424年にフス派から町を守るために使われた。
17世紀の三十年戦争の間、町は3度包囲された。第一次シレジア戦争(1740年-1741年、オーストリア継承戦争)は、シレジアにおけるオーストリア主権の終わりを告げ、町はプロイセン王フリードリヒ2世の手に渡り、町の要塞設備は近代的なものにつくり変えられた。1769年8月25日、ナイセはフリードリヒ2世と神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の会談の場となった。
ナポレオン戦争では、ナイセは1807年にフランス帝国に占領された。プロイセン領シュレージエンではプロテスタントが優勢であったが、ナイセはほとんどがカトリック教徒であった。ゴシック様式とバロック様式の教会が数多くあるナイセは、かつて「シレジアのローマ」と呼ばれていた。1816年から1911年、町は独立都市となって以後ナイセ地区の首府であった。
第一次世界大戦後、ナイセはヴァイマル共和国の新設されたオーバーシュレージエン(上シレジア)の一部となった。第二次世界大戦では赤軍に占領され、町はポツダム協定に基づきポーランド行政下に置かれ、ポーランド語の地名ニサに変更された。町に住んでいたドイツ人住民は、ドイツ人追放によって町を出て行き、替わってポーランド人が移り住んだ。
著名な出身者
[編集]- コンラート・ブロッホ - 生化学者
参照
[編集]"NEISSE BUCH DER ERINNERUNG", Dr. Max Warmbrunn & Alfred Jahn, Gedruckt bei Druckhaus Nürnberg GmbH, 1966