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ニコライ・ピモネンコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ニコライ・ピモネンコ
Николай Пимоненко
Микола Пимоненко
自画像(1886年、ウクライナ国立美術館
生誕 (1862-03-09) 1862年3月9日
ロシア帝国 キエフ県 プリオルカ
死没 1912年3月26日(1912-03-26)(50歳没)
ロシア帝国 キエフ
出身校 帝国美術アカデミー
著名な実績 絵画
流派 写実主義
運動・動向 移動派
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ニコライ・コルニリエヴィチ・ピモネンコロシア語: Никола́й Корни́льевич Пимоне́нкоウクライナ語: Мико́ла Корни́лович Пимоне́нко 1862年3月9日1912年3月26日[1])は、近代のウクライナ画家である。風景画風俗画を中心に700点以上の作品を残した[2]。ウクライナの風景・農村をテーマにした作品が多い。

生涯

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1862年、ロシア帝国キエフ県のプリオルカロシア語版(現・キーウ)に生まれた。父はイコン製作のための工房を開いており、11歳の頃から父に連れられてさまざまな町や村へ出向き、教会の絵を描くようになった[3]

1878年、帝国美術アカデミー出身のニコライ・ムラシュコロシア語版ウクライナ語版英語版が運営する美術学校へ通うこととなった。学費を払う経済的余裕はなく、ムラシュコとイヴァン・テレシュチェンコロシア語版による支援を受けた。当初は生徒として参加したが、すぐに自分が他の生徒と比べ優れていることが分かった。このため翌年には若い生徒の指導役を任された。その2年後、試験に合格しキエフ県の学校での美術教師資格を得た。試験結果が帝国美術アカデミーへ送られ、同校への入学が許可された[3]

1882年、帝国美術アカデミーに入学した。同時期に学んだ芸術家にはヴァレンティン・セローフミハイル・ヴルーベリセルヒー・ヴァシリキウシキーらがいた。しかし、学費や作品制作費用を捻出するために重労働に従事し、また寒さのために体調を崩し、たびたび肺炎を患うようになった[2]。1884年に退学を余儀なくされ、キエフに戻り、ムラシュコの美術学校での指導の傍ら自身の作品制作を行った[3]

1883年にウクライナ人の画家ウラジミール・オルロフスキーウクライナ語版ロシア語版英語版の娘と結婚した。

1900年以降、現在のキーウ国立工科大学ウクライナ語版ロシア語版英語版図法幾何学を指導した[4]

1912年に病死した。墓所はキーウのルキヤニウカウクライナ語版墓地にある[2]

作風

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市井や農村の人々、風景を写実的に描くスタイルは移動派の影響を受けたもので、1899年には同グループの正式な会員となった[3]

ロシア帝国中で広く人気を博し、1904年にロシア帝国美術アカデミー会員となった[2]

作品

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脚注

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  1. ^ Pymonenko, Mykola”. Internet Encyclopedia of Ukraine. 2022年10月3日閲覧。
  2. ^ a b c d АКАДЕМИК ЖИВОПИСИ”. Дзеркало тижня (1999年7月23日). 2022年10月3日閲覧。
  3. ^ a b c d Pimonenko Mikola Kornilievich. On the 150th anniversary of his birth | Igor Sikorsky Kyiv Polytechnic Institute”. National Technical University of Ukraine “Igor Sikorsky Kyiv Polytechnic Institute”. 2022年10月3日閲覧。
  4. ^ Пимоненко М.К.”. Національний технічний університет України "Київський політехнічний інститут імені Ігоря Сікорського". 2022年10月4日閲覧。

参考文献

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