ニコライ・シーシキン
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ロシア帝国の政治家・外交官
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ニコライ・シーシキン | |
ロシア帝国 外務大臣 | |
君主 | ニコライ2世 |
前任者 | アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー |
後任者 | ミハイル・ムラヴィヨフ |
個人情報 | |
生誕 | 1830年8月23日 ロシア帝国・ヤロスラヴリ |
死没 | 1902年11月24日 (72歳没) ロシア帝国・サンクトペテルブルク ガッチナ |
国籍 | ロシア帝国 |
職業 | 外交官、ロシア帝国外務大臣 |
ニコライ・パブロヴィッチ・シーシキン (ロシア語: Николай Павлович Шишкин、1830年8月23日(ユリウス暦 8月11日) – 1902年11月24日(ユリウス暦 11月11日))は帝政ロシアの政治家、1896年からの1897年にかけてのロシアの外相。ヤロスラヴリ生まれ。
略歴
[編集]1847年以降、ニコライ・シーシキンはヤロスラヴリ知事の事務所に勤務していた。1853年、彼は外務省のアジア部に勤務した、以後、ブカレスト総領事館勤務(1859年)、アドリアノープル総領事(1861年)、ベオグラード総領事(1863年)、セルビア総領事(1868年)を経験し、外交官としてアメリカ合衆国(1875年)、ギリシャ王国(1880年)、スウェーデン=ノルウェー(1884年)への大使として派遣された。1891年以降、彼は外務大臣の補佐官を務めた。 1895年1月14日から外務省の暫定支配人となり、アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキーの病気と突然死ののち、彼の後継者と見なされ、1896年8月19日から1897年1月1日まで外務大臣を務めた。しかし、短期間務めただけでミハイル・ニコラエヴィッチ・ムラヴィヨフに道を譲った。1897年以降は現在の国会議員にあたる職にあった。1902年11月死去。
家族
[編集]妻は、ヴァーバラ・ニコラエヴナ・シャホフスカヤ(1835年-1910年)である。
脚注
[編集]- ^ "Шишкин, Николай Павлович". Петербургский некрополь. Vol. 4 (С—Ө). СПб.: Типография М. М. Стасюлевича. Сост. В. И. Саитов. 1913. p. 550.(ロシア語)
参考文献
[編集]- Sjisjkin, Nikolaj Pavlovotj(スウェーデン語)
関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー |
ロシア帝国外務大臣 1896年 – 1897年 |
次代 ミハイル・ムラヴィヨフ |
外交職 | ||
先代 ミハイル・バルトロメイ |
駐ギリシャロシア公使 1880年 – 1884年 |
次代 エフゲニー・プツォフ |
先代 グリゴリー・オクネフ |
駐スウェーデン=ノルウェーロシア大使 1884年 – 1891年 |
次代 イヴァン・ジノビエフ |