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ニコライ・グミリョフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ニコライ・グミリョフ
1913年撮影された左からグミリョフ、子レフ・グミリョフ、妻アンナ・アフマートヴァ

ニコライ・ステファノヴィッチ・グミリョフロシア語:Никола́й Степа́нович Гумилёв英語:Nikolay Stepanovich GumilevNikolay Styepanovich Gumilyov.ru.vorb.oga 発音[ヘルプ/ファイル]1886年4月15日新暦) - 1921年8月25日)は、ロシアクロンシュタット出身の詩人アクメイズムの指導者として名高い[1]は同国の詩人、アンナ・アフマートヴァで、子供歴史家民俗学者人類学者レフ・グミリョフen:Lev Gumilev)である。

略伝

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1903年、グミリョフがツァールスコエ・セローへ通う中学生時代の頃に後に妻となるアンナ・アフマートヴァと知り合う。当初グミリョフは熱烈なプロポーズをするもののアフマートヴァはこれを無視し、絶望したグミリョフが自殺未遂まで起こした。最終的には1910年4月25日にアフマートヴァが渋々結婚に至った。

グミリョフが大学生の頃はペテルブルク大学パリ大学で学び、新婚旅行で訪れたフランスパリに長く住む。しかし新婚旅行から戻ってグミリョフはアフマートヴァを残して一人アフリカへ旅立った。

1912年4月息子レフ・グミリョフが生まれる。だがグミリョフは再び妻子を置いて一人でアフリカへと旅立ったため、家庭は事実上崩壊していた。

第一次世界大戦の時は義勇兵として参戦した[2]

しかし1921年8月25日反革命陰謀に加わったとして銃殺された[2]

作品

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グミリョフの作品は男性的、具体的、明晰なイメージで異国風である[2][3]。詩を書き始めた頃は、ギムナジウムの校長であったアンネンスキーの影響が著しく、グミリョフ自身もそれを認め、いくつかの詩をアンネンスキーに捧げている[4]

  • 1905年、詩集『征服者の道』
  • 1908年、詩集『ロマンチックな花々』
  • 1910年、詩集『真珠』
  • 1918年、詩集『篝火』
  • 1920年、詩劇『ゴンドラ』

脚注・参考文献

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  1. ^ グミリョフとは - コトバンク、2012年10月30日閲覧。
  2. ^ a b c グミリョフ - Yahoo!百科事典日本大百科全書、2012年10月30日閲覧。
  3. ^ 高津春繁・手塚富雄、西脇順三郎、久松潜一 『万有百科大事典 1 文学』 相賀徹夫、小学館〈日本大百科全書〉(原著1973年8月10日)、初版(日本語)、187ページ。
  4. ^ J・アンネンコフ『同時代人の肖像 上』現代思潮社、1971年、157頁。 

関連項目

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