ナビーフ・ビッリー
ナビーフ・ビッリー نبيه بري | |
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![]() (2024年撮影) | |
生年月日 | 1938年1月28日(87歳) |
出生地 |
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出身校 | レバノン大学法学部 |
所属政党 | アマル |
配偶者 | ランダ・ビッリー |
子女 | 6人 |
宗教 | シーア派イスラム教徒 |
在任期間 | 1992年10月20日 - |
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在任期間 | 1980年 - |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a8/Iranian_FM_Javad_Zarif_meeting_Nabih_Berri_in_his_office.jpg/200px-Iranian_FM_Javad_Zarif_meeting_Nabih_Berri_in_his_office.jpg)
ナビーフ・ムスタファ・ビッリー(アラビア語: نبيه مصطفى برّي, ラテン文字転写: Nabih Mustafa Berri、1938年1月28日 - )は、レバノンの政治家、弁護士。1992年から30年以上に渡って、国民議会議長を務めている。党首格のアマル政治局議長及び発展開放連合議長を兼任している[1]。
報道機関によっては「ナビハ・ベリ」、「ナビ・ベリ」という記述も見られる[2]。また、ナビーフ・ベッリ、ナビーフ・ベッリーとも表記される。
略歴
[編集]ビッリーはシオラレオネ第2の都市・ボーでシーア派の商人の子として誕生[3]。やがて、レバノン南部のティブニーン、アイン・エベルと移住を続けた。1963年にビッリーはレバノン大学で法学学士を取得し、控訴裁判所弁護士に就任[4]。1963年、ビッリーはレバノン学生全国連合会長に就任し、政治活動を行ってきた[5]。
1980年、ベリはアマル政治局議長に選出される。1982年にレバノン内戦でイリヤース・サルキース大統領率いる救国委員会の一員として政権を担うようになり、委員会には後の大統領となるバシール・ジェマイエルも含まれていた。ホメイニズム信奉者のフセイン・アル=ムーサーウィはビッリー率いるアマルと衝突し、救国委員会の敵と見做されていたが、1990年に暗殺された。1984年にビッリーはインティファーダとなり、進歩社会党党首であったワリード・ジュンブラートと同盟を組み、時の大統領アミーン・ジェマイエルをレバノン軍と共に失脚させた。
ラシード・カラーミー政権下で法務大臣、サリーム・アル=フス政権下で環境大臣、無任所大臣などを歴任[6]。ビッリーはシリアの後ろ盾も得て、レバノン政府で最も影響力のある政治家となった[7]。
1992年10月20日に出席議員の124票中、105票の賛成票を得て、国民議会議長に選出された。1996年から5度再選を重ね、世界で最も長く務めた立法府の議長となった[8]。2014年、大統領欠員が起こった最初の政治危機ではビッリーが「キリスト教、イスラム教での権力分散は如何なる状況でも変化しない」とシーア派を代表して、声明を出した[9]。
ビッリーは同じシーア派のイスラム主義組織ヒズボラと太いパイプを持ち、2024年のレバノン侵攻の際はイスラエルとヒズボラの停戦に向け、米国と調整を行った[10]。2024年11月29日、3度目の大統領欠員があった際に議会を招集すると語り、1月9日に臨時開会を行うと声明を出した[11]。2025年1月9日、大統領選挙で2年ぶりにジョゼフ・アウンが選出された。選出直後にアウンと握手を交わしている[12]。
脚注
[編集]- ^ “Nabih Berry Biography”. オリジナルの2014年5月3日時点におけるアーカイブ。 2025年1月11日閲覧。
- ^ “レバノンで9年ぶり総選挙、ヒズボラが躍進へ”. AFP通信. 2025年1月10日閲覧。
- ^ “Nabih Berri”. Wars of Lebanon. 2025年1月10日閲覧。
- ^ official website of the Lebanese parliament. Country-data.com. Retrieved on 2014年8月5日
- ^ Nabih Mustafa Berri biography Archived 2015-04-11 at the Wayback Machine.
- ^ “Lebanese Parliament official website”. オリジナルの2014年5月3日時点におけるアーカイブ。 2025年1月10日閲覧。
- ^ Haddad, Simon (2002-04). “Cultural diversity and sectarian attitudes in postwar Lebanon”. Journal of Ethnic and Migration Studies 28 (2): 291–306. doi:10.1080/13691830220124341. オリジナルの2013-05-27時点におけるアーカイブ。 2025年1月10日閲覧。.
- ^ “Berri Family” (英語). lebanon.mom-gmr.org. 2025年1月10日閲覧。
- ^ Joseph A. Kechichian (2014年5月6日). “No change in power-sharing formula in Lebanon” 2025年1月6日閲覧。
- ^ “ヒズボラ、停戦案に同意か 米特使「決断の時」―レバノン”. 時事通信 (2024年11月19日). 2025年1月10日閲覧。
- ^ “レバノン下院議員、1月の大統領選投票で指導者空白の解消を求める”. 2025年1月10日閲覧。
- ^ “レバノン、新大統領に米支援の軍司令官選出 長年の政治的膠着に終止符” 2025年1月10日閲覧。
関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 フセイン・エル=フセイニー |
![]() 1992年 - |
現職 |