ドン・アース
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | カリフォルニア州オレンジ |
生年月日 | 1954年9月8日(70歳) |
身長 体重 |
6' 3" =約190.5 cm 210 lb =約95.3 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1972年 ドラフト6巡目 |
初出場 | 1977年7月26日 |
最終出場 | 1990年10月3日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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ドン・アース(Donald William "Don" Aase、1954年9月8日 - )はアメリカ合衆国・カリフォルニア州オレンジ出身のMLBの野球選手(投手)。右投右打。
日本では、ドン・アーシーと表記されることもある[1][2]。
経歴
[編集]マイナーリーグ時代
[編集]1972年、ドラフト6巡目でボストン・レッドソックスに入団。同年はウィリアムズポート・レッドソックス(Williamsport Red Sox)でプレイしたが、0勝10敗、防御率5.81。更に翌年も、ウィンター・ヘイブン・レッドソックス(Winter Haven Red Sox)でプレイして15敗を記録し、フロリダ州リーグの最多敗戦投手となってしまうなど、2年続けて不本意な結果に終わってしまったが、1974年には見事立ち直り、ウィンストン・セーラム・レッドソックスの一員として、勝利、完投、完封の3部門でカロライナ・リーグの1位を獲得。これが評価されてリーグの最優秀投手にも選出された。更にその後、「ポー・ソックス(PawSox)」の愛称で知られる、ポータケット・レッドソックス(AAA)へと昇格し、後はメジャーデビューの時を待つのみとなった。
ボストン・レッドソックス時代
[編集]1977年7月にメジャー初昇格を果たし、先発ローテーションに入った。ルーキーながらその期待に応え、デビュー戦となった7月26日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で勝ち投手となると、5日後のカリフォルニア・エンゼルス戦では完封勝利まで達成した。更に9月5日のトロント・ブルージェイズ戦でも完封勝利を記録し、終わってみれば、13試合登板で6勝2敗、防御率3.12に2完封という上々の1年目のシーズンであった。
カリフォルニア・エンゼルス時代
[編集]1978年(1年目)は及第点以上の数字を残したアースだったが、シーズン終了後の12月8日に、俊足の二塁手、ジェリー・レミーとのトレードで、カリフォルニア・エンゼルスへと移籍することとなる。エンゼルス移籍後も当初は先発投手と してマウンドに立ち、移籍1年目の1978年には11勝を記録した。翌1979年も主に先発を務めたが、8月半ば以降は、メジャー3年目で初めて、リリーフ投手としても起用されるようになった。リリーフを務めるようになったお陰で、同年のリーグチャンピオンシップシリーズ第3戦では、先発のフランク・タナナを6回からリリーフし、結果的にエンゼルス史上初のポストシーズンでの勝ち投手となった(しかし、アース登板時点で2対1とリードしていながら、6回と7回に1点ずつを与えてしまうなど、内容は決して誉められたものではなかった。試合は9回裏に1点ビハインドのエンゼルスが2点を奪ってサヨナラ勝ちを決めた)。
1980年7月31日のゲームで一つのアウトも取れずに4失点したのを最後に、アースはリリーフ専門の投手となる(それ以降現役引退まで、再びメジャーの先発マウンドを務めることは1試合もなかった)。この試合はアースの通算100試合目の登板でもあったが、この試合を含めての直近5試合で17.2回を投げて33安打を浴び、26失点(24自責点)、防御率12.23という大荒れの状態であったため、先発ローテーションを外れるという形になった(前年に自身初のリリーフ登板を務めた際も、直前の5試合で防御率6.35と不調に陥っていた)。するとリリーフ転向後は別人のように安定した投球を見せ、19試合に登板し、防御率2.08を記録。先発を務めていた際に投球回数を稼いでいたこともあり、シーズン終了時の4.06という防御率は、チームトップの数字だった。
1981年には救援投手として期待が寄せられ、エンゼルス最初のクローザーを務めることとなった。前年にリリーフとして見せた活躍がまぐれではないことを証明するシーズンとなったが、開幕から15試合の登板で防御率0.66、被打率も.208とほぼ完璧な投球を見せた。その後やや失速したものの(24試合で防御率3.55)、シーズンでの成績は39試合の登板で、アメリカンリーグ6位(チームトップ)の11セーブを記録した。また2.34という防御率は、10イニング以上に登板した投手の中ではチームトップの数字であった。
1982年のシーズンも、開幕からリリーフ投手の一角を担い、一時は防御率0点台を記録していたが、7月17日のゲームが同年最後の登板となった。肘の怪我との戦いの始まりであった。
1983年はメジャー登板0に終わった。
1984年6月18日、約2年振りとなるメジャー登板を果たす。復帰後は4試合連続無失点を記録するなど好調をキープし、シーズンでは23試合に登板して防御率はチームトップ(規定投球回如何にかかわらず)の1.62。見事な復活を果たした。
ボルチモア・オリオールズ時代
[編集]1984年のシーズン終了後フリーエージェントとなったアースは、ボルチモア・オリオールズへと移籍する。オリオールズでは当時のクローザー・ティッピー・マルティネスが衰えから不調に陥るなど、有力なリリーフ投手が不在であったため、クローザーとして期待がかけられた。ところが開幕から20試合の登板で10度失点するなど、序盤はチームの期待を大きく裏切ってしまった。それ以降の34試合の登板では13セーブ、防御率2.24と本来の調子を取り戻し、シーズン最後の登板となった10月5日のデトロイト・タイガース戦では10勝目を挙げ、6年振りに2桁勝利を達成したが、2年振りのワールドシリーズ制覇を目指していたチームに大きな貢献をすることは出来なかった。ただし登板数54はチームトップの数字だった。
1986年、アースにとって最高のシーズンが訪れる。この年も開幕からクローザーを任されたアースは、前年の開幕直後とは打って変わって好投を続け、前半戦で39試合に登板し、23セーブ、防御率2.42という数字を残した。これが評価され、自身初のオールスターゲームにも出場を果たす。試合は9回裏、8回裏に2点を返して1点差に迫り、なおも勢いづくナショナルリーグ・オールスターの攻撃は1アウトでランナーが一、三塁。このピンチの場面でアースにマウンドが託された。外野フライでも同点、長打が出れば一気にアメリカンリーグ・オールスターは逆転サヨナラ負けという緊迫した状況だったが、落ち着いた投球を見せ、この試合で二塁打を放っていたクリス・ブラウンを内野ゴロに打ち取り、ダブルプレーで試合を締めた。この結果、オールスターでもセーブを記録した。
ところが、8月頃から徐々に登板過多のためか疲れが見え始め、8月28日にはオークランド・アスレチックスとのダブルヘッダーで、2試合とも敗戦投手となる。一日に2敗を喫するというのは、オリオールズの投手史上初という不名誉な記録だった。更に9月8日のゲームでは2回を投げて6失点と炎上し、遂に防御率が3点台となった。その後最後の意地を見せ、前年同様シーズン最後の登板となった10月5日のデトロイト・タイガース戦で1回を無失点に抑え、防御率2.98でシーズンを終えるが、前半戦と比べると後半戦は不本意な数字に終わってしまった(27試合で防御率3.65、11セーブ)。それでもチームトップ(アメリカンリーグ5位)の66試合に登板し、ティム・ストッダードが1980年に記録した26セーブを大幅に上回る34セーブ(アメリカンリーグ2位)を記録。この数字は1999年にグレッグ・オルソンが36セーブを記録するまで、オリオールズのチーム記録だった。
1987年に再び試練の時が訪れる。前年の好成績を受けて開幕からクローザーとしての働きを期待されていたが、開幕戦で白星を挙げた以降は過去2年間の勤続疲労が出たのか、肩の怪我に悩まされるようになった。4月14日の次の登板が5月13日になるなど、投げることすらままならない状態に陥ったため、5月23日の登板を最後に肩の手術を受けるためシーズンを終えた。
1988年のシーズンは、前年に早い段階で手術を受けたことが功を奏し、5月10日のテキサス・レンジャーズでメジャー復帰を果たす。しかし復帰戦で一つのアウトも取れずに4失点を喫すると、その後も1986年のような安定感は見られず、前半戦終了時点では防御率6.53という数字だった。ところが後半戦に入ると一転して安定した投球を見せ、防御率2.08を記録した。
ニューヨーク・メッツ時代
[編集]前述の通り1988年の後半戦では好投を続けたが、オリオールズはアースが当時34歳となっていたことや怪我の再発のリスクを恐れて、10月に解雇される。フリーエージェントとなったアースは実に4ヶ月半に渡って新たな所属先を捜し求めた。
1989年2月20日、ようやくニューヨーク・メッツとの契約に漕ぎ着ける。メッツでは以前同様リリーフを務めることとなり、開幕戦で2回を無失点に抑えたのを皮切りに、前半戦で29試合に登板し、防御率2.55と前年の後半戦の好調を新天地でもキープした。ところが、またもや後半戦では失速。20試合の登板で防御率6.00という炎上振りだった。シーズンでは抑えのランディ・マイヤーズに次ぐチーム2位の49試合登板となったが、他の主だったリリーフ投手が揃いも揃って安定した投球を見せたため、最終的には存在感を示すことは出来なかった。メッツも他の投手の投球を見て不要と判断したのか、メッツでのプレイはこの1年間だけとなった。
ロサンゼルス・ドジャース時代
[編集]1990年2月20日、ロサンゼルス・ドジャースと契約する。ドジャースでも救援投手の一角を担う存在として開幕を迎えるが、春に7試合連続無失点を記録した次の試合で失点して防御率が3点台に達すると、その後は目立った活躍が出来ず、6月終了時点で防御率は3.62。7月は休養のため1試合にも登板しなかったが、8月下旬に復帰してからも9試合で防御率6.75と、いよいよ限界を感じさせる内容だった。
自身最後の登板は10月3日のサンディエゴ・パドレス戦。0.1回を投げて2失点と、有終の美を飾ることは出来なかった。
人物
[編集]- 歴代メジャーリーガーをアルファベット順に並べた時、デビッド・アーズマ(David Aardsma)、ハンク・アーロン(Hank Aaron)、トミー・アーロン(Tommie Aaron)に次いで4番目にくる選手。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1977 | BOS | 13 | 13 | 4 | 2 | 0 | 6 | 2 | 0 | 0 | .750 | 373 | 92.1 | 85 | 6 | 19 | 1 | 1 | 49 | 0 | 0 | 36 | 32 | 3.12 | 1.13 |
1978 | CAL | 29 | 29 | 6 | 1 | 0 | 11 | 8 | 0 | 0 | .579 | 773 | 178.2 | 185 | 14 | 80 | 4 | 2 | 93 | 3 | 0 | 88 | 80 | 4.03 | 1.48 |
1979 | 37 | 28 | 7 | 1 | 0 | 9 | 10 | 0 | 0 | .474 | 817 | 185.1 | 200 | 19 | 77 | 7 | 1 | 96 | 5 | 0 | 104 | 99 | 4.81 | 1.49 | |
1980 | 40 | 21 | 5 | 1 | 1 | 8 | 13 | 2 | 1 | .381 | 761 | 175.0 | 193 | 13 | 66 | 3 | 1 | 74 | 2 | 1 | 83 | 79 | 4.06 | 1.48 | |
1981 | 39 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | 11 | 3 | .500 | 265 | 65.1 | 56 | 4 | 24 | 2 | 0 | 38 | 1 | 0 | 17 | 17 | 2.34 | 1.22 | |
1982 | 24 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 4 | 1 | .500 | 212 | 52.0 | 45 | 5 | 23 | 2 | 0 | 40 | 2 | 0 | 20 | 20 | 3.46 | 1.31 | |
1984 | 23 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 8 | 0 | .800 | 160 | 39.0 | 30 | 1 | 19 | 5 | 0 | 28 | 0 | 0 | 7 | 7 | 1.62 | 1.26 | |
1985 | BAL | 54 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 6 | 14 | 0 | .625 | 366 | 88.0 | 83 | 6 | 35 | 7 | 1 | 67 | 0 | 1 | 44 | 37 | 3.78 | 1.34 |
1986 | 66 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 7 | 34 | 0 | .462 | 337 | 81.2 | 71 | 6 | 28 | 2 | 0 | 67 | 4 | 0 | 29 | 27 | 2.98 | 1.21 | |
1987 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 1.000 | 33 | 8.0 | 8 | 1 | 4 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 2 | 2 | 2.25 | 1.50 | |
1988 | 35 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | ---- | 209 | 46.2 | 40 | 4 | 37 | 5 | 0 | 28 | 1 | 0 | 22 | 21 | 4.05 | 1.65 | |
1989 | NYM | 49 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 2 | 9 | .167 | 261 | 59.1 | 56 | 5 | 26 | 3 | 1 | 34 | 0 | 1 | 27 | 26 | 3.94 | 1.38 |
1990 | LAD | 32 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 3 | 2 | .750 | 163 | 38.0 | 33 | 5 | 19 | 4 | 0 | 24 | 3 | 0 | 24 | 21 | 4.97 | 1.37 |
MLB:13年 | 448 | 91 | 22 | 5 | 1 | 66 | 60 | 82 | 18 | .524 | 4730 | 1109.1 | 1085 | 89 | 457 | 45 | 7 | 641 | 21 | 3 | 503 | 468 | 3.92 | 1.39 |
年度別守備成績
[編集]年 度 |
球 団 |
投手(P) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
1977 | BOS | 13 | 5 | 13 | 1 | 0 | .947 |
1978 | CAL | 29 | 16 | 23 | 3 | 2 | .933 |
1979 | 37 | 8 | 17 | 2 | 3 | .926 | |
1980 | 40 | 10 | 22 | 4 | 2 | .889 | |
1981 | 39 | 2 | 10 | 1 | 1 | .923 | |
1982 | 24 | 3 | 5 | 0 | 0 | 1.000 | |
1984 | 23 | 1 | 5 | 1 | 0 | .857 | |
1985 | BAL | 54 | 8 | 10 | 0 | 0 | 1.000 |
1986 | 66 | 5 | 12 | 1 | 1 | .944 | |
1987 | 7 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |
1988 | 35 | 2 | 3 | 0 | 1 | 1.000 | |
1989 | NYM | 49 | 6 | 8 | 0 | 0 | 1.000 |
1990 | LAD | 32 | 1 | 3 | 0 | 0 | 1.000 |
MLB | 448 | 67 | 135 | 13 | 10 | .940 |
背番号
[編集]- 45 (1977年)
- 46 (1978年 - 1984年)
- 41 (1985年 - 1988年)
- 49 (1989年)
- 22 (1990年)
脚注
[編集]- ^ 『米大リーグ26球団総ガイド』、(株)ベースボール・マガジン社、1978年4月23日、108頁、雑誌 0447-4/23。
- ^ 『米大リーグ26球団総ガイド '80年度版』、(株)ベースボール・マガジン社、1980年5月11日、115頁、雑誌 20447-5/11。