ドルジ (ジャライル部)
ドルジ(モンゴル語: Dorǰi、1304年 - 1355年)は、14世紀前半に大元ウルスに仕えたジャライル部国王ムカリ家出身の領侯(ノヤン)。
『元史』などの漢文史料では朶児只(duǒérzhǐ)と表記される。
概要
[編集]ドルジは建国の功臣ムカリの曾孫で、第7代当主(国王)のトクトの息子として生まれた。ドルジは1歳の時に父親を失って孤児となり、成長するとケシクテイ(親衛隊)に仕えた。残された母にはよく尽くし、読書を好む利発な子供であったという。至治2年(1322年)、中奉大夫・集賢学士に任じられ、趙世延ら重臣にその器量を評価された[1]。
天暦元年(1328年)、当時の国王(ムカリ家当主)ドロタイは天暦の内乱において「上都派」に立ってエル・テムルら「大都派」と戦い、最終的に大都派が勝利を納めるとドロタイは処刑されてしまった。ドロタイの処刑後、その弟でエル・テムルらと懇意であったナイマンタイが地位を継承することを望んでいたが、処刑された先代の直弟が後継者となるのは体裁が悪く、天暦2年(1329年)にドルジが国王位を継承することになった。後至元4年(1338年)、エル・テムルの一族を追放して太師の地位に就いたバヤンの権勢が強まり、これと懇意であったナイマンタイはバヤンの権勢を頼んで国王位の譲位をドルジに迫った。折からバヤンの妻はドルジが有する大珠環を所望しており、バヤンは16,000錠で国王位と大珠環を譲るよう迫った。これに対し、ドルジは「王位は我が祖宗の代々伝える所であって、他人が求めるようなものではない。もし我が位を譲るとしても、我が宗族にのみ譲るだろう」と述べ、最終的にバヤンの要求を部分的に認める形でナイマンタイが国王位を継承した。国王位から退いたドルジは遼陽行省の左丞相となり、遼陽地方をよく治めた[2]。
後至元6年(1340年)、河南行省左丞相となったが、この頃の河南では范孟の叛乱に連座し誤って捕らえられた者が千人余りもいることが問題となっていた。河南に赴任したドルジは捕らえられた者達の冤罪を晴らすことに務めた[3]。至正4年(1344年)、江浙行省の左丞相となり、汀州の賊の平定などを行った[4]。
至正7年(1347年)、御史大夫となり、同年秋には中書左丞相に転じた。更に同年冬には人臣最高位たる中書右丞相となり、左丞相の太平とともに朝廷を総覧した。ドルジが右丞相を務めた時代、大元ウルスには大きな争乱もなく平穏に過ぎ、至正9年(1349年)に右丞相の地位を退いたドルジは国王として遼陽地方に戻った[5]。
至正14年(1354年)、時の右丞相トクトは紅巾の乱討伐のため大規模な南伐を始め、諸王は軍勢を供出するよう命じられた。しかし、カチウン家の呉王ドルジなどは賄賂を出して軍の供出を免れており、これを聞いたドルジは自ら軍を率いてトクトの下を訪れ、その指揮下に入った。ドルジはトクトの命によって諸城を攻略する功績を挙げたが、トクトの権勢を危険視する朝廷の策略によってトクトは失脚してしまった。総司令を失ったドルジはやむなく揚州に駐屯し続け、至正15年(1355年)にその地で52歳にして亡くなった[6]。息子にはドスマン・テムルと国王位を継承したエムケシリがいた[7]。
ジャライル部スグンチャク系国王ムカリ家
[編集]- グウン・ゴア(Gü’ün U’a >孔温窟哇/kǒngwēn kūwa)
- 左翼万人隊長・国王ムカリ(Muqali guy-ong >木華黎国王/mùhuálí guówáng,موقلىكويانك/mūqalī kūyānk)
- 左翼万人隊長・国王ボオル(Bo’ol >孛魯bólŭ,بوغول/būghūl)
- 国王スグンチャク(Süγunčaq >速渾察/sùhúnchá)
- サルバン(Sarban >撒蛮/sāmán)
- 江浙行省平章トクト(Toqto >脱脱/tuōtuō)
- 中書右丞相ドルジ(Dorǰi >朶児只/duǒérzhǐ)
- 翰林学士ドスマン・テムル(Dosman temür >朶蛮帖木児/duǒmán tièmùér)
- 国王エムケシリ(Emmgeširi >俺木哥失里/ǎnmùgēshīlǐ)
- 中書右丞相ドルジ(Dorǰi >朶児只/duǒérzhǐ)
- 江浙行省平章トクト(Toqto >脱脱/tuōtuō)
- サルバン(Sarban >撒蛮/sāmán)
- 国王スグンチャク(Süγunčaq >速渾察/sùhúnchá)
- 左翼万人隊長・国王ボオル(Bo’ol >孛魯bólŭ,بوغول/būghūl)
- 左翼万人隊長・国王ムカリ(Muqali guy-ong >木華黎国王/mùhuálí guówáng,موقلىكويانك/mūqalī kūyānk)
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻139列伝26朶児只伝,「朶児只、木華黎六世孫、脱脱子也。朶児只生一歳而孤、稍長、備宿衛、事母至孝、喜読書、不屑屑事章句、於古君臣行事忠君愛民之道、多所究心。至治二年、授中奉大夫・集賢学士、時年未及冠。一時同寅如郭貫・趙世延・鄧文原諸老皆器重之」
- ^ 『元史』巻139列伝26朶児只伝,「天暦元年、朶羅台国王自上都領兵至古北口、与大都兵迎敵。事定、文宗殺朶羅台。二年、朶児只襲国王位、扈蹕上都、詔便道至遼陽之国。順帝至元四年、朶羅台弟乃蛮台恃太師伯顔勢、謂国王位乃其所当襲、愬于朝。伯顔妻欲得朶児只大珠環、価値万六千錠。朶児只無以応、則慨然曰『王位我祖宗所伝、不宜従人求買。我縦不得為、設為之、亦我宗族人耳』。於是乃蛮台以賂故得為国王、而除朶児只遼陽行省左丞相。以安靖為治、民用不擾」
- ^ 『元史』巻139列伝26朶児只伝,「六年、遷河南行省左丞相、為政如在遼陽時。先是河南范孟為乱、以詿誤連繋者千百計。朶児只至、頗知其冤、力欲直之、而平章政事納麟乃元問官、執其説不従。已而納麟還、言于朝、以謂朶児只心徇漢人。朶児只為人寛弘有度、亦不恤也」
- ^ 『元史』巻139列伝26朶児只伝,「至正四年、遷江浙行省左丞相。時杭城薦経災燬、別児怯不花先為相、庶務寛紓、朶児只継之、咸仍其旧、民心翕然。汀州寇窃発、朶児只調遣将士招捕之、威信所及、数月即平。帝嘉其績、錫九龍衣・上尊酒。居二年、方面晏然。杭之耆老請建生祠、如前丞相故事、朶児只辞之曰『昔者我父平章官浙省、我実生於此、宜爾父老有愛於我、我於爾杭人得無情乎。然今天下承平、我叨居相位於此、唯知謹守法度不辱先人足矣、何用虚名為』」
- ^ 『元史』巻139列伝26朶児只伝,「七年、召拝御史大夫。会丞相虚位、秋、拝中書左丞相。冬、陞右丞相・監修国史、而太平為左丞相。是時、朝廷無事、稽古礼文之事、有墜必挙、請賜経筵講官坐、以崇聖学、選清望官専典陳言、以求治道、覈守令六事、沙汰僧尼、挙隠逸士、事見太平伝。歳餘、留守司行致賀礼、其物先留鴻禧観、将饋二相。朶児只家臣寓観中、察知物有豊殺、其致左相者特豊。家臣具白其事、請卻之。朶児只曰『彼虚不送我、亦又何怪』。即命受之。郯王家産既籍于官、朶児只俾掾史録其数。明日、掾史以復。韓嘉訥為平章、不知出丞相命、勃然変色、叱掾史曰『公事須自下而上、何竟白丞相』。令客省使扶出。朶児只不為動、知者咸服其量。九年、罷丞相位、復為国王、国遼陽」
- ^ 『元史』巻139列伝26朶児只伝,「十四年、詔脱脱総兵南討。中書参議龔伯遂建言『宜分遣諸宗王及異姓王倶出軍』。呉王朶爾赤厚賂伯遂獲免。朶児只独曰『吾国家世臣、天下有事、政効力之秋也、吾豈暇与小子輩通賄賂哉』。即領兵出淮南、聴脱脱節制。脱脱遣朶児只攻六合、抜之。既而詔削脱脱官爵、罷其兵権、朶児只乃以本部兵守揚州。十五年、薨于軍、年五十二」
- ^ 『元史』巻139列伝26朶児只伝,「初、朶児只為集賢学士、従其従兄丞相拝住在上都。南坡之変、拝住遇害。賊臣鉄失・赤斤鉄木児等並欲殺朶児只、其従子朶爾直班方八歳、走詣怯薛官失都児求免、以故朶児只得脱於難。朶児只為相、務存大体、而太平則兼理庶務、一時政権頗出於太平、趨附者衆、朶児只処之凝然不与較。然太平亦能推譲尽礼、中外皆号為賢相云。二子朶蛮帖木児、翰林学士;俺木哥失里、襲国王」
参考文献
[編集]- 原田理恵「元朝の木華黎一族」『山根幸夫教授追悼記念論叢 明代中国の歴史的位相 下巻』汲古書院、2007年
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年