トレンチーン
トレンチーン市 Trenčín | |||||
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位置 | |||||
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位置 | |||||
座標 : 北緯48度53分31秒 東経18度02分12秒 / 北緯48.89194度 東経18.03667度 | |||||
行政 | |||||
国 | ![]() | ||||
県 | ![]() | ||||
郡 | トレンチーン郡 | ||||
市 | トレンチーン市 | ||||
市長 | Richard Rybníček | ||||
地理 | |||||
面積 | |||||
市域 | 82 km2 | ||||
標高 | 211 m | ||||
人口 | |||||
人口 | (2005年現在) | ||||
市域 | 56,750人 | ||||
人口密度 | 692人/km2 | ||||
その他 | |||||
等時帯 | 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1) | ||||
夏時間 | 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2) | ||||
公式ウェブサイト : www.trencin.sk |
トレンチーン(スロバキア語:Trenčín [ˈtrentʂiːn] 音声、ドイツ語:Trentschin、ハンガリー語:Trencsén、ラテン語:Laugaricio)は、スロバキア北西の都市。首都ブラチスラヴァから120キロメートルほど離れている。スロバキア第9位の人口を持つ。
2026年の欧州文化首都のひとつに選定されている。
歴史
[編集]トレンチーンの歴史では、期限179年の古代ローマ帝国時代マルコマンニ戦争の碑文が残ることで知られている。この碑文は、中央ヨーロッパでのローマ軍遠征の最北端の証拠とされている[1]。7世紀にはサモ帝国の首都の一つであったとされ、631年にはスラブ人とフランク人の決戦の地ともなった。トレンチーン城は大モラヴィア時代の11世紀初頭に建設された石造りの城で、ポーランド王ボレスワフ1世が治め、その後1017年にハンガリー王イシュトヴァーン1世に征服された。1241年のモンゴル帝国の侵略(モンゴル帝国の東欧侵攻)をも防ぎ、1302年から1321年にかけてはチャーク・マーテーの権力拠点となった。1324年には通行税免除の特権を得て、1335年にはボヘミア王国、ハンガリー王国、ポーランド王国間のトレンチーン条約がここで締結された。
1412年には神聖ローマ皇帝ジギスムントから王立自由都市の特権を受けた。しかし、その後の数世紀にわたり、災害や戦争に見舞われた。ハプスブルク家と対立するサポヤイ・ヤーノシュ支持者との戦いの中で、1528年には帝国軍により町が占領された。17世紀にはオスマン帝国が南から脅威をもたらしたが、町を征服することはできなかった。その後、ハプスブルク家に対するクルツの反乱により町は再び被害を受け、1708年8月3日にはトレンチーンの戦いが町の近郊で行われた。2年後にはペストが発生し、1600人の住民が死亡した。最終的に1790年の大火で町と城は焼失し、それ以来城は廃墟となっている。
19世紀にはジリナやブラチスラヴァへ鉄道が建設され、再び繁栄した。1940年から1945年の第一次スロバキア共和国の時代、トレンチーンは再び繁栄し再びトレンチーン郡の首府となった。その後、スロバキア民衆蜂起が始まった直後、ナチス・ドイツに占領され親衛隊(SD)およびゲシュタポの本部が置かれた。1945年4月10日、トレンチーンはルーマニア軍とソ連軍によって解放された。
1990年以降、市の歴史的中心部は大規模に修復され、1996年以降はトレンチーン県およびトレンチーン郡の行政の中心となった。トレンチーン城とそのローマ碑文は観光名所として人気を集めている。1990年以降、歴史的中心地の復元が進み、観光地としても人気を博している。
地理
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トレンチーンは標高211メートル地点にあり、面積は82平方キロメートルである[2]。
統計
[編集]2005年時点での市人口は56,750人である。2001年調査によると、95.3%はスロバキア人、2.4%はチェコ人、0.3%はハンガリー人、0.1%はロマ人。住民のうち65.8%がカトリック教会、22.3%が無宗教、7.1%がルーテル教会を信仰する[2]。
スポーツ
[編集]ASトレンチーンというサッカークラブの本拠地となっている。このクラブには元リヴァプールFC所属で現フェネルバフチェのDFマルティン・シュクルテルが在籍していた。
姉妹都市
[編集]クラン=ジュヴリエ、フランス
ウヘルスケー・フラジシュチェ、チェコ
ズリーン、チェコ
タルヌフ、ポーランド
カザレッキオ・ディ・レーノ、イタリア
ベーケーシュチャバ、ハンガリー
クラグイェヴァツ、セルビア
参照
[編集]- ^ “Marching or temporary camps of Roman troops north to the Middle Danube”. Römisch-Germanisches Zentralmuseum. 19 September 2016閲覧。
- ^ a b “Municipal Statistics”. Statistical Office of the Slovak republic. 2008年2月5日閲覧。