ディープ・パープル・アンド・ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ
『ディープ・パープル・アンド・ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』 | ||||
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ディープ・パープル の ライブ・アルバム | ||||
リリース | ||||
録音 |
1969年9月24日 ロンドン ロイヤル・アルバート・ホール | |||
ジャンル | クラシック音楽、ハードロック | |||
時間 | ||||
レーベル |
ハーヴェスト(オリジナル盤) EMI(リイシュー盤) テトラグラマトン(オリジナル盤) ワーナー・ブラザース・レコード(リイシュー盤) | |||
プロデュース | ディープ・パープル | |||
専門評論家によるレビュー | ||||
チャート最高順位 | ||||
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ディープ・パープル アルバム 年表 | ||||
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『ディープ・パープル・アンド・ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』(Concerto for Group and Orchestra)は、1969年9月24日にロイヤル・アルバート・ホールで行われたイングランドのロック・バンドのディープ・パープルとロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の共演を収録したライブ・アルバムで、同年12月に発表された。
イアン・ギランとロジャー・グローヴァーを迎えた第2期ディープ・パープルの初アルバムで、ディープ・パープル初のライブ・アルバムでもある。
解説
[編集]経緯
[編集]ギランとグローヴァーを迎えた第2期ディープ・パープル[3]は、1969年7月10日にロンドンのスピークイージー・クラブで初のステージに立ち[注釈 1]、7月25日に第一弾シングル「ハレルヤ」[注釈 2][4]を発表した[注釈 3][5][6][7]。そして国内でライヴ活動を行ないながら、ギタリストのリッチー・ブラックモアを中心に新曲を書き始め、8月末に始まったヨーロッパ・ツアーから「ニール・アンド・プレイ」「チャイルド・イン・タイム」を披露し始めた。
その数か月前の同年4月、第1期ディープ・パープルが前作『ディープ・パープル III』のツアーを行なっていた時、彼等のマネージメントはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団と共演する企画を立てて、ロイヤル・アルバート・ホールを同年9月に使用する契約を結んだ[8]。そして第1期の曲作りの中心役を担っていたキーボーディストのジョン・ロードに、共演用の新曲を準備するように促した[注釈 4][9]。ロードは本番まで半年足らずの間、メンバー交代劇や第2期のライヴ活動の合間を縫って「グループとオーケストラのための協奏曲」の作曲に勤しんだ。広報担当のベン・ニスベット(Ben Nisbet)は近代イギリスを代表する作曲家の一人であるマルコム・アーノルドに協力を要請し、アーノルドはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の指揮を引き受け、ロードの作曲に助言を与えた[10]。
ディープ・パープルとロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団は9月24日にロイヤル・アルバート・ホールで共演して、歴史上初めて、オーケストラとロック・バンドの合同演奏のコンサートを実現させた。当日は第1部でアーノルドが指揮するロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団がアーノルド作曲「交響曲第六番」、第2部でディープ・パープルが「ハッシュ」「リング・ザット・ネック」「チャイルド・イン・タイム」[注釈 5]、第3部で両者が「グループとオーケストラのための協奏曲」を演奏し、アンコールでは両者が「グループとオーケストラのための協奏曲」の第三楽章の一部分を再演した。コンサートの模様はBBCによってテレビ放映された。
内容
[編集]「グループとオーケストラのための協奏曲」[10]は、合奏協奏曲、協奏交響曲、管弦楽のための協奏曲の各々の特徴を組み合わせたものであり、オリジナル・レコードの内ジャケットには、ロードによる解説が掲載された。第一楽章ではグループ(ディープ・パープル)とオーケストラが拮抗する様がブラックモアのギターのカデンツァを中心に描かれる。第二楽章はギランのボーカル・ソロ[注釈 6]とロードのオルガン・ソロがそれぞれオーケストラと絡んで混沌とした共存の雰囲気を醸し出す。第三楽章ではイアン・ペイスのドラム・ソロを挟んで、両者が協調していく。
アルバムはアメリカでは1969年12月にテトラグラマトン・レコード[11]、イギリスでは1970年1月にハーヴェスト・レコード[12]から発表された。アメリカではテトラグラマトン・レコードの倒産に伴なって、1970年8月に彼等の新しい所属先であるワーナー・ブラザーズ・レコード[13]から再発された。
第二部でディープ・パープルが披露した「ハッシュ」「リング・ザット・ネック」「チャイルド・イン・タイム」は、2002年に発表されたCDに追加収録された[14]。
映像
[編集]当日の模様はビデオ・ソフト化されて、アルバムと同名で発表された[15]。2003年にリリースされたDVD[16]は、ロンドンのアビー・ロード・スタジオで2001年6月にJonathan Allen[17]によってミックスされ、2002年3月にPeter Mew[18]によってデジタル・リマスタリングされた。
収録曲
[編集]- 第1楽章 - "First Movement" - 19:12
- a. モデラート - "Moderato"
- b. アレグロ - "Allegro"
- c. ヴィヴァーチェ - "Vivace"
- 第2楽章 - "Second Movement"
- パート1 アンダンテ - "Part 1-Andante" - 6:32
- 第2楽章 - "Second Movement"
- パート2 - "Part 2" - 12:28
- 第3楽章 - "Third Movement" - 15:31
- ヴィヴァーチェ - "Vivace"
- プレスト - "Presto"
オリジナルLP
[編集]イギリス盤とアメリカ盤で曲名が一部異なるが、内容は同じである。
イギリス盤
[編集]- Harvest Records (SHVL 767)[12]
アメリカ盤
[編集]参加ミュージシャン
[編集]- ディープ・パープル
- ジョン・ロード – オルガン
- リッチー・ブラックモア – ギター
- イアン・ペイス – ドラムス
- イアン・ギラン – ボーカル
- ロジャー・グローヴァー – ベース・ギター
- ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
「グループとオーケストラのための協奏曲」のその後
[編集]ディープ・パープルはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団との共演を成功させた後、国内とヨーロッパのツアーを続けながら[注釈 7]、翌10月からロンドンのスタジオで新作アルバムの制作を開始した[19]。コンサートの聴衆の中には彼等がオーケストラと共演すると考えていた者もいたが[20]、彼等はハード・ロックを演奏し[注釈 8]、翌1970年6月にアルバム『ディープ・パープル・イン・ロック』を発表してハード・ロック・バンドの代表格としての地位を築く大きな第一歩を踏み出した。本作が同年8月にアメリカでワーナー・ブラザーズ・レコードから再発された時、彼等はアメリカ・ツアーの合間を縫って同月25日にハリウッド・ボウルでロサンジェルス・フィルハーモニック[注釈 9]と共演して本作を再演した[21]。それを唯一の例外として、以後約30年間[注釈 10]、本作を顧みることはなかった[注釈 11]。
1999年、彼等[注釈 12]は本作発表の30周年を記念して、ロイヤル・アルバート・ホールに戻ってポール・マンが指揮するロンドン交響楽団と本作を再演して、ライブCD"In Concert with The London Symphony Orchestra"に収録した。引き続いて2000年から2001年にかけて、南アフリカ、ヨーロッパ、日本でマンが指揮するオーケストラ[注釈 13]と共演して、本作を披露した。
ロードは2001年にディープ・パープルを脱退し、2009年に40周年記念として、アイルランドのRTÉ Concert Orchestraとダブリンで共演して本作を再演した。その後も2011年までの間、数回にわたって様々なオーケストラと共演した。2011年、彼はマンとロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団による初のスタジオ録音版の制作に病魔を押して参加し、翌2012年、完成した作品[22]を聴き、7月に他界した。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 同年7月4日のウェールズのカーディフで行われた第1期最後のコンサートから、一週間足らずしか経っていなかった。
- ^ 第1期のアルバムのプロデューサーだったデレク・ローレンスのThe Derek Lawrence Statementが以前発表した'I Am The Preacher'を取り上げて改題した。Roger GreenawayとRoger Cookの共作。レコーディングは第1期末の6月7日と12日に、正式加入前のギランとグローヴァ―を招いて極秘に行なわれた。
- ^ イギリスではハーヴェスト・レコード、アメリカではテトラグラマトン・レーベルから発表された。B面収録曲は第1期の「4月の協奏曲」。
- ^ ロードはデイヴ・ブルーベック・カルテットが1961年に発表したアルバム'Bernstein Plays Brubeck Plays Bernstein'を聴いて、オーケストラとロック・バンドの共演を思いついた。彼はアルバム『詩人タリエシンの世界』(1968年)の「聖なる歌」と『ディープ・パープル III』の「4月の協奏曲」の間奏部に室内楽曲を提供していた。
- ^ 「ハッシュ」はデビュー・アルバム『ハッシュ』(1968年)、「リング・ザット・ネック」はセカンド・アルバム『詩人タリエシンの世界』(1968年)の収録曲。「チャイルド・イン・タイム」は未発表の新曲で、次作の『ディープ・パープル・イン・ロック』(1970年)に収録された。
- ^ 歌詞はギランが本番直前に書き上げた。
- ^ 10月4日にモントルーカジノで録音された音源がLive in Montreux 69として入手可能である。
- ^ ロードは1991年に発売されたドキュメンタリー・ビデオ『ヘヴィ・メタル・パイオニアズ』(Heavy Metal Pioneers)で、「ジミ・ヘンドリックスに影響を受けたリッチー(ブラックモア)の希望を受け入れてハード・ロックの路線に進む事に決め、その為に〈第1期のメンバーの)ロッド(エヴァンス)とニック(シンパー)を誰かに替えるべきだと判断した」と述べ、ハード・ロック・バンドになることは第2期に入った時に既に決まっていたとしている。一方ブラックモアは、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団との共演の後、次はハード・ロックのアルバムを作ろうと主張して「もし失敗したら、今後ずっと協奏曲を演奏するから」とロードを説得した、という話を好んで今日に至るまで繰り返している。
- ^ ローレンス・フォスターが指揮した。
- ^ ディープ・パープルは数回のメンバー交代の末、1976年に解散。1984年に本作に参加した第2期のメンバーで再結成された。
- ^ 彼等は1970年9月17日にロイヤル・フェスティバル・ホールで、アーノルドが指揮するオーケストラ・オブ・ザ・ライト・ソサエティ・ミュージック(The Orchestra of The Light Music Society)と共演してロード作の「ジェミニ組曲」を披露した。この録音は1993年に"Deep Purple And The Orchestra Of The Light Music Society Conducted By Malcolm Arnold – Gemini Suite Live"として発表された。
- ^ 本作の参加メンバーからブラックモアを除いた4人とギタリストのスティーヴ・モーズ。
- ^ 南アフリカでは地元のオーケストラ、ヨーロッパではルーマニアの George Enescu Philharmonic Orchestra、日本では新日本フィルハーモニー交響楽団と共演した。
出典
[編集]- ^ ChartArchive - Deep Purple
- ^ Deep Purple - Awards : AllMusic
- ^ Popoff (2016), pp. 56.
- ^ “Discogs”. 2023年12月2日閲覧。
- ^ Popoff (2016), p. 60.
- ^ “Discogs”. 2023年12月2日閲覧。
- ^ “Discogs”. 2023年12月2日閲覧。
- ^ 'Deep Purple'[1]に添付された、サイモン・ロビンソン(Deep Purple Appreciation Society Archives)のライナーノーツより。
- ^ Popoff (2016), p. 17.
- ^ a b “musicweb-international.com”. 2023年8月20日閲覧。
- ^ a b “Discogs”. 2023年11月28日閲覧。
- ^ a b “Discogs”. 2023年11月28日閲覧。
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- ^ “Discogs”. 2023年11月28日閲覧。
- ^ “Discogs”. 2023年11月28日閲覧。
- ^ Popoff (2016), p. 61.
- ^ Popoff (2016), p. 70.
- ^ Popoff (2016), p. 78.
- ^ “Discogs”. 2023年5月16日閲覧。
引用文献
[編集]- Popoff, Martin (2016). The Deep Purple Family Year By Year Volume One (to 1979). Bedford, England: Wymer Publishing. ISBN 978-1-908724-42-7