テオドロ・フェルナンデス
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
本名 | テオドロ・フェルナンデス・メイサン | |||||
愛称 | ロロ | |||||
ラテン文字 | Teodoro Fernández Meyzán | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ペルー | |||||
生年月日 | 1913年5月20日 | |||||
出身地 | サン・ビセンテ・デ・カニェテ | |||||
没年月日 | 1996年9月17日(83歳没) | |||||
身長 | 180cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1931-1953 | ウニベルシタリオ・デポルテス | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ロロこと、テオドロ・フェルナンデス・メイサン (Teodoro Fernández Meyzán、1913年5月20日-1996年9月17日)は、ペルー出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。元ペルー代表。22年間のキャリアをウニベルシタリオ・デポルテスで過ごし、同クラブでは彼のつけていた背番号9は永久欠番になっている[1]。
経歴
[編集]幼少期
[編集]ロロは、母の Raymunda MeyzánとTomas Fernándezの八人の子供のうちの七番目の子供として生まれた。 ロロは、若い頃冷酷にもサッカーをすることを禁じられたが、家でこっそりと裸足でサッカーをしていた。荒れた土地だったので切り傷や怪我もあったが、サッカーをすることしかやることがなかったので、我慢をした。[2]
プロサッカー選手への道
[編集]ロロは16歳の時、両親に勉強を続けるためリマに送られ、サッカーチームのシクリスタ・リマでサッカー選手としてプレーしていた彼の兄のアルトゥーロ・フェルナンデスと共に暮らしていた。 アルトゥーロが1部のウニベルシタリオ・デポルテスに移籍した際、ロロもクラブに入るため、兄と少しトレーニングを積み、ウニベルシタリオ・デポルテスの会長で、1930年ワールドカップのプレイヤーだったプラシード・ガリンドー にプレーを見せると、彼は契約することを決めた。
クラブでの活躍
[編集]ロロのプロサッカー選手としてのデビューは1931年11月29日、マガジャネスとのフレンドリーマッチで、その試合唯一のゴールを決めた。 1932年、ファーストシーズンで得点王に輝くと、その後もプリメーラ・ディビシオンで、6度の得点王に輝く( 1934年, 1939年, 1941年, 1945年, 1946年, 1949年)。 ロロは、チリやアルゼンチン、ヨーロッパなど様々な国から交渉を受けた。白紙の小切手を渡され、「欲しい金額を書け」という話まであったが、それらを受けることはなかった。
ロロの最後の試合は彼が40歳のときの1953年9月30日、ペルー最大のダービーマッチと言われている、アリアンサ・リマとウニベルシタリオ・デポルテスとの試合で、彼がハットトリックを決めて4-2で勝利した。 ロロは180試合、156ゴールでウニベルシタリオ・デポルテスで最も得点した選手である。
代表
[編集]ロロは1935年から1947年にかけてプレーし、32試合で24ゴールという結果を残している。
1936年、ペルー代表として出場した1936年ベルリンオリンピックでは、2試合で合計6得点を決めている。
1938年のボリバリアンゲームズではペルー代表のチームが優勝した。
1939年に行われたコパ・アメリカでは、1924年、1928年アムステルダムオリンピック、1930 FIFAワールドカップで優勝しているウルグアイ代表を2-1で破り、優勝した。
同大会では7ゴールで得点王に輝いている。
脚注
[編集]- ^ “Universitario retira la camiseta número 9 en honor a 'Lolo'”. 2019年2月23日閲覧。
- ^ “The first king of La U and Peru”. 2019年2月23日閲覧。