ダヴィト (カヘティ王子)
ダヴィト დავით | |
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当時のイタリア人宣教師テラモ・カステッリが描いたダヴィトのスケッチ | |
ムフラニの統治者 | |
先代 | カイホスロ |
次代 | ヴァフタング2世 |
出生 | 1612年頃 |
死亡 |
1648年 マガロ |
埋葬 | アラヴェルディ修道院の聖ギオルギ大聖堂 |
家名 | バグラティオニ家 |
父親 | テイムラズ1世 |
母親 | ホラシャン |
配偶者 | エレネ |
信仰 | ジョージア正教会 |
親署 |
ダヴィト(グルジア語: დავით、グルジア語ラテン翻字: Davit、1612年頃 – 1648年)はカヘティ王国の王族(バトニシヴィリ)である。ダヴィトは人名の短縮形でダトゥナ(グルジア語: დათუნა、グルジア語ラテン翻字: Datuna)としてよく知られる。ダヴィトはカヘティ王テイムラズ1世の息子であり、成人した唯一の男子であった。ダヴィトの子は、後にカヘティ王となったエレクレ1世であり、その子孫がカヘティ・バクラティオニ家の王統を継続させた。1627年からムフラニ公領を統治し、1648年に親ペルシアのカルトリ王ロストムとの戦いで戦死した。このムフラニ公領は、父テイムラズ1世が追放したムフラニ家から没収したものであった。
生涯
[編集]ダヴィトは1612年頃に、カヘティ王テイムラズ1世の息子として誕生した。母は第二王妃ホラシャン(隣国カルトリ王国の王ルアルサブ2世の妹)であった。ダヴィトはテイムラズ1世の息子の中で最年少であり、成人まで生き残ることができた唯一の男子であった。ダヴィトの異母兄2人は、ペルシア(サファヴィー朝イラン)のシャー・アッバース1世の命令により去勢され、ペルシアで捕虜として死亡した。
ダヴィトは1627年に東ジョージアの政治舞台に登場した。ダヴィトはカルトリ王国で高い地位にあった貴族カイホスロの旧領(ムフラニ)を授けられた。それまでムフラニ公としてムフラニを統治していたカイホスロは失脚により、オスマン帝国への亡命を余儀なくされていた。当時カイホスロは、カヘティ王テイムラズ1世にとって国内最大の政敵であるギオルギ・サアカゼと同盟を結んでおり、カイホスロはサアカゼとともにオスマン帝国に亡命した[1]。
1633年、ペルシアの宮廷で教育を受けたカルトリ王国の王子ロストムが、ペルシア軍の先頭に当たってカルトリ王国とカヘティ王国に侵攻した。その結果テイムラズ1世は、カヘティ王の座をロストムに奪われた。一方、ダヴィトはムフラニの統治権を維持することができた。ダヴィトは将来の交渉のためにスラミでロストムと交渉にあたったが、裏切りの可能性を疑い、すぐにムフラニ領へと撤退した。ロストムはダヴィトを説得しようとしたが失敗に終わり、ダヴィトは父テイムラズ1世に忠誠を誓った。1638年にテイムラズ1世がカヘティ王に復位すると、ダヴィトは父テイムラズ1世の軍とともにロストムをカルトリから追い出すため、カヘティ軍とともに進軍した。ダヴィトは父テイムラズ1世の大義のために、戦いに参加した。ダヴィトはマガロ)で、ロストムのペルシア補助舞台から攻撃を受けて敗北した。ダヴィト自身も、カザフ人将校ジャマール・ハーンの手により戦死した[2]。ダヴィトの首は斬り取られ、ロストムのもとに届けられた。これによりテイムラズ1世はカヘティの王冠を失った。テイムラズ1世はその後、ロストムの度量により、ジョージア西部イメレティ王国の義理の両親のもとに隠居することができ、また最後の息子ダヴィトをアラヴェルディ修道院の聖ギオルギ大聖堂に埋葬することができた。ムフラニの領地は、それまでのムフラニ公の血統(カイホスロの甥ヴァフタング2世)に戻された[1]。
結婚と子女
[編集]ダヴィトは1628年にサムツヘ公国の貴族レヴァン・ディアサミゼ(カトリコス総主教エヴデモズ1世の兄)の娘エレネ(アラグヴィ公ダヴィトの元公妃)と結婚した。ダヴィトの死後、エレネは義父テイムラズ1世の支援を得て、1653年に息子のニコロズとともにロシアに亡命した。エレネはジョージアで死去し、カヘティのアラヴェルディ修道院の大聖堂に埋葬された。
ダヴィトはエレネとの間に、4男2女をもうけた。
- ルアルサブ(1659年没)
- ギオルギ(1651年没) - 1649年、叔母の夫であるイメレティ国王アレクサンドレ3世の養子となり、後継者に指名された。
- ニコロズ(1643年–1709年) - カヘティ王およびカルトリ王。エレクレ1世あるいはナザー・アリー・ハーンとして知られる。
- イオセブ(1648年没) - ロシアのツァーリ・アレクセイの妹と婚約。
- アナスタシア
- ケテヴァン - イメレティ王バグラト5世、イメレティ王アルチル2世と結婚。死後はモスクワのドンスコイ修道院に埋葬された[3]。
祖先
[編集]ダヴィトの系譜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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参考文献
[編集]- ^ a b Brosset, Marie-Félicité (1831) (French). Chronique géorgienne, traduite par m. Brosset jeune membre de la Société asiatique de France [Georgian Chronicle, translated by Mr. Brosset, junior member of the Asiatic Society of France]. Paris: De l'Imprimerie royale. pp. 67–73
- ^ Maeda, Hirotake (2012). “Slave Elites Who Returned Home: Georgian Vali-king Rostom and the Safavid Household Empire”. Memoirs of the Research Department of the Toyo Bunko 69: 104 .[リンク切れ]
- ^ Toumanoff, Cyrille (1990) (French). Les dynasties de la Caucasie Chrétienne: de l'Antiquité jusqu'au XIXe siècle: tables généalogiques et chronologique [Dynasties of Christian Caucasia from Antiquity to the 19th century: genealogical and chronological tables]. Rome. pp. 163–164