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ダンツフレーム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダンツフレーム
欧字表記 Dantsu Flame[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 鹿毛[1]
生誕 1998年4月19日[1]
死没 2005年8月28日(7歳没)[2]
抹消日 2003年9月27日 (JRA) [3]
2005年6月10日 (NAR)[4]
ブライアンズタイム[1]
インターピレネー[1]
母の父 サンキリコ[1]
生国 日本の旗 日本北海道浦河町[1]
生産者 信岡牧場[1]
馬主 山元哲二[1]
調教師 山内研二栗東[5]
宇都宮徳一(荒尾[6]
→岡田一男(浦和[1]
厩務員 高木信明[7][8]
競走成績
生涯成績 26戦6勝[1]
獲得賞金 5億1142万8000円[1]
IC ML115 / 2002年[9]
勝ち鞍
GI 宝塚記念 2002年
GIII アーリントンカップ 2001年
GIII 新潟大賞典 2003年
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ダンツフレーム(欧字名:Dantsu Flame1998年4月19日 - 2005年8月28日)は、日本競走馬[1]

2002年宝塚記念GI)優勝馬である。その他の勝ち鞍は、2001年アーリントンカップGIII)、2003年新潟大賞典GIII)。

生涯[編集]

デビューまで[編集]

インターピレネーは、1990年に北海道浦河町の信岡牧場で生産された、父サンキリコの牝馬である[10]栗東トレーニングセンター坪憲章厩舎に入り、競走馬として21戦3勝[10]。特に1993年の報知杯4歳牝馬特別GII)では3着、同年のサンケイスポーツ賞4歳牝馬特別GII)では4着となり、桜花賞GI)にも出走した[11]。引退後は、信岡牧場で繁殖牝馬となり、初年度はブライアンズタイム牡馬、2年目はマイニングの牡馬を生産[12]。3年目は、再びブライアンズタイムが交配された[12]

1998年4月19日、信岡牧場にて鹿毛の牡馬(後のダンツフレーム)が誕生する[1]。産まれた仔は牧場社長の信岡幸則によれば「決して見てくれのいい馬ではなかったですね。[13]」「イメージ的にはいわゆるサラブレッドというきれいな馬じゃなかったですからね[13]。」と述懐している。1999年8月、北海道セレクト市場に出場[13]。ブライアンズタイムの仔を求めていた山元哲二が、税抜き2500万円で落札した[13][14]。信岡によれば「たまたまあのセリではブライアンズタイムの子はうちのだけだったんで、それもあってセリ落としてもらったんじゃないでしょうか〔ママ[13]」と振り返っている[14]。山元の用いる冠名「ダンツ」に「フレーム」を組み合わせた「ダンツフレーム」という競走馬名となり、3歳の春に栗東トレーニングセンターの山内研二厩舎に入厩した[15]

競走馬時代[編集]

3-4歳(2000-01年)[編集]

2000年6月10日、函館競馬場新馬戦(ダート1000メートル)に藤田伸二とともに、1番人気でデビュー。先に抜け出した1頭に4馬身差を離されて2着となった[15]。それから7月1日、同条件である2戦目の新馬戦では差し切りを果たし、初勝利[15]。続いて9月16日、ききょうステークス(OP)では武豊に乗り替わり、初の芝競走となったが、単勝オッズ1.4倍の1番人気に推されて出走。後方待機から最終コーナーで抜け出し、後方に3馬身半差をつけて2連勝とした[15]。さらに9月30日の野路菊ステークス(OP)では、河内洋に乗り替わり単勝オッズ1.2倍で出走。半馬身差をつけて3連勝とし、放牧に出された[15]

4歳となった2001年は、2月11日のきさらぎ賞GIII)で始動、3番人気で出走した。直線で抜け出したが、若駒ステークス(OP)など2戦2勝の1番人気、アグネスゴールドに半馬身かわされて2着[15]。その後は、皐月賞トライアル競走ではなく、2月24日のアーリントンカップGIII)を選択。単勝オッズ1.2倍の支持を集めた。後方で待機し、最終コーナーを7番手で通過して追い上げを開始[15]。逃げるキタサンチャンネルにゴール直前で並びかけたころで入線。ハナ差先着しており、重賞初勝利を果たした[15]。このレースは、スローペースを味方につけた先行馬が2〜4着に入った中でダンツフレームだけは後方から差し込んできたことから、着差(ハナ差)以上の完勝であり、これまでダンツフレームを評価していなかった山内も、なぜ走るのか、どうして走るのかの答えはわからないながらも能力を高く評価するようになったという[16]

続いて、皐月賞GI)に出走、藤田に再び乗り替わった。当時の陣営の目標は東京優駿であり、山内は、距離適性的に問題はないと考えたものの、荒れた中山競馬場の馬場で行われる皐月賞は負担が大きいとし、皐月賞に出すべきなのか、他のステップを探るべきなのかをオーナーと協議を重ねていた。その後、その年の中山はそこまで荒れていないことや、3度ダンツフレームに騎乗したことのある武豊が皐月賞への出走を助言したことから、皐月賞を使うことを決めたという。また、このような出走過程であったため、山内は後に「満足のいく仕上がりとはいえなかった。もうひと絞りできる体つきだったし、毛艶も冴えなかった。完調を十とすれば、せいぜい七、八分程度の状態だったんじゃないかな」 と回顧している[17]。3戦3勝アグネスタキオンが1.3倍、4戦3勝ジャングルポケットが3.7倍となり2頭が一桁オッズとなる中、ダンツフレームはそれらに次ぐ3番人気、オッズ16.8倍という支持であった[18]。発走直後から中団につけていたが、最初のコーナーから進路を塞がれたり、接触したりする不利をもらいながら追走[15]。直線では、好位のアグネスタキオンが先に抜け出し、ダンツフレームはその背後から追い上げた。アグネスタキオンには1馬身半を及ばなかったが、外から追い上げたジャングルポケットとの競り合いを制し、半馬身差の2着を確保した[15]

そして、5月27日の東京優駿(日本ダービー)(GI)に河内洋に乗り替わり、出走した。河内が皐月賞優勝に導いたアグネスタキオンは、屈腱炎のために戦線を離脱[15]。当日の人気では、皐月賞2着のダンツフレームが単純に繰り上がることなく、単勝オッズ6.1倍の3番人気に留まった。人気で上回った2頭は、同3着のジャングルポケット、NHKマイルカップ優勝から臨むクロフネであり、それぞれオッズは2.3倍、3.0倍を示した[19]。中団で待機し、直線では外に持ち出して追い上げた。河内が仕掛けようとした際、同じく中団を進み、先に抜け出そうとしたジャングルポケットに進路を塞がれる不利も受けた[15]。それから再び盛り返したものの、ジャングルポケットに並ぶことはできず、1馬身半差の2着となった[15]。直線で並んだ際について、ジャングルポケットに騎乗していた角田晃一は「1頭で抜け出すと遊んだりヨレたりする子供っぽいところがあったので、上位に来そうな馬を探して『この馬が残るな』っていう強い馬の方にわざと寄せて行って『併せたら負けない』と(思った)」、「(ダンツフレームが最後まで残ると思ったのは)最後の直線ですね。人気していたクロフネも目の前にいたんですけど、ダンツの方が断然良く見えたんで」と述べている[20]

2001年夏の時点では、山内とカタオカステーブル山田秀人場長は、菊花賞に進むか天皇賞(秋)にするかは決めかねていたという[21]

夏休み中の調教メニューは「全長810mの坂路コースを、80kgはあろうかという〔ママ〕山田場長が自ら跨って1日3本走る」というものであり、かなりの調教量であった[22]

夏休みを経て、秋は神戸新聞杯GII)から始動し、4着。続く菊花賞GI)は、ジャングルポケットに次ぐ2番人気の支持で5着。古馬との初顔合わせとなったマイルチャンピオンシップGI)も5着。止まらない連敗から立て直しを図るために、山内は目標を定めずに放牧を実施、年内全休とした[15]

5-6歳(2002-03年)[編集]

古馬となった2002年、春に放牧から帰還。天皇賞(春)ではなく、目標を中距離に定め、安田記念および宝塚記念出走を計画した[15]。5月12日の京王杯スプリングカップGII)で始動、池添謙一が騎乗し4着。池添が続投し、安田記念(GI)に出走した。香港のクイーンエリザベス2世カップ優勝から臨むエイシンプレストンが2.9倍の1番人気、ダンツフレームは、それに次いで6.2倍の2番人気に支持された[23]。良いスタートを切ったが、位置を下げて後方に待機、直線では外に持ち出した[23]。先行し、先に抜け出した7番人気のアドマイヤコジーン目がけて追い上げを開始、ゴール直前ではアドマイヤコジーンの外に並びかけた。しかしクビ差及ばず、GI3度目の2着となった[23]

続いて、6月23日の宝塚記念(GI)に出走、藤田に三度乗り替わった。藤田は、山内に対して自ら騎乗を志願[24]。この時期は通常函館競馬場に滞在していたが、この日のみ阪神競馬場に参戦した[24]。「出走していれば間違いなく1番人気になったであろう[25]」(優駿編集部)であったジャングルポケットが脚部不安、同年の天皇賞(春)を勝利したマンハッタンカフェ凱旋門賞挑戦、産経大阪杯を勝利したサンライズペガサスが体調不良のためにことごとく回避[25]。また参戦したメンバーで、唯一GI優勝経験のある二冠馬エアシャカールがいたものの、1年以上勝利のない状態にあった[25]。そんな中、ダンツフレームが単勝オッズ2.4倍の1番人気に推された。以下、2.9倍のエアシャカール、8.9倍のローエングリン、9.3倍のツルマルボーイと続いた[25]

映像外部リンク
2002年 宝塚記念
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

ローエングリンが逃げる中、ダンツフレームはエアシャカールと並んだ3、4番手に位置。そのまま直線に入り、ローエングリンが後方との差を広げ、しばらく先頭を保持[25]。内側を進んだエアシャカールは伸びを欠いた一方、ダンツフレームは外に持ち出し、後方待機から大外を進んだツルマルボーイとともに、並んで追い上げを開始[25]。やがてローエングリンを捉えて、ツルマルボーイとの競り合いとなり、ダンツフレームがクビ差制して、先頭で入線した。GI初勝利、山元ならびに山内は1995年のダンツシアトル以来宝塚記念2勝目となった[25]

宝塚記念の勝利について、騎乗した藤田伸二は「とにかく勝ててホッとした。人気を背負っていたということもなくはなかったけど、それよりも、なんとしてもあの馬(ダンツフレーム)に勝たせてあげたいと思っていたからね。今度はテキ(山内研二調教師)にお願いして乗せてもらったてたわけだし」、「すごく調子がいいのはわかっていたから、乗せてもらうからには勝たないといけないな、と。今回はとにかくいいイメージしか持たないで競馬に行ったんだよ。『勝てるだろう』と、ただそれだけを考えて」と述べている。また、ダンツフレーム自身への評価として「調教の感触からも、とにかくいい馬だというのは知っていた」、「もともとスタートがいい馬」と述べている。最後の直線でツルマルボーイと叩き合いになったことについては「一度は(相手に先へ)出られかかったけど、そこからよく辛抱してくれたね。今回も4コーナーから手が動いてたようにズブいところがある。ただ、瞬間的な反応は少し鈍いんだけど、終いは必ず伸びる馬で、今度は並んでからもしっかり伸びてくれた。ゴールに入ったときは、ほんとにホッとしたよ」と述べている[26]

宝塚記念後、カタオカステーブルへ放牧に出された。放牧当初のダンツフレームには「意外なほどの疲れ」がたまっていたものの、笹針を施し数日休ませるだけで体力が甦ったという[27]。また、秋の目標としては、ひと叩きして天皇賞(秋)を使うことはほぼ確定していたものの、山内はマイルチャンピオンシップジャパンカップのどちらを最終目標とするべきかについて非常に頭を悩ませていた。その後、結果的にマイルチャンピオンシップを選択した[28]

秋は毎日王冠GII)で始動して5着。以降、天皇賞(秋)(GI)は自身初の二桁着順となる14着、マイルチャンピオンシップGI)ではブービー賞17着となり、休養となった[15]

6歳となった2003年は、マイラーズカップ(GII)および天皇賞(春)に出走し、どちらも入着。続いて「おそらく陣営はここを花道とみなしていたのだろう[15]」(阿部珠樹)と新潟競馬場ハンデキャップ競走である新潟大賞典GIII)に出走[29]。ハンデ戦で負担重量は59kgに設定されたが、1番人気の支持[30]。2番人気のタフネススターに1馬身半差をつけて、宝塚記念以来の勝利を挙げた[30]。結局その後も現役を続行し、安田記念で5着、連覇がかかる宝塚記念では7着。夏休みを経て秋は、オールカマーGII)で復帰する予定だったが、右前脚の浅屈腱炎を発症して競走馬を引退が決定[3]、9月24日付でJRAの競走馬登録を抹消した[3]。その後は、北海道静内町のヤマダステーブルで種牡馬となるとされていた[31]

競走馬時代(2度目)- 死亡[編集]

6-7歳(2004-05年)[編集]

6歳となった2004年から種牡馬となる予定であった。しかしその評価は決して高いものではなく、オーナーの山元は、無理に種牡馬にするくらいならと乗馬とすることも検討しながら北海道にてダンツフレームを放牧させ続けていた[32]。その後、屈腱炎の治りが良かったことと「もう一花咲かせてやりたい」[32]というオーナーの希望により一転、地方競馬で競走馬復帰が決定[33][34]荒尾競馬の宇都宮徳一厩舎に入厩し、同じくして浦和競馬の岡田一男厩舎へ移籍が予定された[35]。荒尾での能力検査では、ダート1400メートルを1分31秒5で走破して合格[36]。10月20日、かんなづき特別(ダート1500メートル)で1年4か月ぶりの復帰し、単勝オッズ1.1倍の1番人気に支持されて出走[37]。好位から進んだが、JRA2勝の4番人気・シゲルカミナリ[38]に5馬身離され、2着となった[37]

それから予定通り、浦和に移籍[39]浦和記念(統一GII)、東京大賞典(統一GI)、川崎記念(統一GI)と3戦に出走したが、それぞれ9着、14着、11着に敗れた[40]。2005年6月10日、地方競馬の競走馬登録を抹消し、2度目の引退[4][41]栃木県那須郡塩原市地方競馬教養センターにて乗用馬となった[41]。川崎記念の後から熱は安定していなかった[42]。地方競馬教養センターでは、体調回復を目指して放牧されていたが回復せず、精密検査をさせたところ、重度の肺炎だったことが判明[42]。肺炎は、手の施しようのない症状だったという[42]。引退約2か月後の8月28日、肺炎がもとで7歳で死亡[43]、地方競馬教養センター内に墓標が建てられている[43]

競走成績[編集]

以下の内容は、netkeiba.com[44]およびJBISサーチ[40]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離
(馬場)



オッズ
(人気)
着順 タイム
(上り3F)
着差 騎手 斤量
[kg]
1着馬(2着馬) 馬体重
[kg]
2000. 06.10 函館 3歳新馬 ダ1000m(良) 12 6 8 002.5 (1人) 02着 01:01.0(36.9) -0.7 0藤田伸二 53 マイネルジャパン 484
07.01 函館 3歳新馬 ダ1000m(良) 8 1 1 001.8 (1人) 01着 01:00.9(37.0) -0.1 0藤田伸二 53 タシロスプリング 484
09.16 阪神 ききょうS OP 芝1400m(良) 10 3 3 001.4 (1人) 01着 01:21.9(35.4) -0.6 0武豊 53 (ホーマンミヤビ) 484
09.30 阪神 野路菊S OP 芝1600m(良) 9 1 1 001.2 (1人) 01着 01:35.4(34.1) -0.1 0河内洋 54 (リニアミューズ) 484
2001. 02.11 京都 きさらぎ賞 GIII 芝1800m(良) 12 8 12 006.5 (3人) 02着 01:48.0(34.9) -0.1 0武豊 56 アグネスゴールド 484
02.24 阪神 アーリントンC GIII 芝1600m(稍) 14 8 13 001.2 (1人) 01着 01:35.9(35.0) -0.0 0武豊 56 (キタサンチャンネル) 482
04.15 中山 皐月賞 GI 芝2000m(良) 18 7 14 016.8 (3人) 02着 02:00.5(35.2) -0.2 0藤田伸二 57 アグネスタキオン 486
05.27 東京 東京優駿 GI 芝2400m(重) 18 5 9 006.1 (3人) 02着 02:27.2(35.6) -0.2 0河内洋 57 ジャングルポケット 480
09.23 阪神 神戸新聞杯 GII 芝2000m(良) 12 5 6 006.1 (3人) 04着 01:59.7(34.6) -0.2 0福永祐一 56 エアエミネム 490
10.21 京都 菊花賞 GI 芝3000m(良) 15 6 11 004.2 (2人) 05着 03:07.7(33.9) -0.5 0武豊 57 マンハッタンカフェ 496
11.18 京都 マイルCS GI 芝1600m(良) 18 1 1 008.6 (5人) 05着 01:33.7(34.2) -0.5 0武豊 56 ゼンノエルシド 490
2002. 05.12 東京 京王杯SC GII 芝1400m(良) 18 5 10 007.8 (4人) 04着 01:20.6(34.2) -0.3 0池添謙一 57 ゴッドオブチャンス 490
06.02 東京 安田記念 GI 芝1600m(良) 18 8 17 006.2 (2人) 02着 01:33.3(34.6) -0.0 0池添謙一 58 アドマイヤコジーン 490
06.23 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 12 3 3 002.4 (1人) 01着 02:12.9(34.7) -0.0 0藤田伸二 58 ツルマルボーイ 492
10.06 中山 毎日王冠 GII 芝1800m(良) 9 8 9 005.4 (4人) 05着 01:46.7(34.1) -0.6 0藤田伸二 59 マグナーテン 474
10.27 中山 天皇賞(秋) GI 芝2000m(良) 18 8 16 015.4 (8人) 14着 01:59.6(35.1) -1.1 0藤田伸二 58 シンボリクリスエス 488
11.17 京都 マイルCS GI 芝1600m(良) 18 8 18 019.8 (8人) 17着 01:34.0(35.7) -1.2 0池添謙一 57 トウカイポイント 498
2003. 04.19 阪神 マイラーズC GII 芝1600m(良) 13 2 2 018.0 (5人) 04着 01:32.4(34.9) -0.5 0池添謙一 59 ローエングリン 510
05.04 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(良) 18 4 7 019.5 (9人) 05着 03:17.3(36.0) -0.3 0藤田伸二 58 ヒシミラクル 510
05.18 新潟 新潟大賞典 GIII 芝2000m(良) 16 4 7 003.6 (1人) 01着 01:58.3(33.7) -0.2 0本田優 59 (タフネススター) 506
06.08 東京 安田記念 GI 芝1600m(良) 18 4 7 005.1 (3人) 05着 01:32.3(34.1) -0.2 0藤田伸二 58 アグネスデジタル 508
06.29 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 17 7 13 026.0 (7人) 07着 02:12.5(36.8) -0.5 0藤田伸二 58 ヒシミラクル 508
2004. 10.20 荒尾 かんなづき特別 OP ダ1500m(不) 10 4 4 (1人) 02着 01:39.0( - ) -1.0 0吉田隆二 56 シゲルカミナリ 512
12.01 浦和 浦和記念 GII ダ2000m(良) 11 6 6 (2人) 09着 02:10.2(40.3) -3.1 0的場文男 58 モエレトレジャー 506
12.29 大井 東京大賞典 GI ダ2000m(重) 14 4 5 (9人) 14着 02:09.1(42.1) -6.5 0見沢譲治 57 アジュディミツオー 507
2005. 01.26 川崎 川崎記念 GI ダ2100m(重) 12 5 5 (8人) 11着 02:19.4(42.3) -5.2 0見沢譲治 57 タイムパラドックス 509

評価・逸話[編集]

  • 『優駿』2002年7月号では「レベルの高い4歳世代のトップホースの1頭であり、短距離から長距離までそつなくこな」すと評されている[45]
  • ダンツフレームの調教師であった山内研二は、初めてダンツフレームを見た際の振り返りとして「トモ幅のある馬だな、と思ったくらいで、ここまで走ってくれるとは正直、考えもしなかった」、「垢抜けていた馬ではありませんでしたよ。ああいう体型ですからね。それよりも、右目が白いから、気が悪くないかと心配してたんです」と述べている[46][47]。そして、「ひとつふたつは勝てるだろう」と考えていたものの、その程度の評価はデビューしてしばらくしても変わらず、芝のオープン戦を連勝した後も同じ感想を抱き「相手が手薄だったのでは」と考えていたという。それは、でっぷりとした身体は見栄えのする馬体ではなく、一流馬には不可欠な"柔らかさ"が歩様や走り方から伝わってくることもなかったためであった。一方、石崎調調教助手や調教に跨った騎手たちは「走りそうな感触」を感じ、山内に伝えていた。山内がダンツフレームに対する認識を変えたのは皐月賞の前走・アーリントンカップであり、スローペースを味方につけた先行馬が2〜4着に入った中で、ダンツフレームだけは後方から差し込んできたことから、着差(ハナ差)以上の完勝であり、なぜ走るのか、どうして走るのかの答えはわからないながらも能力を高く評価するようになったという。その後、山内は「馬体を見ただけで"こんな馬走らん"なんて、絶対にいえない。この馬を見ているとつくづくそう思う」と述べている[48]
  • 信岡牧場信岡幸則社長は、ダンツフレームの血統について「この牝系がいいからと意図的に残してきて、それがパヒューム(ワンダーパヒューム)やダンツフレームとして実ったというのは違うと思いますね。まあ結果ですからね。走らない馬は淘汰されるし、走る馬は自然に牧場に残っていきますからね」と述べている。また、中小牧場である信岡牧場(家族と従業員2人の計5人で運営されていた)出身のダンツフレームが宝塚記念を勝利したことについては「恵まれてるとは思いますよね。運がいいんですよ」 と述べている[49]
  • ダンツフレームについて、信岡は「決して見てくれのいい馬ではなかったですね。じゃ何が悪いんだって言われると、ここってとこはないんだけども、イメージ的にはいわゆるサラブレッドというきれいな馬じゃなかったですからね。メイショウドンホセ(ダンツの弟)もよかったけど、ダンツの上のゼンノペッパー、これも馬っぷりはよかったですよ。見た感じ最もボテッとしてたダンツフレームが一番走るんだから分からないもんですね」、「筋肉の動きを見ると柔らかいって気がしますけどね。でもまあその方がいいですから。じっとしてていいよりは、動いていい方がね」、「あれ(ダンツ)はちょっと呑気過ぎましたね。草ばっかり喰ってね。いま思えば大物だったんでしょうが、ほんとに物事に動じないっていうか、牛みたいな子でしたよ。ぶくぶく太っちゃってね。セリに出すときはある程度見栄えよくしないといけないからって工夫したんだけど、ダメでしたね。でもそういう図太さは今はいい方に出てるみたいです。どこのパドックでもイレ込んでるの見たことないですもんね」と述べている。また、ダンツフレームが生まれた際など、信岡牧場で馬が産まれた際は、人間恐怖症にならないように「撫でて撫でて撫で回」していたという[50]。加えて、筋肉の柔らかさや皮膚の薄さ、おとなしい性格は母親のインターピレネーに似ているとも述べている[51]
  • 牧場時代のダンツフレームについて、信岡は「のんびりや」だったと評している。そして、「他の馬が近くを走り回っていても、一人のんびりと草を食べてました。ぶくぶくぶくぶく太っててね、決して格好のいい馬ではなかったんですよ。噛んだり、蹴ったり、叩いたりということも、一切しない子でしたね。若いスタッフらにとって、とても扱いやすかったと思います。ほかの当歳馬に対して威張るようなところもなかったし、目立つこともなかったし。かといって、決して弱い存在ではありませんでした。いま思えば、のんびりしているように見えたのは、物事に動じないことの裏返しだったのかもしれませんね」と述べている[52]
  • 『優駿』2001年9月号では「普段は牛のようにモッサリしている」と評されている。また、そのようなダンツフレームであっても、調教開始が近づき馬装を整え始めると、雰囲気を変えて「ギラギラし」たという[53]
  • ダンツフレームの調教助手であった石崎調は、早くからダンツフレームの可能性に気がついており、皐月賞時点では、アグネスタキオンに勝てるとは述べていないものの、「普通の年なら十分に一発狙える」と評価していた[54]
  • 2001年春時点でのダンツフレームの目標は東京優駿であった。そのため山内は、距離適性的に問題はないと考えられたものの、荒れた中山競馬場の馬場で行われる皐月賞は負担が大きいとし、皐月賞に出すべきなのか、他のステップを探るべきなのかをオーナーと協議を重ねていた。その後、その年の中山はそこまで荒れていないことや、3度ダンツフレームに騎乗したことのある武豊が皐月賞への出走を助言したことから、皐月賞を使うことを決めたという。ただし、このような過程を踏んでいたことから、万全の状態でレースに送り出すことはできず、「もちろん、力は出せる状態にあると判断したから出走に踏み切ったわけだけど、満足のいく仕上がりとはいえなかった。もうひと絞りできる体つきだったし、毛艶も冴えなかった。完調を十とすれば、せいぜい七、八分程度の状態だったんじゃないかな」 と山内は回顧している[55]
  • 2001年夏の調教メニューは「全長810mの坂路コースを、80kgはあろうかという〔ママ〕山田場長が自ら跨って1日3本走る」というものであり、かなりの調教量であった[57]
  • ダンツフレームは、厩舎の洗い場で装蹄をしている最中は舌をペロペロと出したり、装蹄師のお尻に鼻先を近づけたりしていたという。その際、決して噛んだり歯を当てたりしなかったことから、同馬を取材した芦谷有香は「装蹄師にお礼をいっているようにすら見える。それほどに、優しい仕草なのだ」と述べている[58]
  • 厩舎内でのあだ名は「あんちゃん」であった[59]
  • 厩務員の高木信明は、「あんちゃんはふだん、ボーッとしてるから」、「厩務員を40年してるけど、こんなに手のかからない馬はいない、といえるほどおとなしい。ただ、汗こき(汗や洗ったあとの水を馬体から落とすための道具)はイヤがるなあ」と述べている[60]
  • 芦谷有香が取材に訪れた際、ダンツフレームは洗い場で手持ち無沙汰になり前カキを始めた。しかし、獣医がやってくると前カキをやめおとなしくなったという。芦谷はこれを「診察の邪魔になるのをわかっているのだろう」と評している。その後、獣医が馬用の太さ5cm、長さ30cmほどの注射を向けても逃げも暴れもせず、物音ひとつさせずに静かに打たれ、寄り添う高木厩務員の胸に顔を預けて目を閉じていたという。取材の日にしたイタズラは、厩務員の高木がかぶっていた帽子のツバを唇で挟もうとしたのみであった[61]
  • 山内によると、ダンツフレームは「常に完全燃焼してくれる馬」であり、レースの際と平時の切り替えができるメリハリのある性格であったため、宝塚記念の激走の後も笹針を施し数日休ませるだけで体力が甦るほどに回復力も優れていたという[62]。また、「本当におとなしいですよ。利口で、無駄なことは全くしない。レースではちゃんと目一杯走ってきますしね」とも述べられている[63]
  • 宝塚記念を制しGI馬となるまでは、皐月賞東京優駿安田記念の3度のGIで2着に入っていたことから「シルバーコレクター」と呼ばれることもあった。しかし、2002年の春シーズンは安田記念の2着も含めてひとレースごとに調子を上げており、「叩き3戦目」であることや対戦相手との力関係も含め、陣営が宝塚記念にかける思いは並々ならぬものがあった。そして実際に宝塚記念を勝利したことで「シルバーコレクター」の名を返上した[64]
  • 宝塚記念での優勝について、『優駿』2002年8月号では、あるジョッキーと調教師の「それなりの力を持っている馬には、無理をさせすぎてもいいことはない。順調にいくことが一番なんだ。順調にいってさえいれば、いつか順番がまわってくるんだから」という発言を引用し、そのままダンツフレームに当てはまる、と評されている[65]
  • 宝塚記念の勝利について、騎乗した藤田伸二は「とにかく勝ててホッとした。人気を背負っていたということもなくはなかったけど、それよりも、なんとしてもあの馬(ダンツフレーム)に勝たせてあげたいと思っていたからね。今度はテキ(山内研二調教師)にお願いして乗せてもらったてたわけだし」、「すごく調子がいいのはわかっていたから、乗せてもらうからには勝たないといけないな、と。今回はとにかくいいイメージしか持たないで競馬に行ったんだよ。『勝てるだろう』と、ただそれだけを考えて」と述べている。また、ダンツフレーム自身への評価として「調教の感触からも、とにかくいい馬だというのは知っていた」「もともとスタートがいい馬」と述べている。最後の直線でツルマルボーイと叩き合いになったことについては「一度は(相手に先へ)出られかかったけど、そこからよく辛抱してくれたね。今回も4コーナーから手が動いてたようにズブいところがある。ただ、瞬間的な反応は少し鈍いんだけど、終いは必ず伸びる馬で、今度は並んでからもしっかり伸びてくれた。ゴールに入ったときは、ほんとにホッとしたよ」と述べている[66]

血統表[編集]

ダンツフレーム血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ロベルト系
[§ 2]

*ブライアンズタイム
Brian's Time
1985 黒鹿毛
父の父
Roberto
1969 鹿毛
Hail to Reason Turn-to
Nothirdchance
Bramalea Nashua
Rarelea
父の母
Kelley's Day
1977 鹿毛
Graustark Ribot
Flower Bowl
Golden Trail Hasty Road
Sunny Vale

インターピレネー
1990 鹿毛
*サンキリコ
Sanquirico
1985 黒鹿毛
*リイフォー
Lypheor
Lyphard
Klaizia
Nell's Briquette Lanyon
Double's Nell
母の母
モンテマリア
1981 鹿毛
*ネヴァービート Never Say Die
Bride Elect
キネウスマリア *ロムルス
*マリアドロ
母系(F-No.) (FN:21-a) [§ 3]
5代内の近親交配 Ribot 4×5=9.38%、Nasrullah5x5=6.25%、Big Game5・5(母内)=6.25% [§ 4]
出典
  1. ^ [67]
  2. ^ [68]
  3. ^ [67]
  4. ^ [67]


脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p ダンツフレーム”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2019年8月20日閲覧。
  2. ^ ダンツフレーム”. 競走馬のふるさと案内所. 2021年10月9日閲覧。
  3. ^ a b c ダンツフレーム、屈腱炎で引退へ」『netkeiba.com』。2021年10月9日閲覧。
  4. ^ a b ダンツフレーム”. 地方競馬全国協会. 2021年10月9日閲覧。
  5. ^ 11R 宝塚記念|2003年6月29日(日)3回阪神4日”. JBISサーチ. 2021年10月7日閲覧。
  6. ^ 10R かんなづき特別|2004年10月20日(水)8回荒尾6日”. JBISサーチ. 2021年10月7日閲覧。
  7. ^ 芦谷有香『あの馬の素顔 : 「美浦・栗東・公営」厩舎リポート : 2002-2003』132頁(流星社、2002年)
  8. ^ 再浮上フレーム 昨年の雪辱だ~安田記念”. スポーツニッポン. 2003年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022‐9‐23閲覧。
  9. ^ 優駿』、日本中央競馬会、2003年2月、77頁。 
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  17. ^ 『優駿』2001年6月号、14頁(日本中央競馬会、2001年5月)
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  27. ^ 『優駿』2002年9月号、16頁(日本中央競馬会、2002年8月)
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  60. ^ 芦谷有香『あの馬の素顔 : 「美浦・栗東・公営」厩舎リポート : 2002-2003』132頁(流星社、2002年)
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  67. ^ a b c 血統情報:5代血統表|ダンツフレーム”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2021年11月23日閲覧。
  68. ^ ダンツフレームの血統表”. netkeiba.com. 2021年11月23日閲覧。

参考文献[編集]

  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 2002年7月号
      • 優駿編集部「【Play-Back the Grade-I Races 2002】第52回安田記念(GI) アドマイヤコジーン」
    • 2002年8月号
      • 優駿編集部「【Play-Back the Grade-I Races 2002】第43回宝塚記念(GI)ダンツフレーム」
      • 優駿編集部「【優駿インタビュー】藤田伸二騎手 『あるがままに』」
    • 2002年9月号
      • 石田敏徳「【充電完了! いざ闘いの舞台へ】古馬牡馬編 ダンツフレーム」
      • 乗峯栄一「【2002年春GI勝ち馬の故郷】信岡牧場(北海道浦河町)ケレン味のなさが名馬を生む」
    • 2005年10月号
      • 浅野靖典「【ライターズオピニオン】ダンツフレーム死亡」
    • 2009年7月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝】ダンツフレーム 最強のバイプレイヤー」

外部リンク[編集]