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ダニー・ブランチフラワー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダニー・ブランチフラワー
ジョージ・ベスト(右)と(1976年)
名前
本名 ロバート・デニス・ブランチフラワー
Robert Dennis Blanchflower
ラテン文字 Danny Blanchflower
基本情報
国籍 北アイルランドの旗 北アイルランド
生年月日 1926年2月10日
出身地 ベルファスト
没年月日 (1993-12-09) 1993年12月9日(67歳没)
身長 175cm
選手情報
ポジション MF
ユース
北アイルランドの旗 グレントラン
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1946-1949 北アイルランドの旗 グレントラン 124 (7)
1949-1951 イングランドの旗 バーンズリー 68 (2)
1951-1954 イングランドの旗 アストン・ヴィラ 148 (10)
1954-1964 イングランドの旗 トッテナム・ホットスパー 337 (15)
1961 カナダの旗 トロント・シティ英語版(loan) 12 (3)
1962 南アフリカの旗 ボクスバーグ (loan) 4 (1)
1965 南アフリカの旗 ダーバン・シティ英語版 3 (0)
通算 693 (38)
代表歴2
1949-1963 北アイルランドの旗 北アイルランド 56 (2)
1948-1949 北アイルランドの旗 北アイルランドリーグ選抜 4 (0)
監督歴
1976-1979 北アイルランドの旗 北アイルランド
1978-1979 イングランドの旗 チェルシー
1. 国内リーグ戦に限る。2020年10月8日現在。
2. 2020年10月8日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ロバート・ダニエル・"ダニー"・ブランチフラワーRobert Daniel "Danny" Blanchflower, 1926年2月10日 - 1993年12月9日)は、北アイルランドベルファスト出身の同国代表サッカー選手サッカー指導者。現役時代のポジションはMF(ライトハーフ)。

トッテナム・ホットスパーFCでは巧みなパスワークで中盤の司令塔としてチームを牽引し[1]、1960-61シーズンにフットボールリーグFAカップダブルを達成[2]。クラブの代表的なプレーヤーとなった[3]。38歳で現役を引退すると、ジャーナリストを経て指導者に転身した。最も偉大な北アイルランド人選手の一人とされている[4][5]

若年期

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父ジョンと母セリーナの下、5人兄弟の長男としてベルファストのブルームフィールド地区ダンレイヴン・パークに生まれる[6]。母は女子サッカーチームでセンターフォワードを務めていた。ベルファスト工科大学英語版ではスカラシップを取得する[7]

ベルファストに所在するギャラハーのタバコ工場で電気技師の研修生になるために退学[8]。戦時中の市民防衛組織であるARP英語版に参加し、1943年には年齢を偽ってイギリス空軍に入隊した[5]。航空士訓練生としてスコットランドのセント・アンドルーズ大学へ派遣され、1945年にはカナダへ渡り経験を積む。

セント・アンドルーズ時代にはダンディー大学英語版のチームでプレー[9]第二次世界大戦後の1946年にベルファストのギャラハー社に戻り、フットボーラーとしての評判が立った[7]

クラブ歴

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キャリア初期

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地元のグレントランFCでプロ選手としての経歴を開始し、1949年に6000ポンドの移籍金でイングランドバーンズリーFCへ移籍すると[7]、2年後の1951年には1.5万ポンドの移籍金でアストン・ヴィラFCへ加入した[10]。ヴィラでは公式戦155試合に出場した。

トッテナム

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1954年に3万ポンドの移籍金でトッテナム・ホットスパーFCへ移籍。1960-61シーズンには主将として開幕11連勝を達成し、センターフォワードのボビー・スミスやウィンガーのクリフ・ジョーンズ、中盤でコンビを組んだデイヴ・マッケイらと共にフットボールリーグFAカップダブルに貢献した。なおこの記録は1897年のアストン・ヴィラ以来となる20世紀初の2冠獲得となった。

UEFAカップウィナーズカップで優勝しトロフィーを掲げる(1963年)

翌1961-62シーズンにはバーンリーFCとのFAカップ決勝でPKを決め同大会を連覇[11]、1962-63シーズンにはUEFAカップウィナーズカップアトレティコ・マドリードを破り、イングランドのクラブとして同大会の初優勝に貢献[12]。1958年と1961年にはFWA年間最優秀選手賞に選出される。

1961年にはフットボールリーグで競演したスタンリー・マシューズジョニー・ヘインズらとカナダに渡り、新興の東カナダプロサッカーリーグに所属するトロント・シティFCでプレー[13]

1964年4月5日に現役引退を表明する。スパーズでの10シーズンでリーグ戦337試合に出場し15得点を記録、キャプテンとして4つのトロフィーを掲げた[14]

1965年に南アフリカ共和国NFL英語版ダーバン・シティFCで短期的に復帰し、3試合に出場した[15]

代表歴

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北アイルランド代表としては、1949年10月のスコットランド戦でデビュー。1957年12月4日にイタリアウィンザー・パークに迎えた一戦は過激な試合となり主将としてチームの平静を保つよう努めたが、乱闘騒ぎに発展するなど「バトル・オブ・ベルファスト」と呼ばれる過激で不名誉な試合となった[16]

1958年のFIFAワールドカップ・スウェーデン大会でもキャプテンマークを巻き同国の準々決勝進出に貢献した。1961年には同代表選手として初めて50試合に出場[17]。1963年に代表から退くまで国際Aマッチ56試合に出場し2得点を記録した。

指導歴・その他の活動

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1959年にはBBCで番組の司会を担当し[18]、1964年からはITVで解説を務める[19]。1967年にアメリカ合衆国CBSが放送するNPSL英語版NASLの前身)専門の解説者に就任[20]。その後ヨークシャー・テレヴィジョン英語版で1968-69シーズンのコメンテーターのレギュラーとなった[21]

トッテナム・ホットスパーFCで長期政権を築いたビル・ニコルソン監督の下で数年間コーチを務め、1974年にニコルソンが退任した際には同氏から推薦されていたが、クラブの会長はテリー・ニール英語版を後任に指名したため自身はスパーズを去った[22]。1976年に北アイルランド代表の指揮官として招聘され、同年10月のW杯欧州予選オランダ戦で初采配となった[23]。12月からはファーストディヴィジョンで最下位に喘ぐチェルシーFCの監督に就任するがクラブを浮上させられず2部リーグへ降格、32試合で5勝に止まり翌年9月に退任した[7]

1988年にサンデー・エクスプレスのライターとしての職を引退する[1]。1990年5月1日にホワイト・ハート・レーンで記念試合が開催されたが、後にアルツハイマー病と診断される初期段階にあった[6]。1993年12月に2日間の昏睡状態に陥った後、同月9日にサリー州の老人ホームで肺炎のため死去した[24][4]。67歳没。

2015年、故郷ベルファストの自身がフットボールを始めたグレース・アヴェニューに銘板が設置される。除幕式には同胞であり自身に続く世代のスパーズで活躍したパット・ジェニングスらが参加した[4]

人物

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  • フットボールに対する姿勢としては「勝利が全てという考え方は誤りであり、試合は栄光で、退屈な死を待つのではなく華麗なプレーで相手を上回ること」を信条としていた[25]
  • 1961年にリアリティ番組「This Is Your Life英語版への出演を初めて断った人物となり、当時大きな話題となった[26]

タイトル

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クラブ
トッテナム
個人

脚注

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  1. ^ a b c Obituary: Danny Blanchflower”. The Independent (1993年12月10日). 2020年10月8日閲覧。
  2. ^ On This Day in 1961: Double delight for Tottenham”. FourFourTwo (2020年5月6日). 2020年10月8日閲覧。
  3. ^ Danny Blanchflower - captain, leader, all-time great”. Tottenham Hotspur (2016年2月10日). 2020年10月8日閲覧。
  4. ^ a b c Danny Blanchflower: Blue plaque honours NI and Spurs footballer”. BBC Sport (2015年3月27日). 2020年10月8日閲覧。
  5. ^ a b Danny Blanchflower: Spurs fans spruce up gravestone”. BBC Sport (2020年8月23日). 2020年10月8日閲覧。
  6. ^ a b The Double Years - Profiling Danny Blanchflower”. Spurs Odyssey. 2020年10月8日閲覧。
  7. ^ a b c d danny blanchflower - fact file”. mehstg.com. 2020年10月8日閲覧。
  8. ^ From the Archives:Danny Blanchflower”. Glentran FC (2020年5月18日). 2020年10月8日閲覧。
  9. ^ Football crazy in the archives ...”. University of Dundee (2012年6月15日). 2020年10月8日閲覧。
  10. ^ Blanchflower, Robert Dennis (Danny)”. Aston Villa Player Database. 2020年10月8日閲覧。
  11. ^ 1962 FA Cup Final Match”. FA Cup Finals. 2020年10月8日閲覧。
  12. ^ Remember this day in 1963 when Tottenham won the Cup Winners’ Cup?”. The Times (2020年5月15日). 2020年10月8日閲覧。
  13. ^ Toronto's Soccer History: 1876-1971”. Toronto FC (2016年2月29日). 2020年10月8日閲覧。
  14. ^ Danny Blanchflower”. Neil Brown. 2020年10月8日閲覧。
  15. ^ NIFG: Danny Blanchflower”. Northern Ireland's Footballing Greats. 2020年10月8日閲覧。
  16. ^ Down Memory Lane: Battle of Belfast was far from a golden moment”. Belfast Telegraph (2008年7月4日). 2020年10月8日閲覧。
  17. ^ The 50 Cap Club”. Northern Ireland's Footballing Greats (2015年6月14日). 2020年10月8日閲覧。
  18. ^ Children's Television: Junior Sportsview”. BBC. 2020年10月8日閲覧。
  19. ^ ITV football coverage 1955-1968”. 2020年10月8日閲覧。
  20. ^ The Joy of Six: TV football pundits”. The Guardian (2010年11月12日). 2020年10月8日閲覧。
  21. ^ Yorkshire ITV Football Highlights 1968-1983”. 2020年10月8日閲覧。
  22. ^ The Joy of Six: football managerial debuts”. The Guardian (2016年10月14日). 2020年10月8日閲覧。
  23. ^ How George Best surprised Northern Ireland squad when he stepped on the plane to the Netherlands in 76, explains David McCreery”. Belfast Telegraph (2019年10月9日). 2020年10月8日閲覧。
  24. ^ Football: Blanchflower dies, aged 67: 'He was one of the last great soccer romantics'”. The Independent (1993年12月10日). 2020年10月8日閲覧。
  25. ^ Danny Blanchflower Quote”. Lib Quotes. 2020年10月8日閲覧。
  26. ^ This Was Your Life: highs and lows”. The Guardian (2003年5月15日). 2020年10月8日閲覧。

外部リンク

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