ターンティヤー・トーペー
表示
ターンティヤー・トーペー (Tantya Tope, 1814年 - 1859年4月18日)は、インド、マラーター王国の宰相だったバージー・ラーオ2世の養子ナーナー・サーヒブの武将だった人物。インド大反乱の指導者の一人でもある[1]。ターティヤー・トーペー(Tatya Tope)とも呼ばれる。本名はラーマチャンドラ・パーンドゥラング・トーペー。
生涯
[編集]1814年、ターンティヤー・トーペーはナーシク方面の街イェーオラーに生まれた。 なお、彼の家系はバラモンであった[2]。
時期は不明ながら、マラーター王国最後の宰相バージー・ラーオ2世の養子ナーナー・サーヒブに仕えるようになった。
1851年、バージー・ラーオ2世が死亡したのち、ナーナー・サーヒブは失権の原理により、イギリスから年金の支払いを相続することを拒否された。これにより、ターンティヤー・トーペーはナーナー・サーヒブとともにイギリスに敵対することとなった。
1857年5月、ナーナー・サーヒブとともにビトゥールで蜂起し、カーンプルを占領した。ナーナー・サーヒブが行方不明になったのちは、ゲリラ戦を展開した。
1859年4月7日、ターンティヤー・トーペーは裏切りにあって捕えられた。そして、同月18日にシヴプリーで処刑された[3]。
脚注
[編集]- ^ “Tantia Topi”. Tantia Topi | biography - Indian rebel leader | Encyclopedia Britannica. Encyclopedia Britannica (Dec 19, 2014). Dec 19, 2014閲覧。
- ^ “Tantia Topi”. Tantia Topi | biography - Indian rebel leader | Encyclopedia Britannica. Encyclopedia Britannica (Dec 19, 2014). Dec 19, 2014閲覧。
- ^ “Tantia Tope”. Indian Child. indianchild.com (19 December 2014). 19 December 2014閲覧。
参考文献
[編集]- ブライアン・ガードナー 著、浜本正夫 訳『イギリス東インド会社』リブロポート、1989年。
- Caleb Wright (1863). Historic Incidents and Life in India. J. A. Brainerd. p. 239. ISBN 978-1-135-72312-5