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タチュ (タングート部)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

タチュモンゴル語: Taču1244年 - 1280年)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、タングートの出身。『元史』などの漢文史料では塔出(tǎchū)と記される。

概要

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タチュは「チンギス・カンの親衛千人隊長」として名高いチャガンの子の布兀剌の子で、伯父に当たるムカリ(木花里)の死後はこの家系を代表する人物となった。幼い頃に父を亡くしたタチュは1264年(至元元年)よりクビライ親衛隊(ケシクテイ)に仕え始め、1267年(至元4年)には祖父のチャガンの投下領からの税収の内半分を受け取ることが認められた。1276年(至元7年)には昭勇大将軍・山東統軍使に任じられて莒州密州膠州沂州郯城邳州宿州即墨の諸城を守り、南宋からの侵攻を寄せ付けなかった。1278年(至元9年)には更に行枢密院からに僉枢密院事改められ、南宋にしばしば侵攻し遂に南宋の将軍の蔣徳勝を投降させる功績を挙げた[1]

1279年(至元10年)、僉淮西等処行枢密院事とされ、南宋の将軍の陳奕と戦いこれを破った[2]。1280年(至元11年)には更に鎮国上将軍・淮西行省参知政事に改められ、安豊廬州寿州を攻略した[3]。同年には南宋の将軍の夏貴が10万の大軍を率いて正陽を包囲したため、クビライの命によってタチュが援軍として派遣された。正陽にたどり着いたタチュはアタカイとともに南宋軍を破り、正陽の包囲を解かせた。この功績によってタチュは淮西行院とされ、淮河を渡って廬州・揚州の間に駐屯するようになった[4]

1275年(至元12年)、バヤンを総司令とする南宋侵攻が始まると、タチュは揚州方面の攻略を任せられた。タチュは事前に諜報によって南宋軍が夜襲を行おうとしていることをつかみ、伏兵を設けてこの夜襲軍を破り揚州一帯を平定した。この功績によってタチュは淮東左副都元帥とされ、1276年(至元13年)には淮西行中書省事とされた。同年中には江西都元帥として広東方面に進出し、この一帯を平定した[5]。1278年(至元15年)には未だ逃亡を続ける南宋の益王趙昰・広王趙昺の討伐が張弘範李恒らに命じられ、タチュは彼らの後方支援を命じられた。1280年(至元17年)にはクビライの下を訪れて江西行省とされたが、間もなく病で37歳にして亡くなった[6][7]

息子は2人おり、長男の宰牙は中奉大夫・江西宣慰使に、次男の必宰牙は征東行中書省左丞にそれぞれなった[8]。また、江西方面の軍事を取り仕切る「江西都元帥」の地位は、建国の功臣ボロクルの一族であるアルクイ/ベルケ・ブカ兄弟に引き継がれた[9]

タングート部チャガン家

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脚注

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  1. ^ 『元史』巻135列伝22塔出伝,「塔出、布兀剌子也。幼孤、長善騎射。至元元年、入侍世祖、占対多称旨、賜以宝貨衣物。四年、給以察罕食邑賦税之半、又還其所俘逋戸三十。七年、降金虎符、授昭勇大将軍・山東統軍使、鎮莒・密・膠・沂・郯・邳・宿・即墨等城、設方略、謹斥候、宋人不敢北嚮。九年、詔更統軍司為行枢密院、改僉枢密院事。数将兵攻下瀕淮堡柵、略地漣海、獲人畜万計。宋人蔣徳勝来降、塔出表言宜加賞賚以勧来者、於是賜黄金五十両、白金倍之」
  2. ^ 『元史』巻135列伝22塔出伝,「十年、改僉淮西等処行枢密院事、城正陽以扼淮海諸州兵。宋陳奕率安豊・廬・寿等州兵数撓其役、塔出選精鋭日十数戦、奕遁去、卒城正陽。宋人復造戦艦於六安、欲攻正陽、塔出詢知之、率騎兵焚其艦。餽饟久不継、出兵拠険、潜取安豊麦以餉軍、宋兵壁横河口、塔出将奇兵大破之」
  3. ^ 『元史』巻135列伝22塔出伝,「十一年、朝議『淮上諸郡、宋之北藩、城堅兵精、攻之不可猝下、徒老我師。宜先渡江翦其根本、留兵淮甸絶其救援、則長江可乗虚而渡也』。於是以塔出為鎮国上将軍・淮西行省参知政事、帥師攻安豊・廬・寿等州、俘生口万餘来献、賜葡萄酒二壺、仍以曹州官園為第宅、給城南閑田為牧地」
  4. ^ 『元史』巻135列伝22塔出伝,「宋夏貴帥舟師十万囲正陽、決淮水灌城、幾陥、帝遣塔出往救之。道出潁州、遇宋兵攻潁、戍卒僅数百人、盛暑、塔出即発公庫弓矢、駆市人出戦、預度潁之北関攻易破、乃急徙民入城伏兵以待。是夜、宋人果焚北関、火光属天、塔出率衆従暗中射之、矢下如雨、宋軍退走至沙河、大破之、溺死者不可勝計。明日、長駆直走正陽、時方霖雨、突囲入城、遂堅壁不出。俄復開霽、与右丞阿塔海分帥鋭師以出、渡淮至中流、皆殊死戦、宋軍大潰、追数十里、斬首数千級、奪戦艦五百餘艘、遂解正陽之囲。塔出乃上奏『方事之殷、宜明賞罰、俾将士有所懲勧』。帝納其言、頒賞有差。秋八月、淮西行省復為行院。塔出引兵渡淮、屯廬・揚間」
  5. ^ 『元史』巻135列伝22塔出伝,「十二年、従丞相伯顔以舟師与宋軍戦、宋軍大潰、其臣賈似道奔揚州、遂分兵四出、克池州、取太平、順流東下、至建康・丹徒・江陰・常州、皆望風迎降。時揚州未附、諜告揚州人将夜襲丹徒、守将乞援、塔出設伏以待、揚州軍果夜至、塔出扼西津邀撃之、殺獲溺死者甚衆。入朝、帝賜玉帯旌其功、授淮東左副都元帥、仍佩金虎符。十三年、加通奉大夫・参知政事、領淮西行中書省事。時沿淮諸州新附、塔出禁侵掠、撫瘡痍、練士卒、備姦宄、境内帖然。俄遷江西都元帥、征広東、塔出宣布恩信、所至渓峒納款、広東遂平」
  6. ^ 『元史』巻135列伝22塔出伝,「十四年、加賜双虎符、為江西宣慰使。宋益王昰・広王昺走保嶺海、復改江西宣慰司為行中書省、遷治贛州、授塔出資政大夫・中書右丞、行中書省事。十五年、以二王事入議。帝命張弘範・李恒総兵進討、塔出留後、以供軍費。初江西甫定、帝命隳其城、塔出即表言『豫章諸郡皆瀕江為城、霖潦泛溢、無城必至墊溺、隳之不便』。帝従之。降附之初、有謀畔者、既敗獲矣、塔出謂同僚曰『撫治乖方之所致也、中間豈無詿誤』。止誅其渠魁、尽釈餘党。瑞州張公明愬左丞呂師夔謀為不軌、塔出廉知其誣、曰『狂夫欲脅求貨耳、若以曚昧言遽聞之朝廷、則大獄茲興、連及無辜。且師夔既居相職、詎肯為狂妄之事若遅疑不決、恐彼驚疑、反生異謀』。乃斬公明而後聞、帝是之。十七年、入覲、賜労有加、復命行省於江西、尋以疾卒於京師、時年三十七。妻明理氏、以貞節称、旌其門閭」
  7. ^ 堤一昭 1992, p. 50.
  8. ^ 『元史』巻135列伝22塔出伝,「二子、長宰牙、襲爵中奉大夫・江西宣慰使;次必宰牙、仕至征東行中書省左丞、妻伯牙倫、泰安郡武穆王孛魯歓之女、亦守義有賢行」
  9. ^ 堤一昭 1992, p. 56.

参考文献

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  • 堤一昭「元代華北のモンゴル軍団長の家系」『史林』第75巻第3号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1992年5月、322-357頁、doi:10.14989/shirin_75_322ISSN 03869369NAID 120006597728 
  • 元史』巻135列伝22塔出伝