コンテンツにスキップ

タクアリ (砲艦・初代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

タクアリ (Tacuarí) はパラグアイ海軍の外輪砲艦[1]。1864年からのパラグアイ戦争に参加し、同戦争中に失われた。

古い計測では常備排水量421トン、満載排水量496トン[1]。後の測定では常備倍水量428から424トン、満載排水量444トン、垂線間長166フィート、最大幅25フィート1/2インチ[1]。蒸気機関2基搭載で、速力16ノット[1]。兵装は60ポンド前装砲2門、32ポンド前装砲2門、8ポンド前装砲2門で、1867年に12ポンド後装砲1門が追加された[1]。68ポンド砲2門と32ポンド砲6門搭載[2]とも。

ロンドンのThompson社で1854年に建造[1]。ブライスのJ. and A. 社で兵装が搭載された後、1854年11月6日にロンドンより出航し、1855年1月28日にアスンシオンに到着した[1]。その際、フランシスコ・ソラーノ・ロペスが便乗している[1]

1858年7月21日、Villa de Oliva付近でイギリス汽船「Little Polly」と衝突[1]。1859年、Justo José de Urquizaをアスンシオンからパラナへ運ぶ[1]。同年、内戦を調停すべくロペスが「タクアリ」でブエノス・アイレスへ向かったが、イギリス砲艦「Buzzard」と「Grappler」に阻止された[1]

1864年11月11日、マット・グロッソ州知事などを乗せたブラジル船「Marqués de Olinda」がアスンシオンに寄港した後、北へ向かった[3]。「タクアリ」は、ロペスより「Marqués de Olinda」をアスンシオンへ引き返させるよう命じられ、出航[3]。翌日「Marqués de Olinda」に追いつき、同船は命令に従ってアスンシオンに戻った[4]。その後、「Marqués de Olinda」に乗っていた者は拘束された[5]

12月にパラグアイ軍はマット・グロッソへの侵攻を開始し、旗艦として参加した「タクアリ」は他の参加艦船と共にアスンシオンから北へ向かった[6]

1865年4月13日、「タクアリ」他4隻はコリエンテスに現れ、アルゼンチンの「グアレグアイ」と「25・デ・マヨ」を捕獲した[7]

1865年6月11日、Battle of Riachueloに参加し損傷[1]

1867年8月8日、「タクアリ」は新兵をアスンシオンからHumaitaへ輸送した[1]

1868年3月22日(23日[8])、Timbó砲台のもとにあった「タクアリ」はブラジルの「バイア」、「パラ」の攻撃を受け、自沈した[9]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m "The Paraguayan Navy: Past and Present", p. 86
  2. ^ Hooker, The Paraguayan War, p. 33、Battle of Riachueloの参加艦船一覧
  3. ^ a b Whigham, The Paraguayan War, p. 160
  4. ^ Whigham, The Paraguayan War, pp. 160-161
  5. ^ Whigham, The Paraguayan War, p. 161
  6. ^ "The Paraguayan Navy: Past and Present", p. 86, "THE PARAGUAYAN NAVY PAST AND PRESENT: PART II", p. 175, Hooker. The Paraguayan War, p. 25
  7. ^ "THE PARAGUAYAN NAVY PAST AND PRESENT: PART II", p. 177, Whigham, The Paraguayan War, pp. 260-261
  8. ^ Road to Armageddon, p. 243
  9. ^ "The Paraguayan Navy: Past and Present", pp. 86-87, Hooker. The Paraguayan War, p. 84

参考文献

[編集]