コンテンツにスキップ

セヴィンチュ・カヤ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

セヴィンチュ・カヤ(Sevinču qaya、1286年 - 1324年)は、大元ウルスに仕えた文人の一人。貫雲石という漢名を称していた。『元史』などの漢文史料における漢字表記は小雲石海涯(xiǎoyúnshí hǎiyá)。

ウイグル人貴族の家に生まれながら文人としての道を選び、散曲作家として大成した事で知られる。

概要

[編集]

セヴィンチュ・カヤの祖父は南宋平定で活躍したウイグル人のエリク・カヤで、その子の貫只哥の息子がセヴィンチュ・カヤであった[1]。また、母方の祖父はやはりウイグル人でクビライ・カアンに仕えたブルト・カヤの息子の廉希閔であった[1]。長じて漢文に精通するようになったセヴィンチュ・カヤは父親の名前を取って「貫」を氏とし、「貫雲石」という漢名を名乗るようになったという。母親は神人から授かった大星を飲み込むことでセヴィンチュ・カヤを孕んだとの逸話があり、悪馬を乗りこなす人並外れた膂力の持ち主として育った。しかし、セヴィンチュ・カヤは長じると読書をたしなむようになり、やがて古典にとらわれない、人の意表をつくような文章を書くようになった[2]

セヴィンチュ・カヤは当初父の地位を継いで両淮万戸府ダルガチの職に就いたものの、数年たつと弟のクドゥ・カヤに官職を譲り、セヴィンチュ・カヤは姚燧に学んで文学を修める道を選んだ[1][3]

このころ皇太子の地位にあったアユルバルワダ(後の仁宗ブヤント・カアン)はセヴィンチュ・カヤが爵位を弟に譲ったことを聞くと、「将相の子弟でこのような賢者が他にいるだろうか」と述べ、息子のシデバラの説書秀才としてセヴィンチュ・カヤを招いた[1]。また、アユルバルワダが皇太子となった1307年(大徳11年)には国家事業として『孝経』のパスパ文字モンゴル語訳が出版・配布されていたが、恐らくはこの流れの中で1308年(至大元年)にセヴィンチュ・カヤは『孝経直解』という注釈書を編纂しアユルバルワダに進呈している[4]

1311年(至大4年)にアユルバルワダがブヤント・カアンとして帝位に就くと、セヴィンチュ・カヤも翰林侍読学士・中奉大夫・知制誥同修国史の地位を授けられている[5][6]

しかしある時、「昔の賢者は尊き場所を辞して卑近な場所に居すことを貴んだものだ」と述べ、病と称して江南地方に移り、身分姓名を偽って銭唐の市中で薬を売る生活を始めた。官職を辞した後も作詞の研鑽を続け、当時の士大夫の手本となったという。セヴィンチュ・カヤは1324年(泰定元年)5月8日に死去した。慈利州ダルガチとなったアルスラン・カヤ、八三海涯という息子が二人おり、また学識に優れた孫娘が懐慶路総管の段謙に嫁いだとも伝えられている[7]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d 宮2006,63頁
  2. ^ 『元史』巻143列伝30小雲石海涯伝,「小雲石海涯、家世見其祖阿里海涯伝。其父楚国忠恵公、名貫只哥、小雲石海涯遂以貫為氏、復以酸斎自号。母廉氏、夜夢神人授以大星使吞之、已而有妊。及生、神彩秀異。年十二三、膂力絶人、使健児駆三悪馬疾馳、持槊立而待馬至騰上之、越二而跨三、運槊生風、観者辟易。或挽彊射生、逐猛獣、上下峻阪如飛、諸将咸服其趫捷。稍長、折節読書、目五行下。吐辞為文、不蹈襲故常、其旨皆出人意表」
  3. ^ 『元史』巻143列伝30小雲石海涯伝,「初、襲父官為両淮万戸府達魯花赤。鎮永州、御軍極厳猛、行伍粛然。稍暇、輒投壷雅歌、意所暢適、不為形跡所拘。一日、呼弟忽都海涯語之曰『吾生宦情素薄、顧祖父之爵不敢不襲、今已数年矣、願以譲弟、弟幸勿辞』。語已、即解所綰黄金虎符佩之。北従姚燧学、燧見其古文峭厲有法及歌行古楽府慷慨激烈、大奇之」
  4. ^ 宮2006,36-37頁
  5. ^ 宮2006,64頁
  6. ^ 『元史』巻143列伝30小雲石海涯伝,「仁宗在東宮、聞其以爵位譲弟、謂宮臣曰『将相家子弟其有如是賢者邪』。俄選為英宗潜邸説書秀才、宿衛禁中。仁宗践祚、上疏条六事。一曰釈辺戍以修文徳、二曰教太子以正国本、三曰設諌官以輔聖徳、四曰表姓氏以旌勲冑、五曰定服色以変風俗、六曰挙賢才以恢至道。書凡万餘言、未報。拝翰林侍読学士・中奉大夫・知制誥同修国史」
  7. ^ 『元史』巻143列伝30小雲石海涯伝,「会議科挙事、多所建明、忽喟然嘆曰『辞尊居卑、昔賢所尚也。今禁林清選、与所譲軍資孰高、人将議吾後矣』。乃称疾辞還江南、売薬於銭唐市中、詭姓名、易服色、人無有識之者。偶過梁山濼、見漁父織蘆花為被、欲易之以紬。漁父疑其為人、陽曰『君欲吾被、当更賦詩』。遂援筆立成、竟持被去。人間喧伝蘆花被詩。其依隠玩世多類此。晩年為文日邃、詩亦沖澹。草隷等書、稍取古人之所長、変化自成一家、所至士大夫従之若雲、得其片言尺牘、如獲拱璧。其視死生若晝夜、絶不入念慮、翛翛若欲遺世而独立云。泰定元年五月八日卒、年三十九。贈集賢学士・中奉大夫・護軍、追封京兆郡公、諡文靖。有文集若干巻・直解孝経一巻行于世。子男二人阿思蘭海牙、慈利州達魯花赤。次八三海涯。孫女一人、有学識、能詞章、帰懐慶路総管段謙云」

参考文献

[編集]
  • 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈汲古叢書〉、1997年。ISBN 4762925101国立国会図書館書誌ID:000002623928 
  • 宮紀子『モンゴル時代の出版文化』名古屋大学出版会、2006年
  • 元史』巻143列伝30小雲石海涯伝
  • 新元史』巻160列伝57貫雲石伝
  • 圭斎集』巻9元故翰林学士中奉大夫知制誥同修国史貫公神道碑