セルゲイ・ドヴラートフ
セルゲイ・ドヴラートフ Серге́й Дона́тович Довла́тов | |
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誕生 |
1941年9月3日 ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 バシキール自治ソビエト社会主義共和国 ウファ |
死没 |
1990年8月24日(48歳没) アメリカ合衆国・ニューヨーク |
職業 | 作家 |
代表作 | 『わが家の人びと』ほか |
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セルゲイ・ドナートヴィチ・ドヴラートフ(ロシア語: Серге́й Дона́тович Довла́тов, ラテン文字転写: Sergei Donatovich Dovlatov, 1941年9月3日 - 1990年8月24日)は、ロシアの小説家。
生涯
[編集]1941年9月3日に、バシキール自治ソビエト社会主義共和国のウファで生まれた。父は劇場監督のドナート・イサーコヴィチ・メーチク(Донат Исаакович Мечик、1909年 - 1995年)、母は文章校正家のノラ・セルゲイエヴナ・ドヴラートヴァ(Нора Сергеевна Довлатова、1908年 - 1999年)。1944年からは、戦火の収まったレニングラードで暮らす。1959年、レニングラード国立大学文学部(フィンランド語学科)に入学したが、二年半後に退学を余儀なくされた。1962年から1965年にかけては、軍隊に勤務、コミ北部にあった矯正労働収容所の警備員として働いた。
創作活動の開始
[編集]除隊後、ドヴラートフはジャーナリズム学部に入り、工場新聞のジャーナリストとして働き、物語を書き始めた。マラムジン、エフィーモフ、ヴァフチンらとともに、レニングラードの文学サークル「都会派」に加わった。ある時は、パノワの元で、秘書として働いていた。1972年から1976年までタリンに住み、「ソヴェーツカヤ・エストニア新聞」の通信員として勤務、また、プスコフ近郊のプーシキン保護区域で観光ガイドとして働いた。1976年にレニングラードに戻り、雑誌「焚き火」に携わる。
ドヴラートフは散文作品を書いていたが、ソ連の雑誌に作品を掲載しようとする試みは徒労に終わった。彼の最初の本の組版はKGBの命令で廃棄される。60年代終わり頃から、ドヴラートフは地下出版物に自分の作品を発表するようになり、1976年には、いくつかの作品が西側の雑誌、「大陸」や「時間と我ら」に発表された。そのため、ソ連のジャーナリスト組合から除名された。
亡命後
[編集]1978年、政府からの追及を逃れるため、ドヴラートフはウィーンに亡命し、その後、家族とともにニューヨークに移り住んだ。ニューヨークでは、リベラルな移民系新聞「The New American」(ロシア語)を発行した。そして、『見えない本』(1978年)、『アンダーウッドのソロ』(1980年)、中編小説『妥協』(1982年)、『サンクチュアリ』(1983年)、『わが家の人びと』(1983年)など、相次いで自身の小説を出版した。80年代半ば頃、大きな文学的成功を収め、権威ある雑誌「ザ・ニューヨーカー」に自身の作品を発表した。
1990年8月24日、心不全によりニューヨークで死去。48歳没。ヘブロン山墓地に埋葬された。
12年間の亡命生活で、12冊の本が欧米で出版された。ソ連では、地下出版や「自由ラジオ」へ印税を譲渡したことによって知られた作家であった。彼の死とソ連崩壊後、ロシアでも彼の短編集が数多く出版され、20世紀後半で最も愛されたロシア人作家の一人となった。
2018年、伝記映画『Dovlatov』が公開された。
日本語訳
[編集]外部リンク
[編集]- 「わが家の人々」解説(沼野充義)現代ロシア文学サイト
- 「ゾーン ─ 看守の手記(守屋愛)」解説現代ロシア文学サイト