コンテンツにスキップ

スパイク・ミリガン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スパイク・ミリガン
Spike Milligan
本名 Terence Alan Milligan
生年月日 (1918-04-16) 1918年4月16日
没年月日 (2002-02-27) 2002年2月27日(83歳没)
出生地 イギリス領インド帝国の旗イギリス領インド帝国アフマドナガル
死没地 イングランドの旗 イングランドイースト・サセックスライ
国籍 イギリスの旗 イギリスアイルランドの旗 アイルランド(1962年 - )
配偶者 ジューン・マーロウ(: June Marlow、1952年 – 60年、離婚)
パトリシア・リッジウェイ(英: Patricia Ridgeway、1962年 – 78年、死別)
シェラー・シンクレア(英: Shelagh Sinclair、1983年 – 2002年、死別)
著名な家族 ジェーン (Jane Milligan)
ローラ (Laura Milligan)
ショーン (Seán Milligan)
シーレ (Síle Milligan Harrower)
ジェームズ (James Maughan-Milligan)
ロマニー (Romany Watt-Milligan)
主な作品
ザ・グーン・ショー』/『Q...
備考
兵役経験
所属組織イギリスの旗 イギリス
部門 イギリス陸軍
軍歴1940年 – 1945年
最終階級砲兵隊伍長 (Lance bombardier
部隊王立砲兵隊 (Royal Artillery)
戦闘第二次世界大戦
テンプレートを表示
画像外部リンク
en:File:Spike Milligan.jpg
? ポーズを決めるミリガンの写真

スパイク・ミリガン、本名テレンス・アラン・"スパイク"・ミリガン KBE: Terence Alan "Spike" Milligan KBE1918年4月16日 - 2002年2月27日)は、イギリス出身・アイルランド国籍のコメディアン、作家、俳優である[1]アイルランド人の父とイギリス人の母の間に生まれ、幼少期は自身が生まれたイギリス領インド帝国で過ごした。仕事上のキャリアの大半は英国で築いたものである。ミリガン自身は自分のファースト・ネームを嫌っており、ラジオ・ルクセンブルク英語版で「スパイク・ジョーンズとシティ・スリッカーズ」(英: Spike Jones and his City Slickers)と名乗るバンドを聴いたことがきっかけで、「スパイク」と名乗り始めた[1]

ミリガンは、『ザ・グーン・ショー』の共同制作者、メイン・ライター、そして主要キャストの1人で、人気のあったキャラクター・エクルズ (Ecclesからミニー・バニスター (Minnie Bannisterまで、様々な役を演じ分けた。英国のラジオ番組の開拓者として『ザ・グーン・ショー』で成功を収めた後、ミリガンはこの成功をテレビ界にももたらした。彼の作ったテレビ番組『Q...』は、後のモンティ・パイソンメンバーにも大きな影響を与えている。またミリガンは、グーンズ[注 1]の中で最年長で、最も長生きしたメンバーとなった。

また多数の本を執筆・編集し、中にはコミック・ノベルの "Puckoon" (enや、"Adolf Hitler: My Part in His Downfall (en[注 2]に始まる、第二次世界大戦中の体験を綴った7巻ものの自伝などの作品がある。コミカルな詩作でも人気を博していた。彼の詩は大半が子供向けに書かれたもので、1959年"Silly Verse for Kids"[注 3]などの作品がある。

ミリガンは、1960年に英国市民権を、翌年に英国のパスポートを取得しようとしたが、どちらもミリガン自身が、人生の大半を過ごした英国への忠誠を誓うことを拒否し、却下されている[2][3]1962年英国連邦移民法英語版によって、インド出身のミリガンに与えられた自動的な英国市民権が剥奪された際には[4]、彼は即座にアイルランド国籍を選んでいる[5]。この国籍は父親がアイルランド出身であることから、自動的に遡及してミリガンに与えられるものである (automatic retroactive Irish citizenship

幼少期

[編集]

ミリガンは1918年4月16日に、イギリス領インド帝国(現インド)のアフマドナガルで、王立砲兵連隊英語版 (Royal Artillery, RA) 所属でイギリス領インド軍に務めていた、アイルランド人の父アルフォンソ・ミリガン(: Alphonso Milligan, MSM, RA (1890-1969))の息子として生まれた[6]。母フローレンス・メアリー・ウィニフレッド・ケトルバンド(英: Florence Mary Winifred Kettleband1893年 - 1990年)は英国出身だった。彼は幼少期をインドのプネーで過ごし、後に英国領ビルマの首都ラングーン(現:ヤンゴン)へ移った。彼はプネーにあるイエス・マリア修道会(英: The Convent of Jesus and Mary)に通い、後にラングーンの聖ポール中等学校 (St Paul's High School, Rangoonで教育を受けた[7]。下校の道すがらコルネットを吹くようになったミリガンは、この頃ジャズに出会っている。またオズワルド・モズレーが指導し、南ロンドンの彼の自宅近くで支援を受けていたイギリスファシスト連合に対抗した団体、「ヤング・コミュニスト・リーグ」 (Young Communist Leagueに参加している[注 4][8]

ビルマから帰国した後は、第二次世界大戦中のイギリス陸軍・王立砲兵連隊での海外従軍を除き、人生の大半を英国で過ごした。

第二次世界大戦

[編集]
ミリガンのいた第56重砲兵隊の兵士たち。隣に写っているのはBL9.2インチ榴弾砲[注 5]。撮影は1940年5月、サセックスヘイスティングスにて
スキャメル パイオニアで第56重砲兵隊18砲列中隊の榴弾砲を引いている写真。撮影は1943年12月23日、イタリアにて

1930年代の終わりから1940年代初めのほとんどを、ミリガンはアマチュアのジャズ・ヴォーカリスト、トランペッターとして過ごした。ミリガンはナチス・ドイツとの戦いのため徴兵されたが、ジャズは徴兵前・軍務中・復員後も変わらない趣味だった。また、兵士たちを楽しませるため、コメディ・スケッチの執筆・上演も続けていた。徴兵後海外戦線に送られる前、彼と仲間のハリー・エディントン(: Harry Eddington、1919年 – 1993年)[9][注 6]は超現実的な物語をこしらえ、だじゃれや屁理屈を詰め込み、兵営での退屈を紛らわしていた。ある伝記作家は、初期のミリガンがダンス・バンドとして活動していたことについて、次のように述べている。

「彼はビング・クロスビーのように甘い声で歌うことができ、コンテストで優勝した。またドラムギタートランペットも吹き、それは全て独学で身に着けたものだった」
"He managed to croon like Bing Crosby and win a competition: he also played drums, guitar and trumpet, in which he was entirely self taught" — Pauline Scudamore、Scudamore (1985, pp. 52–53)

ミリガンはほかにもコントラバスが弾け、自身でレッスンを行っていたほか、ジャズ・セッションでコントラバスをかき鳴らしていた[10]。ミリガンは絶対音感を持っていたという[要出典]

第二次世界大戦の間、ミリガンは第56重砲兵王立砲兵連隊英語版通信兵英語版として働いた。所属はD砲兵中隊(後に19砲兵中隊)で、ガナー・ミリガン(英: Gunner Milligan)との名前で登録され、954024番が与えられた。このユニットには、第一次世界大戦時代のものとやや時代遅れなBL 9.2インチ榴弾砲英語版が配備されており、イングランド南岸のベクスヒル=オン=シーを本拠地としていた。ミリガン自身は、自著 "Adolf Hitler: My Part in His Downfall" 第2章で軍務時代について触れており、演習用の砲弾が無かったために、訓練中砲手たちは一斉に「バン」と叫ぶことで代用していたと述べている[11]

部隊には後にBL 7.2インチ榴弾砲が配備され、北アフリカ戦線、それに引き続くイタリア戦線で英国の第1軍 (British Fist Armyの役割を果たした。ミリガンはイタリアとのモンテ・カッシーノの戦い戦傷を負った際に、それまでの平砲兵から昇進し、砲兵隊伍長 (Lance bombardierに任じられている。右脚に受けた迫撃砲による傷とシェル・ショック[注 7]のため入院した結果、ミリガンは非同情的な指揮官によって元の平砲兵に降格させられた(ミリガンの戦記から、この上官はエヴァン・"ジャンボ"・ジェンキンス少佐[注 8]と判明している)。ミリガン自身は、自分が絶えず同僚兵士の士気を維持していたのに対し、ジェンキンスは兵士たちにハーバート・キッチナー卿同様の態度を取らせようとアプローチしていたため、少佐はミリガンのことが気に入らなかったのではないかとしている[要出典]。他にも、ジェンキンスが平砲兵のミリガン・エディントンを露営地に招き、ジャズを一緒に演奏するよう求めたが、演奏した軍歌 "Whistling Rufus"(意味:口笛を吹くルーファス)の出来映えは、平砲兵2人の方が上官のジェンキンスよりも遙かに上だったという話も残されている。

入院生活の後、ミリガンは数々の後方梯隊[注 9]を回ってイタリア中を移動し続け、遂にはフルタイムのエンターテイナーになった。彼は兵士たちのパーティに出演し、ギターでジャズを弾いたり、コメディ・グループ『ビル・ホール・トリオ英語版』として活動した。軍から復員した後もミリガンはトリオとしてイタリアに残っていたが、その後すぐに英国に帰国することになった。彼は"Central Pool of Artists" (en(自身で「爆弾が嬉しい新兵」[注 10]で構成されていると表現していたグループ)と活動していたが、その内彼らの行う劇本編のパロディを書くようになり、このパロディには後の『ザ・グーン・ショー』(元々のタイトルは "Crazy People")の鍵となる要素が既に数多く含まれていた[要出典]

キャリア

[編集]

ザ・グーン・ショー

[編集]

ミリガンは1940年代遅くにジャズ演奏に戻り、ホール・トリオや他の音楽コメディグループとの不安定な生活を送っていた。同時に、演者・脚本家として、ラジオの世界を改革しようとも試みていた。彼がラジオの世界で最初に収めた成功は、コメディアン・デレク・ロイ英語版の番組でのライター業だった。

これに後れを取る形で、ミリガン、ピーター・セラーズハリー・シーカム英語版マイケル・ベンティン英語版は、比較的急進的なコメディ番組『ザ・グーン・ショー』のチームに加わった。番組の第1シーズンの間、BBCは番組名を "Crazy People"(略称)、もしくは "The Junior Crazy Gang featuring those Crazy People, the Goons!"(正式名称)としていたが、これは当時人気だった劇場コメディアングループ『ザ・クレイジー・ギャング英語版』と結びつけて、BBCの高官に番組を受け入れてもらおうという画策だったという[13]

シリーズの第1話は1951年5月28日BBCホーム・サービス英語版で放送された[14]。番組初期ではミリガンはあまり演者を務めなかったが、結局は『グーン・ショー』ほぼ全話の主演者となり、エクルズ (Ecclesやミニー・バニスター (Minnie Bannister、ジム・スプリグス、極悪なモリアーティ伯爵 (Count Jim Moriartyなど幅広い役を演じている[15]。彼は脚本のほとんどで主筆者を務めていたが、一方でラリー・スティーヴンス英語版エリック・サイクス英語版など、様々な人物と脚本の共筆も行った。番組初期の脚本は、ほとんどがスティーヴンスと共作しジミー・グラフトン英語版が編集したものだったが、スティーヴンスとの協力関係は第3シリーズ後に破綻している。ミリガンは第4シリーズの脚本のほとんどを執筆したが、第5シリーズ[注 11]から第6シリーズの大部分でエリック・サイクスと共作し、この関係は "Associated London Scripts" (enでのコラボレーションに繋がっている[16]。ミリガンとスティーヴンスは第6シリーズ中に再度コンビを組んだが、第8シリーズ終了に先立ってスティーヴンスが健康問題から退き、ミリガンは短期間ジョン・アントロバス英語版と共作した。ミリガンとスティーヴンスの協力関係は、スティーヴンスが1959年1月に脳出血で死亡したことで終わりを告げ、その後ミリガンはスティーヴンスの貢献にほとんど触れず、それをけなすようになった[17]

『グーン・ショー』はスタジオ観衆の前で収録され、前説の時間にはミリガンがトランペットを吹き、ピーター・セラーズがオーケストラのドラムを演奏した[18]。初めの数年間、番組は直接16インチの録音ディスクへライブ録音されていたため、演者たちは脚本を完璧にこなす必要があったが、第4シリーズからBBCは磁気テープを採用した[19]。ミリガンは熱心に新技術が開いた可能性を活用した。テープは編集が可能だったため、演者は自由にアドリブを挟むことができるようになり、更に革新的な効果音を作ることもできた。最初の3シリーズでは、当時 "grams" と呼ばれていた、より手の込んだ効果音が欲しいというミリガンの要望は、BBCの技術者たちの技術的・技能的制約から却下されていた — 効果音は機械的に作ったり (フォーリー:Foley (filmmaking)、ディスクから再生する必要があり、そのためには4〜5つの回転盤を同時に使わなくてはならないこともあったからである[19]。一方磁気テープを使えば、これらの効果音を予め制作しておくことができるようになり、結果としてBBCの技術者たちは、とても複雑でしっかりと編集された効果音 "stings" を作れるようになった。この "stings" は、従来のフォーリーやディスクでは、不可能とまではいかなくても制作・再生がとても難しかったようなものだった。シリーズ後半では、『グーン・ショー』用の多くの "grams"BBCレディオフォニック・ワークショップのメンバーによって作られ、中でもディック・ミルズ英語版によって作られた『ブラッドノック少佐の胃』 (Major Bloodnokの効果音は有名なものの例である。

グーンズがミリガンを世界的なスターダムへ押し上げた一方で、シリーズの脚本・演技を求める声は重荷になっていった。第3シリーズの間、ミリガンは最初の深刻な神経衰弱に悩まされ、これは彼を数十年苦しめた躁鬱病の始まりとなった。1952年遅くには、病状はグーンズのメンバー間での抑制された緊張感によって悪化させられ、ミリガンは明らかに理性を失ってグーンズでの共演者・セラーズを殺さねばならないと思い込んだ。しかし彼は、ポテトナイフを持ってセラーズの隣のフラットへ入ろうとした際に、誤ってガラス板の正面扉に突き進んでしまった。ミリガンは入院し(病院では非常に穏やかな2週間を送った)、更に回復までほぼ2ヶ月費やす羽目になったが、番組にとっては幸いなことに脚本の備蓄があったため、彼の病気は番組制作にほとんど影響しなかった[20]。ミリガンは後に、自分の神経衰弱と最初の結婚の失敗を理由に、『グーン・ショー』での脚本執筆・演技への重圧に対して非難している[21]

ミリガンの1950年代から1960年代の生活でほとんど知られていないのは、脚本家代理業者 "Associated London Scripts" (ALS)  (enへの参加である。ミリガンはこの時期に最初の結婚をして所帯を持ったが、この結婚は伝えられるところによると彼を執筆から大きく引き離すことになった。そのためミリガンはサイクスからの「小さなオフィスを分け合わないか」との誘いを受け、これが共同代理店の設立へと繋がった。なおテレビプロデューサーのベリル・ヴァーチューはこの時期にALSに参加し、エージェント業などを務めていた[22]

テレビでの活躍

[編集]

ミリガンはテレビの世界へと進出し、インタビュー番組への多数のゲスト出演に加え、1950年代から2000年代にかけて、作家兼俳優としてバラエティやコメディ・シリーズを制作した。1956年に制作され、ピーター・セラーズが主演した "The Idiot Weekly, Price 2d" (enは、『グーン・ショー』のユーモアをテレビに持ち込もうとした最初の作品だった。この作品に引き続いて、1956年の間に "A Show Called Fred" (en"Son of Fred" (enといった続編が作られたが、この2作を監督したリチャード・レスターは、後にビートルズ映画も手掛けている。1958年オーストラリア訪問中には、"The Gladys Half-Hour" と銘打たれた類似のスペシャル番組がオーストラリア放送協会 (ABC) で放映され、レイ・バレット英語版ジョン・ブルーサル英語版など地元俳優が登場した。この2人は後のミリガンのプロジェクトにもいくつか出演している。1961年には、エリック・サイクスとハティー・ジェイクス英語版が主演した人気シットコム "Sykes and a..." (enの2エピソードを共筆し、更に "Spike Milligan Offers A Series of Unrelated Incidents at Market Value" と銘打った1回限りの番組を放送している。

15分のシリーズ "The Telegoons" (en1963年)は、グーンズをテレビへ持ち込もうとした次の試みで、ここでは人気キャラクターがパペットで演じられた。当初の意図は、1950年代の『グーン・ショー』のオリジナル録音を「映像化すること」だったが、これは難しいことが判明した。また矢継ぎ早の対話のために、オリジナル録音を用いるという計画はBBCに拒否されて頓挫した。代わりにモーリス・ウィルトシャー(: Maurice Wiltshire)による、15分のオリジナル脚本の翻案が使われることになり、ミリガン・セラーズ・シーカムは声の出演をするために再結集した。当時のプレス・レポートによると、彼らはBBCの15分番組で過去最高の報酬を得ていたという[23]。1963年と1964年には2シリーズが制作され、シリーズ全体がBBCアーカイブに保存されていると報告されている[要出典](映像はビデオではなく、35ミリフィルムで撮影されたと考えられている)。

テレビ界での次の大きな挑戦は、1968年のスケッチ・コメディシリーズ "The World of Beachcomber" (enだった。この作品はカラーで撮影されBBC Twoで放送されたが、全19エピソードは既に紛失した (Wipingと考えられている。同じ年には、テムズ・テレビジョンでの『グーン・ショー』テレビ再上演のため、グーンズの3名が再結集している。この番組には、既に死去していた『グーン・ショー』の司会でアナウンサー、ウォレス・グリーンズレイド英語版の代わりにジョン・クリーズが参加したが、パイロット版の評判は芳しくなく、それ以上番組制作は行われなかった。

1969年初めには、ミリガンはジョニー・スパイト英語版制作・脚本、更にミリガンの旧友で執筆仲間・エリック・サイクス主演の不運なシットコム "Curry and Chips" に出演した。この番組は、スパイトの初期の作品で大成功した "Till Death Us Do Part" (en[注 12]と同様に、英国のレイシスト(人種差別主義者)を揶揄するもので、黒塗りにしたミリガンは、パキスタン人とアイルランド人のハーフで工場員のケヴィン・オグレディ(英: Kevin O'Grady)を演じた。このシリーズでは、レイシストの使うような罵倒句や「汚い言葉」が頻繁に使われていたため、番組に対して多数の批判が寄せられた[注 13]。このため6話分を放送した段階で、独立放送協会英語版からの命令で放送が中止された[24]。ミリガンは別の不運な番組 "The Melting Pot" (enにも出演している(第1話のみが放送され、予定されていた残り5話分はお蔵入りとなった作品)[25]

ジョン・ゴールドシュミット英語版監督の映画 "The Other Spike" では、ミリガンの神経衰弱がドラマ化され、グラナダ・テレビジョン英語版で放送された[26]。この作品のためミリガンはシナリオを執筆し、また自身の役を演じた。1969年終わりには、BBCから "Q5" の脚本と主演を委任された。この作品は革新的な『Q...』シリーズの初作で、数ヶ月後に初放送があった『空飛ぶモンティ・パイソン』の重要な先駆作品として認められている[注 14]。数年飛んで1975年には、続編シリーズの "Q6" が放送された。また "Q7"1977年"Q8"1978年"Q9"1980年"There's a Lot of It About"[注 15]1982年に放送されている。ミリガンは後に、BBCのシリーズに対する冷たい態度に不平を漏らし、「もし機会が与えられるならもっと番組を作ろう[どうせ叶わないだろうが]」と述べた。『Q...』シリーズ初期のエピソードはかなりの分量が消失しており、テープの使い回しなどで廃棄された (wipingと考えられている[要出典]1979年には『マペット・ショー』にゲスト出演した[要出典]

1995年から1998年にかけて、ミリガンはITVの大成功した子供向けアニメシリーズ "Wolves, Witches and Giants" の吹替を担当した。この作品は、『Q...』シリーズに出演し、ミリガンとラジオ番組で何回か共演していたエド・ウェルチ英語版が脚本を書き、サイモン & サラ・ボア(英: Simon & Sara Bor)によってプロデュース・監督された[29]。シリーズは英国・アメリカ合衆国を含め、100以上の地域で放送されている[要出典]

詩やその他の著作

[編集]

ミリガンはナンセンス文学に含まれるような詩も書いた。コメディアンのスティーヴン・フライは彼の詩について、「全く不朽のものだ — リアの伝説を前にしても大いに」("absolutely immortal—greatly in the tradition of Lear.")と表現している[30][注 16]。彼の詩の1つ、"On the Ning Nang Nong" (enは、1998年に行われた全国投票で、ルイス・キャロルエドワード・リアなどのナンセンス詩人を抑え、英国第1位のコミック・ポエムに選ばれている[31]。このナンセンス詩英語版には曲が付けられ、ABCの子供向け番組 "Play School" (enで毎週放送されたことで、オーストラリアでの大ヒットを収めた。ミリガンは1969年に出された自身のアルバム "No One's Gonna Change Our World" (enにこの曲を収め、その収益を世界自然保護基金 (WWF) の寄付金とした。2007年12月には、Ofsted英語版の調べで、この詩が英国のプライマリー・スクールで教えられた詩トップ10の頂点に立ったと報じられた[32]

鬱状態に陥った後シリアスな詩を書くようになったミリガンは、他にも小説 "Puckoon" や戦争回想記のシリーズを書いた。戦争回想記としては、1971年"Adolf Hitler: My Part in His Downfall" (en1974年""Rommel?" "Gunner Who?": A Confrontation in the Desert" (en1976年"Monty: His Part in My Victory" (en1978年"Mussolini: His Part in My Downfall" (enなどがある。ミリガンの回想記7巻は、1939年から1950年までをカバーしている(内容は自身の召集、軍務、最初の神経衰弱、イタリアでの慰問興行、英国への帰国)[要出典]

ミリガンは ビートルズの『イエロー・サブマリン』のパロディである"Purple Aeroplane" など、コメディソングもいくつか書いている。神経衰弱を引き起こしたうつ発作の兆候は、彼のシリアスな詩の中でちらりと見ることができ、これらは詩集 "Open Heart University" に収められた[33][要出典]

劇場作品

[編集]

『宝島』

[編集]

バーナード・マイルズ英語版は、マーメイド・シアター英語版で行われた『宝島』(: Treasure Island)の上演で、ミリガンにベン・ガン(英: Ben Gunn)の役を与えた。この役はミリガンにとって初めてのストレート・アクト出演となった。マイルズはミリガンを評して次のように述べている。

「非常にずば抜けた才能を持つ男だ・・・1人だけ外に立っている先見性のある男で、自分が変わっているために同じ種と理解し合うことができない、ただそれだけのために日常の付き合いを廃している・・・」
"... a man of quite extraordinary talents ... a visionary who is out there alone, denied the usual contacts simply because he is so different he can't always communicate with his own species ...."[34]

この『宝島』は、1961年から翌1962年の冬を通して1日2回公演され、数年間マーメイド・シアターの年次恒例作品となった。1968年の公演ではバリー・ハンフリーズのっぽのジョン・シルバーを演じ、ウィリアム・ラシュトン英語版が地主のトレローニー (Squire Trelawney、そしてミリガンがベン・ガンを演じた。ハンフリーズはミリガンの演技についてこう述べた。

[ミリガンの] 最高の演技はまさしくベン・ガンそのものだった・・・、ミリガンは毎夜主役を食っていた、準備には少なくとも1時間はかかっていた。彼が舞台に現れれば、必ず観客の中の子供たちから歓喜のどよめきが起こり、ミリガンは抜群に滑稽なリフを始めるように、すぐに遠くまで台詞を届けるのだった」
[Milligan's] "best performance must surely have been as Ben Gunn .., Milligan stole the show every night, in a makeup which took at least an hour to apply. His appearance on stage always brought a roar of delight from the kids in the audience and Spike had soon left the text far behind as he went off into a riff of sublime absurdity."[35]

The Bed-Sitting Room

[編集]

1961年から1962年にかけて、『宝島』のマチネ(昼公演)と夕方公演の長い休憩時間の間に、ミリガンはジョン・アントロバス英語版と温めていた核戦争後の世界についてドラマ化するアイデアを、マイルズに明かし始めた。これは後にアントロバスとミリガンが共筆した1幕の芝居 "The Bed-Sitting Room" (enとなり、1962年2月12日カンタベリーマーロウ・シアター英語版で初演された。作品は翻案されてより長い作品になり、マイルズの手でロンドンにあるマーメイド・シアターで上演されることになり、1963年1月31日に第1回公演が行われている。作品は批評的・興行的に成功を収め、1967年には5月3日サヴィル・シアター英語版公演開始を前に、地方ツアーが行われている。リチャード・レスターは後にこの作品を映画化し、『不思議な世界・未来戦争の恐怖英語版』(別題『リチャード・レスターの不思議な世界』)として1969年に公開した[36][37]

『オブローモフ』

[編集]

1964年10月6日、ミリガンはハマースミスリリック・シアター英語版 で行われた、フランク・ダンロップ英語版の作品『オブローモフ』に出演した。この作品はロシアの作家イワン・ゴンチャロフの小説を元にしたものである。ポーリーン・スクーダモアによるミリガンの伝記では次のように書かれている。

「ミリガンのファンや一般の演劇世界は、彼がストレート・プレイの世界にやってくると信じることが難しかった・・・彼は自分の動機について聞かれても本気で答えなかった。物語の中では、オブローモフは人生をベッドの上で過ごそうと決める。スパイクは自分の性格と同一視することを決め、不信感を抱くレポーターたちに、自分にとって良い癒やしとなる休養だと考えている、と述べた。これは勿論、二枚舌だった。スパイクはオブローモフに大層興味をそそられ、イワン・ゴンチャロフの小説の訳本を読んでいた」
"Milligan's fans and the theatrical world in general found it hard to believe that he was to appear in a straight play ... He refused to be serious when questioned about his motives. In the story, Oblomov decides to spend his life in bed. Spike decided to identify with his character, and told disbelieving reporters that he thought it would be a nice comfortable rest for him. This was of course, prevarication. Spike was actually intrigued with Oblomov and had read a translation of Ivan Goncharov's novel." — Pauline Scudamore、[38]

ミリガンの愛着は演劇へと変換された。ところが公演初夜は不出来で、ジョアン・グリーンウッド英語版がオルガを演じたが、彼女の夫アンドレ・モレル英語版は、公演がとても酷い出来なのでグリーンウッドを降板させるべきだと考えたと述懐している。スクーダモアは更にこう書いている。

「[役者は]誰も自分の役に全く納得していないように見え、観衆は、ミリガンのスリッパがうっかり舞台から最前列に滑り落ちてしまった時には笑い声混じりに野次を飛ばした。これはスパイクにとってストレート・プレイの終わりだった。観衆は道化師を求め、彼は道化師になった。彼は台詞を忘れてしまったり、彼らが気に入らない時には、ただ自分がよりふさわしいと感じているものになろうとした。あの夜、初夜の賑やかな賞賛は一つも無く、キャストのほとんどは帰宅して唖然としたようだった。次の夜には、ミリガンは熱心にアドリブを入れ始めた。公演のテクストはがらっと変わり始めた。役者たちは混乱し動揺したが、彼[ミリガン]について行った・・・信じられないほど、公演は仕上がっていった。状況は完全に変わった。全くひっくり返ったのだ。キューや台詞は、ミリガンが毎夜口頭で書き直すことで全く違う物になっていった。最後の週までには、『オブローモフ』は評価に打ち勝った。アンドレ・モレルは再来場し・・・そして公演後に「こいつは天才だ。天才に違いない—彼にはこの言葉しか無い。信じがたいよ—でも彼は天才だ!」と述べた。『オブローモフ』がハマースミスのリリック・シアターで記録を塗り替えた5週間の公演を終えた後、タイトルは『オブローモフの息子』[: Son of Oblomov]に変えられて、公演はウエスト・エンドのコメディ・シアターに移った」[注 17] — Pauline Scudamore、[39]

バーナード・ブレイデン英語版によるインタビューで、ミリガンは劇場での経験が自分にとって重要なものだと表現している。

「最初あれは生計のためだったんだ。それに自分はちょっと同僚たちについて行けなくてね、自分は・・・作家席に座ったままの状態だったんだ。それから実のところ自分は全く優れた道化役者だって気付いてね・・・『オブローモフ』で、本当に酷い原稿から抜け出した自分のやり方で道化を演じるのは、自分が証明しなきゃいけなかった唯一のチャンスだったんだ・・・自分はおどけてウエスト・エンドでの成功をものにしたし、ああ、その間ずっと演劇を変えていった。あれは即興の力作だったよ・・・全てが終わった時には飽き飽きしたね、これで全てだ」
"First it was a means of livelihood. And I had sort of lagged behind my confederates, that I ... remained in the writing seat. And I realise that basically I was quite a good clown ... and the one and only chance I ever had to prove that was in Oblomov when I clowned my way out of what was a very bad script ... I clowned it into a West End success and uh, we kept changing it all the time. It was a tour de force of improvisation ... all that ended it was I got fed up with it, that's all." — Spike Milligan、"All Our Yesterdays" (en (ITV, 1988)

ケン・ラッセルの映画で

[編集]

1959年ケン・ラッセルはミリガンと、彼に関する35mmフィルムの短編映画 "Portrait of a Goon" を撮影した。映画の制作風景はポール・サットン(英: Paul Sutton)による2012年の公認伝記 "Becoming Ken Russell"[40]で詳述されている。1971年にミリガンは、ラッセルの映画『肉体の悪魔』で卑しい村の司祭を演じた。シーンはリリース時にカットされてしまい、フィルムも失われたと考えられているが、マリー・メルヴィン英語版と共に写るシーンの写真があり、これは同じくサットンが2014年に書いた本 "Six English Filmmakers"[41]に収められている。

アドリブ

[編集]

彼の劇場での逸話に描写されているように、ミリガンはしばしばアドリブを飛ばした。彼は同じ事をラジオやテレビでも行った。ミリガンにとって最後のスクリーン登場となった作品の1つに、マーヴィン・ピークの『ゴーメンガースト』シリーズをBBCでドラマ化したもの (Gormenghast (TV serial)があるが、そこでも彼は、ほぼ必然的にアドリブを飛ばしていたとされている。

1960年代にオーストラリアを訪問した際、このアドリブがあだになる事件が起きた。彼は生放送でインタビューを受け、次のニュース番組の間もスタジオに残っていた(ニュース番組はロッド・マクニール[注 18]が担当した)。このニュース番組の間、ミリガンはずっと口を挟み続け、自分自身の名前をニュースの中に差し挟んでいった。結果としてミリガンは、オーストラリア放送協会 (ABC) の生放送番組に対する出演禁止命令を出された。ABCはまた局の規則を変更し、ゲストはインタビューが終了し次第スタジオを出なくてはならないと定めた。ミリガンによるアドリブ攻撃のテープは保存されており、ABCラジオ・音声コンピレーション(英: ABC Radio audio compilation)に残されているほか、BBCによるトリビュートCD "Vivat Milligna"ママ[注 19]にも収録されている。

映画・テレビ監督のリチャード・レスターは、"A Show Called Fred" の生放送時を述懐している。

「自分の人生で天才を見たことなんてほとんど無いが、自分は最初の放送後ミリガンと一例を目撃した。彼は無音のアニメを持ってきた」[注 20][その後ミリガンはレスターに、彼のPAが速記をできるか尋ねた]「彼女は出来ると言った。『いいね、事実の記録が必要なんだよ』あれは10分のアニメで、スパイクがたった1度だけ見られただろうものだった、いややはりそれも無かっただろう。彼は番組のためにアドリブでコメンタリーを作り、出来上がったものは完璧なものだった。自分は目の前で行われた生のコメディ作品に対し、口をぽかんと開けてしまった」[注 21] — Richard Lester、[42]

漫画

[編集]

ミリガンは時折、風刺雑誌『プライベート・アイ英語版』に漫画を寄稿していた。大半はワン・ライン・ジョーク英語版を漫画化したものだった。ミリガン自身は頭の切れる画家だった[43][44]

宣伝広告

[編集]

1967年には、英国のテレビCMのスーパーマンに刺激を受けたキャラクター流行を風刺するため、ミリガンが「バット・グーンズ」(英: "Bat-Goons")として、BPのテレビCMに出演した[45]。当時の記者はこのテレビCMについて、「面白く効果的だ」(英: "funny and effective")と述べている[45]1980年から1982年にかけては、イングリッシュ・ツアーリスト・ボード(英: English Tourist Board、現VisitEngland (en)の広告に出演し、イングランドの様々な地方を訪れるスコットランド人役を演じた。

またケロッグコーンフレークオーストラリア・コモンウェルス銀行プランター・ナッツ英語版などのテレビCMにも出演している。

キャンペーン活動

[編集]

彼は環境問題に関して声高な活動者であり、特に店などでのBGM (英: muzak) のような必要外の騒音に関しては大反対していた[46]

1971年には、ハマーにあるヘイワード・ギャラリーで、感電死させられたキャットフィッシュ・オイスターやエビでできた作品の展覧会を批判する論争を起こしている[47]。彼は忠実で率直なドメスティックバイオレンス反対者で、彼の著作の内1冊は、英国の家族問題を扱った運動家・作家のエリン・ピゼイ英語版へ捧げられている。

インド体験記

[編集]

1970年代、作家のチャールズ・アレン英語版は、イギリス領インド帝国に住んでいた英国人の体験談を編纂し、"Plain Tales from the Raj"[注 22]とのタイトルで1975年に出版した。ミリガンはこの本に体験談を寄せた最も若い人物で、英国統治下にあったインドでの体験を語っている。この本の中で、ミリガンは帝国のパレードについて語っている。

「自分にとって1番わくわくさせられた音は、ドール英語版やサーマイ[注 23]を演奏する、パンジャーブ臨時連隊[注 24]の音だった — ビートは1つ、ダンダダダン、ダンダダダン、ダンダダダン!彼らはとても長いパンタロンを履いていて、ターバンで金色のドームを作り、カーキのシャツにバンドの付いたウェストコート、2回交差した弾薬帯、革のサンダルを身に着けていた。彼らはとても速く行進していたのを覚えている、英国連隊のかかとで土ぼこりが立ちのぼった。彼らは連隊で現れ、自分たちのライフル銃を空中に投げては、それを左手でつかまえる — ずっとこのダンダダダン、ダンダダダンに合わせて — それからドラムの音に合わせて、足を踏み下ろし一斉射撃する。彼らは左に、右に、左に、右に、「よくやった!」[注 25]「へい!」バン!ダンダダダン — あれは素晴らしかった!」
"The most exciting sound for me was the sound of the Irregular Punjabi Regiment playing the dhol and surmai - one beat was dum-da-da-dum, dum-da-da-dum, dum-da-da-dum! They wore these great long pantaloons, a gold dome to their turbans, khaki shirts with banded waistcoats, double-cross bandoliers, leather sandals, and they used to march very fast, I remember, bursting in through the dust on the heels of an English regiment. They used to come in with trailed arms and they'd throw their rifles up into the air, catch it with their left hand - always to this dum-da-da-dum, dum-da-da-dum - and then stamp their feet and fire one round, synchronising with the drums. They'd go left, right, left, right, shabash! Hai! Bang! Dum-da-da-dum - It was sensational!" — Spike Milligan、[49]

私生活

[編集]

家族

[編集]

ミリガンは最初の妻、ジューン・(マーチニー)・マーロウ(: June (Marchinie) Marlow)と1952年に結婚した。2人の間には、ローラ、ショーン、シーレ (Laura, Seán and Síle) と3人の子供が生まれたが、1960年に離婚した。2番目の妻パトリシア・リッジウェイ、愛称パディ(英: Patricia 'Paddy' Ridgeway)との間には一人娘ジェーン・ミリガン(英: Jane Milligan1966年 - )が生まれ、彼女は後に女優となった。ミリガンとパトリシアは1962年6月に結婚し、ベストマンはジョージ・マーティンが務めた[注 26]。この結婚は、パトリシアが1978年乳癌で亡くなったことで終わりを告げた[50]

1975年には、マーガレット・モーガン(英: Margaret Maughan)との情事の末、息子ジェームズ(英: James1976年6月生まれ)を儲けている。もう1人の娘ロマニー(英: Romany)も同じ時期に生まれたのではないかとされているが、母親はカナダ人ジャーナリストロバータ・ワット(英: Roberta Watt)だった。

彼の最後の妻はシェラー・シンクレア(英: Shelagh Sinclair)で、1983年に結婚した後、ミリガンが2002年2月27日に亡くなるまで連れ添った。彼の子供4人は2005年に放送された番組 "I Told You I Was Ill: The Life and Legacy of Spike Milligan" でドキュメンタリー製作に協力しており、この作品のホームページも開設されている[51][注 27]

シェラーと結婚した後、彼は子供たちに財産の全てを与えるとしていた遺言書を無効にし、代わりにシェラーへ全ての財産を遺すことにした。子供たちは考えを改めさせようとしたが、徒労に終わった。2008年10月には、ミリガンの個人資産一揃いがシェラーによって競売にかけられ、彼女はより小さい家へと引っ越した。競売に掛けられた品の中には、本や記念品など膨大な遺産のほか、解体から救い出され、イースト・サセックスライで近所に住んでいたポール・マッカートニーが毎日弾いていたとされるグランド・ピアノも含まれていた[52]。この競売について子供たちは何の相談も受けておらず、この一件は子供たちとシェラーとの確執を一層深いものにし、両者は口も聞かない仲になったという[53]。シェラーは2011年6月に亡くなった[54]

健康

[編集]

彼は人生のほとんどをひどい双極性障害に苦しめられて過ごし、少なくとも10回の深刻な神経衰弱に陥っている(うち数回は1年以上も継続した)。彼は自分の状態と、それが人生に与えた影響について率直に語っている。

「とても弱ってしまって、入院させられるのかと尋ねたり、昏睡状態(睡眠)に陥ってしまったことがあった。起きたまま立っていることができない。苦痛は相当なもので・・・何かが起きているんだけど、この命のきらめきが輝くのを止めてしまうんだ — 自分は夕飯の食卓へ向かって何も言わない、ただドードーのように座っている。いつも自分は注意の真ん中にいて、会話を続けようと努力している — そのため憂鬱にさせられる。別の人間がやっているようで、とても変だ。私が言う1番大事なことは「こんばんは」で、それから私は黙りこくる」
"I have got so low that I have asked to be hospitalised and for deep narcosis (sleep). I cannot stand being awake. The pain is too much ... Something has happened to me, this vital spark has stopped burning – I go to a dinner table now and I don't say a word, just sit there like a dodo. Normally I am the centre of attention, keep the conversation going – so that is depressing in itself. It's like another person taking over, very strange. The most important thing I say is 'good evening' and then I go quiet." — Spike Milligan、[55]

国籍

[編集]

ミリガンは英国本土ではなく、イギリス領インド帝国で出生したため、彼の英国国籍については疑義が残されたままだった。ミリガンは6年軍務に当たった後、英国のパスポートを取得しようと考えた。しかしパスポート申請は、彼が英国への忠誠宣誓 (Oath of Allegiance (United Kingdom)を拒否したとの理由で却下された。ミリガンがアイルランド系のルーツを持っていたことが助けになり、無国籍状態から抜け出すことになる。彼はアイルランド国籍を取得し、死ぬまでそのまま国籍を保持した[56]

チャールズ3世とのユーモア

[編集]

英国のチャールズ3世はミリガンのファンで、ミリガンが1994年ブリティッシュ・コメディ・アワード英語版"The Lifetime Achievement Award" を獲得した際には、テレビの生放送を通じてお祝いのメッセージを読み上げた。ミリガンは、チャールズを a "little grovelling bastard" と呼んでこのメッセージを途中で中断した[3][注 28]。彼は後にチャールズへこうファックスを送っている。「ナイトの位に関しては問題外ってことになりますよね?」(: "I suppose a knighthood is out of the question?")。実際、ミリガンが「サー」をつけて呼ばれる完全なナイトとなるのは不可能だったが、これは王子を侮辱したからではなく、ミリガンが正式にはイギリス国籍を保有していなかったからである[58]。実際のところミリガンとチャールズとはとても仲の良い友人で、ミリガンは1992年大英帝国勲章のコマンダー(CBE、第3位)を授与されており、これはミリガンがアイルランド国籍保有者であるため名誉上のものだった[55]。また2000年には名誉上のナイト・コマンダー(KBE、第2位) を授与された[59]

[編集]
2008年に撮影された、聖トーマス教会(ウィンチェルシー)にあるミリガンの墓石。現在では最後の妻シェラーの生没年と墓碑銘が加えられている。エピタフにはアイルランド語で "Dúirt mé leat go raibh mé breoite" と刻まれている

晩年になっても、ミリガンのブラックユーモアは健在だった。グーンズのメンバー、ハリー・シーカム英語版が癌で死去した後、彼は「彼が自分より先に死んでくれて良かったよ、あいつに自分の葬式で歌ってはほしくなかったからね」(: "I'm glad he died before me, because I didn't want him to sing at my funeral.")との言葉を残している。ミリガンの追悼会ではシーカムの歌の録音が流された。1990年には自分で自分の故人略伝を書き、その中では何度も「[彼は]グーン・ショーを書いて死んだ」(英: he "wrote the Goon Show and died")と繰り返している[60]

ミリガンは2002年2月27日に、イースト・サセックスライの自宅で亡くなった。死因は腎不全[54]、83歳没。3月8日に行われた葬儀で、亡骸が収められた棺はイースト・サセックスのウィンチェルシーにある聖トーマス教会まで運ばれ、アイルランド旗の上へ置かれた[61]。彼は以前、自分が死んだ際には墓石に "I told you I was ill."(意味:病気だって言っただろ)と刻んでほしいと冗談を言っていた[注 29]。ミリガンは聖トーマス教会の附属墓地に埋葬されたが、チチェスター教区はミリガンの望んだエピタフを拒否した[62]。妥協案として、エピタフにはアイルランド語訳の "Dúirt mé leat go raibh mé breoite" が選ばれ、更に英語で "Love, light, peace"(意味:愛、光、平和)と書き加えられた。また、同じくアイルランド語で、「シェラーに大きな愛を」との意味になる "Grá mór ort Shelagh" とのエピタフも書き込まれた。

2011年に出版された本 "Rye and Battle Observer" に収められた手紙では、ミリガンの墓石はウィンチェルシーの聖トーマス教会から移動され、妻シェラーの墓の脇に移されたと書かれている[63]

功績を讃えて

[編集]
ホールデン・ロードにあるブルー・プラーク
ミリガンが1974年まで住んでいた、ハドリー、モンケンハースト(英: Monkenhurst, Hadley

1960年代から、ミリガンはロバート・グレーヴスと日常的に文通を行っていた。ミリガンからグレーヴスに宛てた手紙には、いつも西洋古典学に関する質問が書かれていた。これらの手紙はグレーヴスの遺産となり、オックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジに寄贈されている。

ショーン・ヒューズ英語版主演で映画化されたミリガンの小説 "Puckoon" (enは、ミリガンの死後公開された。この作品には娘で女優のジェーン・ミリガンも出演している。

ミリガンはバーネット区フィンチリーウッドサイド・パークのホールデン・ロード(: The Holden Road)に数年間住んでいた。また、フィンチリー・ソサエティの創設者・強力な支援者でもあった。ウッドサイド・パークにあった元の家は取り壊されてしまったが、このフラットがあった場所にブルー・プラークが設置されている。

バーバラ・ウォレン(英: Barbara Warren)に率いられたフィンチリー・ソサエティは、10年以上「スパイク・ミリガン像基金」[注 30]と名付けた基金の資金集めをしていた。この基金は、地元の彫刻家ジョン・サマーヴィル[注 31]の手でミリガンのブロンズ像を造り、イースト・エンド・ロードにあるアベニュー・ハウス英語版の土地に像を立てることを目標にしていた。ミリガンがベンチに腰掛ける像は2014年9月4日に、地元の名士や芸能人が出席したセレモニーでお披露目された。このセレモニーには、ロイ・ハッド英語版マイケル・パーキンソン英語版モーリーン・リップマン英語版テリー・ギリアムキャシー・レット英語版デニス・ノーデン英語版リンジー・ディ・ポールなどが出席した。

彼が育ったルイシャム区でも、像を立てようというキャンペーンが行われた。1930年代にインドから英国にやってきたミリガンは、ブロックリー、50リゼルディン・ロード(英: 50 Riseldine Road, Brockley)に住み、ブラウンヒル男子学校(英: Brownhill Boys' School)に通ったためである。この学校は後にキャットフォード男子学校(英: Catford Boys' School)と名前を変え、1994年に取り壊された。

ニュージーランドウェリントンにあるウェイズタウン図書館英語版には、プラークとベンチがあり、一角に「スパイク・ミリガン・コーナー」(英: "Spike Milligan Corner")と名前が付けられている。

2005年に、コメディアンやその関係者によって行われた「コメディアンの中のコメディアン」を決める投票では、ミリガンはトップ50に選ばれた。また1999年8月にBBCが行った投票では、ミリガンは「この1,000年で1番面白い人物」(英: The "funniest person of the last 1,000 years")に選ばれている。

ミリガンの人生は2度映画化されている。1度目は彼の戦争回想記 "Adolf Hitler: My Part in His Downfall" を映画化したもので、ミリガン役はジム・デイル英語版、ミリガン自身は彼の父親を演じた[注 2]。また2004年の映画『ライフ・イズ・コメディ! ピーター・セラーズの愛し方』では、エドワード・チューダー=ポール英語版がミリガンを演じた。2008年の舞台作品 "Surviving Spike" では、マイケル・バリモア英語版がミリガン役を務めた。

2006年6月9日には、リチャード・ワイズマンが、ミリガンは世界で一番笑えるジョークの作者だと認めたことが報じられた。この『世界で1番笑えるジョーク』とは、ラフラボ・プロジェクト(英: The Laughlab project)が選定したものである。ワイズマンは、ジョークの原型は『ザ・グーン・ショー』期にあると考えられ、このジョークには良いギャグになるための3要素である、「不安、優越感、驚きの要素」が全て含まれていると語った[65]

エディー・イザードは、ミリガンを「型にはまらないコメディの育成者」(英: "The Godfather of Alternative Comedy")と表現した。彼の解放された精神からアイデアは現れ、もはや境界線なんて無い。彼は、『型にはまらない』とされている、新時代のコメディアンに影響を与えた」[注 32]と語っている。

モンティ・パイソンのメンバーも大いに彼を評価している。あるインタビューでジョン・クリーズは、「ミリガンは僕ら全員にとって偉大なる神だ」(英: "Milligan is the Great God to all of us")と発言し、この言葉は当時広く引用された[67]。パイソンズによる1979年の映画『ライフ・オブ・ブライアン』には、丁度チュニジアに休暇で訪れていたミリガンがカメオ出演をしている[68]。この時ミリガンは自分が大戦期に訪れたチュニジアを再訪していた[68]。またグレアム・チャップマンは『チーチ&チョン/イエローパイレーツ英語版』でミリガンに小さな役を与えている。

ミリガンの両親は退職後、ミリガンの弟デズモンドを連れてオーストラリアへ移住した。ミリガンの母は、シドニーの北側、ニューサウスウェールズ州セントラル・コースト英語版にある浜辺の村、ウォイウォイ英語版で余生を過ごした。このためミリガンはオーストラリアを度々訪れるようになり、ボビー・リム英語版の "The Idiot Weekly" (enなど、オーストラリアのラジオ・テレビ番組へ多数出演することになった。またウォイウォイにある母の家を訪問している間に、映画化もされた "Puckoon" などいくつかの本を書き上げている。1960年代にウォイウォイを訪れたミリガンは、この町を「共同墓地の中で世界一大きい」町(英: The town "the largest above ground cemetery in the world")と表現している[69]

ミリガンの母は、息子が英国市民権を持てなかったことへの抗議も込め、1985年にオーストラリア国籍を取得し、これによりミリガンがオーストラリア市民権を獲得したと考えられる、と報道された[70]。ウォイウォイからゴスフォードへ向かう吊り橋には、ミリガンにあやかって「スパイク・ミリガン橋」(英: The Spike Milligan Bridge)との名前が付けられたほか[71]、ウォイウォイ公共図書館(英: The Woy Woy Public Library)の会議室にも彼の名前が付けられている[72]

出演作品

[編集]

ラジオ・コメディ・ショー

[編集]
  • ザ・グーン・ショーThe Goon Show(1951年 - 1960年)
  • The Idiot Weekly (en(1958年 - 1962年)
  • The Omar Khayyam Show (en(1963年 - 1964年)
  • Milligna (or Your Favourite Spike) (en(1972年)- タイトルは "The Last Goon Show of All" (enでのミリガンの自己紹介、"Spike Milligna, the well-known typing error"(意味:「スパイク・ミリグナ[注 33]、よくあるタイプミスです」)から取られたもの。
  • The Milligan Papers (en(1987年)
  • Flywheel, Shyster, and Flywheel (en(1990年)

その他のラジオ番組

[編集]

ミリガンは幼少期インドで過ごした経験を、1970年代のBBCのオーディオ歴史シリーズ "Plain Tales From The Raj" で語っている。このシリーズは賞賛を受け、1975年アンドレ・ドイチュ英語版作、チャールズ・アレン英語版編集で出版されている。

テレビ・コメディ・ショー

[編集]
  • The Idiot Weekly, Price 2d (en(1956年)
  • A Show Called Fred (en(1956年)
  • Son of Fred (en(1956年)
  • The World of Beachcomber (en(1968年 - 1969年)
  • Q...』シリーズ:Q5, Q6, Q7, Q8, Q9, There's a Lot of It About(1969年 - 1982年)
  • Curry & Chips (en(1969年)
  • Oh In Colour (en(1970年)

その他テレビ出演

[編集]
  • Six-Five Special (en - 初放送は1957年8月31日。ミリガンは発明家のミスター・ピムを演じたほか、スケッチでは肉屋を演じた。
  • The Marty Feldman Comedy Machine (en - マーティ・フェルドマンによる番組で、ミリガンは共筆を行ったほか、いくつかのスケッチでは俳優も務めた。
  • This Is Your Life (en - テレビドキュメンタリー番組。ミリガンはグーンズのメンバーであるピーター・セラーズマイケル・ベンティン英語版らと1973年4月11日の回に出演。もう1人のグーンズハリー・シーカム英語版と、ミリガンの親友ロバート・グレーヴスはテレビ録画を通じてコメントを寄せた。
  • The Melting Pot - 1975年に、ミリガンとニール・シャンド英語版の共筆で作られたBBCのシットコム。ミリガンは共同主演も務めた。キャラクターは不法移民やアイルランド人地主、中国人コックニースコットランド-アラブ人など、人種のステレオタイプのようなものだった。ミリガン自身は「パキスタン人の不法移民」ヴァン・ゴッホ氏(英: Mr Van Gogh)に扮した[73]。パイロット版の試写後、シリーズは放送には侮辱的すぎると判断された。5話分が放送されずに残っている。いくつかのキャラクター・シチュエーションは、ミリガンの小説 "The Looney" で再利用されている。
  • Tiswas (en – 1981年版
  • Kenny Everett's Christmas Show(1985年)- ピーター・クック英語版とゲスト出演。
  • In Sickness and in Health (en(1987年)- 愚痴ばかりのよそ者役
  • The Ratties (en(1987年)- ナレーター。マイク・ウォリスと、ミリガンの娘ローラ・ミリガンによって書かれた子供向けアニメシリーズ。
  • The Phantom Raspberry Blower of Old London Town (en - 1970年代のシリーズ "The Two Ronnies" (enの作品として放送。
  • マペット・ショー』 - 1979年1月18日のスペシャル・ゲスト
  • Takin' Over the Asylum (en(1994年)- 第3話にゲスト出演。BBCスコットランド制作のドラマシリーズで、BAFTA賞などを獲得した。
  • This Is Your Life - 1995年2月に2度目の出演。マイケル・アスペル英語版に不意打ち出演させられた。
  • Wolves, Witches and Giants (en(1995年)- ナレーションを担当。同名の本を元にした子供向けテレビアニメシリーズ。作品は『赤ずきん』や『シンデレラ』などの昔話を、少しひねりを加えて再構成したものである。番組は1995年のロイヤル・テレビジョン・ソサエティ賞最優秀子供向けエンターテインメント賞[注 34]を受賞したほか、1997年には同じ賞に再ノミネートされた。
  • Room 101 (en(1999年)- 第4シリーズ第3話にゲスト出演

劇場

[編集]

映画

[編集]

[編集]

グーン・ショー

[編集]
  • The Goon Show Scripts (1972年)
  • More Goon Show Scripts (1973年)
  • The Book of the Goons (1974年)
  • The Goon Cartoons (1982年、挿絵はピーター・クラーク[注 35])
  • More Goon Cartoons (1983年、挿絵はピーター・クラーク)
  • The Lost Goon Shows (1987年)

小説

[編集]
  • Puckoon (en (1963年)
  • The Looney: An Irish Fantasy (en (1987年)
  • The Murphy (2000年)

ウィリアム・マクゴナガル

[編集]

全てジャック・ホッブス(: Jack Hobbs)と共作。ウィリアム・マクゴナガルスコットランド出身の実在の詩人である。

  • Great McGonagall Scrapbook (1975年)
  • William McGonagall: The Truth at Last (1976年)
  • William McGonagall Meets George Gershwin: A Scottish Fantasy (1988年)
  • William McGonagall: Freefall (1992年)

"According to" シリーズ

[編集]

タイトルには全て "According to Spike Milligan" との但し書きが付く。これは「スパイク・ミリガンによる」との意味で翻案を示している。これらは "According to" シリーズとしてまとめられている (According to Spike Milligan

  • The Bible—the Old Testament According to Spike Milligan(1993年、意味:「スパイク・ミリガンによる聖書」)
  • Lady Chatterley's Lover According to Spike Milligan(1994年、意味:「スパイク・ミリガンによるチャタレイ夫人の恋人」)
  • Wuthering Heights According to Spike Milligan(1994年、意味:「スパイク・ミリガンによる嵐が丘」)
  • D. H. Lawrence's John Thomas and Lady Jane: According to Spike Milligan—Part II of "Lady Chatterley's Lover"(1995年、"John Thomas and Lady Jane" は『チャタレイ夫人の恋人』を書いたD・H・ロレンスの小説)
  • Black Beauty According to Spike Milligan(1996年、意味:「スパイク・ミリガンによる黒馬物語」)
  • Frankenstein According to Spike Milligan(1997年、意味:「スパイク・ミリガンによるフランケンシュタイン」)
  • Robin Hood According to Spike Milligan(1998年、意味:「スパイク・ミリガンによるロビン・フッド」)
  • The Hound of the Baskervilles According to Spike Milligan(1998年、意味:「スパイク・ミリガンによるバスカヴィル家の犬」)
  • Treasure Island According to Spike Milligan(2000年、意味:「スパイク・ミリガンによる宝島」)
  • Classic Adventures: According to Spike Milligan (2002)

脚本

[編集]
  • The Bed-Sitting Room (en(1970年、ジョン・アントロバス英語版と共筆)
  • The Q Annual (1979年)
  • Get in the Q Annual (1980年)
  • There's a Lot of it About! (1983年)
  • The Melting Pot (1983年)

子ども向けの本

[編集]
  • Bald Twit Lion (1968年)
  • Badjelly the Witch (en (1973年)
  • Dip the Puppy (1974年)
  • Sir Nobonk and the Terrible Dreadful Awful Naughty Nasty Dragon (en (1982年)
  • A Children's Treasury of Milligan: Classic Stories and Poems (1999年)
  • The Magical World of Milligan (2009年)
  • Spike's Bike Book for Parents of Little Kids(1985年、Traffic Authority NSWから出版)
  • Spike Milligan SPIKE'S BIKE BOOK FOR MEDIUM KIDS(1985年、Traffic Authority NSWから出版)
  • Spike's Bike Book For Big Kids(1985年、Traffic Authority NSWから出版)

回想録

[編集]
戦争回想録
戦時期の経験(と復員後の平穏)を回想録にしたもので、全7巻。ミリガン自身が独特の語り口で吹き込んだオーディオ・ブックバージョンもある。
  1. Adolf Hitler: My Part in His Downfall (en(1971年)
  2. "Rommel?" "Gunner Who?" (en(1974年)
  3. Monty: His Part in My Victory (en(1976年)- ここまでの3冊は3部作として発行されている。
  4. Mussolini: His Part in My Downfall (en(1978年)- この作品は「ますます名前を間違った」3部作(英: his "increasingly misnamed" trilogy)の4作目として発表された。
  5. Where Have All the Bullets Gone?(1985年)
  6. Goodbye Soldier (en(1986年)
  7. Peace Work(1992年)
その他の作品
  • It Ends with Magic: A Milligan family History (1990年)
  • Spike Milligan: The Family Album: An Illustrated Autobiography (1999年)
  • Milligan's Meaning of Life: An Autobiography of Sorts (2011年)

ノンフィクション

[編集]
  • The Spike Milligan Letters (1977年)
  • More Spike Milligan Letters (1984年)
  • Dear Robert, Dear Spike: The Graves – Milligan Correspondence (1991年、ロバート・グレーヴスと共筆)
  • Depression and How to Survive It(1993年、アンソニー・クレア(英: Anthony Clare)と共筆)

文学集

[編集]
  • A Dustbin of Milligan (1961年)
  • The Little Pot Boiler: A Book Based Freely On His Seasonal Overdraft (1963年)
  • Book of Bits or a Bit of a Book (1965年)
  • Bedside Milligan (1969年)
  • Indefinite Articles and Scunthorpe (1981年)
  • A Potboiling Dustbin Full of Bits (1984年)
  • Scunthorpe Revisited: With Added Milligan Articles and Instant Relatives (1989年)
  • A Mad Medley of Milligan (1999年)
  • The Essential Spike Milligan (2002年)
  • The Compulsive Spike Milligan (2004年)
  • Box 18: The Unpublished Spike Milligan (2006年)

コレクション(詩集など)

[編集]
  • Silly Verse for Kids (1959年)
  • A Book of Milliganimals (en (1968年)
  • Values(1969年、詩集)
  • Milligan's Ark (1971年)
  • Small Dreams of a Scorpion(1972年、詩集)
  • Transports of Delight (1974年)
  • Milligan Book of Records (1975年)
  • Poems (1977年)
  • Goblins(1978年、詩集)
  • Open Heart University(1979年、詩集)
  • Twelve Poems That Made December Colder (1979年)
  • Unspun Socks from a Chicken's Laundry(1981年、詩集)
  • Chill Air(1981年、詩集)
  • One Hundred and One Best and Only Limericks of Spike Milligan (1982年)
  • Silly Verse for Kids and Animals (1984年)
  • Floored Masterpieces with Worse Verse(1985年、トレーシー・ボイド(英: Tracey Boyd)と共筆)
  • Further Transports of Delight (1985年)
  • The Mirror Running(1987年、詩集)
  • Startling Verse for All the Family (1987年)
  • That's Amazing (1988年)
  • Condensed Animals (1991年)
  • Hidden Words: Collected Poems (1993年)
  • Fleas, Knees and Hidden Elephants(1994年、詩集)

レコーディング

[編集]

ザ・グーン・ショー』関係の録音は未記載。

  • Milligan Preserved (1961年)[84]
  • Bridge on the River Wye (en (1962年)
  • Best of Milligan's Wake (1964年)
  • How to Win an Election (1964年)
  • Muses With Spike Milligan (1965年)
  • The World of Beachcomber (1968年)
  • A Record Load of Rubbish (1971年)
  • Badjelly The Witch (A Musical Tale) and Other Goodies (1974年)
  • He's Innocent of Watergate (1974年)
  • Spike Milligan with Jeremy Taylor: An Adult Entertainment Live at Cambridge University (1974年)
  • Spike Milligan and Ed Welch Sing Songs From Q8 (1978年)
  • Puckoon (1980年)
  • Adolf Hitler – My Part in His Downfall (1981年)
  • Spike Milligan: Wolves, Witches & Giants (1982年)
  • Unspun Socks From a Chicken's Laundry (1982年)
  • Where Have All the Bullets Gone? (1989年)
  • Peace Work (1995年)
  • Rommel? Gunner Who? (1997年)
  • Mussolini: His Part in My Downfall (1997年)
  • Spike Milligan: The Parkinson Interviews (2002年)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ : The Goons. 『ザ・グーン・ショー』の制作チームの意味。
  2. ^ a b 日本では劇場公開は無かったが、後に『われヒトラーとかく戦えり英語版』との邦題でテレビ放映されている[64]
  3. ^ 意味:「こどものためのばかげた詩」
  4. ^ 意味:「青少年共産主義者同盟」
  5. ^ : a BL 9.2-inch howitzer
  6. ^ 愛称は "Edge-ying-Tong"(「エッジ・イン・トン」)。これはミリガンの有名な曲の1つ、"Ying Tong Song" (enから取られたもの。
  7. ^ 戦闘ストレス反応の一種。
  8. ^ 英: Major Evan "Jumbo" Jenkins
  9. ^ 管理・補給の任務に当たる部隊[12]
  10. ^ 英: composed "of bomb-happy squaddies (en"
  11. ^ 第5シリーズの放送時には第2子ショーン(英: Seán)が生まれている。
  12. ^ タイトルは「死が2人を分かつまで」という意味の英語の成句で、永遠の愛を誓う文言としても使われる。
  13. ^ 1エピソードで59回も "bloody" との言葉が使われていたと抗議した視聴者がいたと伝わる。なおこの "bloody" という単語は、英国で使われる俗語で、「忌々しい」との意味になる。いわゆるFワードに相当する言葉で、本来は口に出すのを憚るべき単語である。
  14. ^ モンティ・パイソンのメンバー、マイケル・ペイリンは、次のように語ってこのシリーズからの影響を認めている。
    「ひとりはイアン・マクノートン、スパイク・ミリガンの Q5 シリーズの監督だった。自分たちはみんなあれがテレビでやった最高のコメディ・ショーで、確実にはるか遠く最先端を走っているものだと思っていた・・・」
    "One was Ian MacNaughton, director of the Spike Milligan Q5 series which we all thought was one of the best comedy shows on TV and certainly the most far ahead..." — マイケル・ペイリン、The Pythons Autobiography by The Pythons, (p. 218)[27]
  15. ^ "Q" はタイトルに付されていないが、Qシリーズの作品である[28]
  16. ^ リア(英: Edward Lear)は画家としても活躍したナンセンス詩人。彼の詩は『不思議の国のアリス』などで知られるルイス・キャロルにも大きな影響を与えた。
  17. ^ 原文は以下の通り。"Nobody seemed at all comfortable in their roles and the audience began to hoot with laughter when Milligan's slipper inadvertently went spinning across the stage into the stalls. That was the end of Spike's playing straight. The audience demanded a clown, he became a clown. When he forgot his words, or disapproved of them, he simply made up what he felt to be more appropriate ones. That night there were no riotous first night celebrations and most of the cast seemed to go home stunned. The following night Milligan began to ad lib in earnest. The text of the show began to change drastically. The cast were bedevilled and shaken but they went along with him ... Incredibly, the show began to resolve itself. The context changed completely. It was turned upside down and inside out. Cues and lines became irrelevant as Milligan verbally rewrote the play each night. By the end of the week, Oblomov had changed beyond recognition. Andre Morell came again ... and afterwards said 'the man is a genius. He must be a genius—it's the only word for him. He's impossible—but he's a genius!'. After Oblomov had run for a record-breaking five weeks at the Lyric Theatre, Hammersmith, it was retitled Son of Oblomov and moved to the Comedy Theatre in the West End."
  18. ^ 英: Rod McNeil
  19. ^ "Vivat""Viva" と同じで、「〜万歳!」との意味。つまりこのタイトルは、「ミリガン万歳!」とラテン語で叫ぶもの。
  20. ^ 原文は以下の通り:"I've seen very few moments of genius in my life but I witnessed one with Spike after the first show. He had brought around a silent cartoon"
  21. ^ 原文は以下の通り:"She said she did. 'Good, this needs a commentary.' It was a ten-minute cartoon and Spike could have seen it only once, if that. He ad-libbed the commentary for it and it was perfect. I was open-mouthed at the raw comedy creation in front of me."
  22. ^ "The Raj" とは英国によるインド統治を指す言葉。
  23. ^ ドールはインドで使われる大きな木の太鼓。リンク先のファイルで実際の音を聞くことができる。→File:DHOL BEAT.wav / またサーマイ ("surmai") もやはり太鼓の一種。
  24. ^ 原文:"Irregular Punjabi Regiment." 当時インドには "Punjab Irregular Force" (enと呼ばれる連隊が駐留していた。
  25. ^ 原文は "shabash!" インドの方言で「よくやった!」「うまい!」との意味である[48]
  26. ^ ベストマンは結婚式の手配など、結婚に関わる一切の取り仕切りを任される人物。日本の仲人にも似ているが、ベストマンは新郎側の第一の友人が務めることが多いという点が異なっている。
  27. ^ タイトルは直訳すると「君に自分が病気だと言うよ:スパイク・ミリガンの人生と功績」との意味。
  28. ^ "grovel" は「ひれ伏す、屈服する」などの意味がある動詞。"bastard" は「私生児」との意味がある侮蔑語だが、そこから転じて「偽物」や「くそったれ」の意味にも使われる。いずれにしろあまり行儀の良い言葉ではないが、親しみを示すこともある[57]
  29. ^ なおこの文章は2005年に作られたドキュメンタリーのタイトルにもなった。→#家族
  30. ^ 英: The Spike Milligan Statue Fund
  31. ^ 英: John Somerville
  32. ^ 原文:"From his unchained mind came forth ideas that just had no boundaries. And he influenced a new generation of comedians who came to be known as 'alternative'."[66]
  33. ^ ミリガンのスペルは "Milligan" で、この自己紹介文で言われているのは "Milligna" である。よく見ると語尾の2文字がひっくり返っている。
  34. ^ 英: Royal Television Society award for Best Children's Entertainment
  35. ^ 英: Peter Clarke

出典

[編集]
  1. ^ a b “Spike Milligan (obituary)”. Scotsman.com (Edinburgh). (28 February 2002). オリジナルの2012年10月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121021200953/http://www.scotsman.com/news/obituaries/spike-milligan-1-604885 25 March 2013閲覧。 
  2. ^ Spike becomes an Irish Citizen (Part One)”. The Life and Legacy of Spike Milligan (website). Published by Hatchling Production Pty Ltd (Australia). 23 November 2015閲覧。
  3. ^ a b “Spike Milligan dies at 83”. The Guardian. (27 February 2002). http://www.theguardian.com/media/2002/feb/27/broadcasting.books 23 November 2015閲覧。 
  4. ^ Spike Milligan Biography”. Fox Classics Television (Australia). FOXTEL Management Pty Limited. 23 November 2015閲覧。
  5. ^ Spike becomes an Irish Citizen (Part Two)”. The Life and Legacy of Spike Milligan (website). Published by Hatchling Production Pty Ltd (Australia). 23 November 2015閲覧。
  6. ^ Carpenter, Humphrey (2004). Spike Milligan The Biography. London: Hodder and Staughton. p. 8. ISBN 978-0-340-82612-6 
  7. ^ Pauline Scudamore, Spike Milligan: a Biography (Granada, 1985), p. 27
  8. ^ “Spike Milligan”. The Scotsman. (28 February 2002). http://www.scotsman.com/news/obituaries/spike-milligan-1-604885#axzz3qkb3Oc4y 6 November 2015閲覧。 
  9. ^ The Independent 30 December 1993.
  10. ^ Scudamore (1985, pp. 52–53)
  11. ^ Milligan, Spike (1971). Adolf Hitler: My Part in His Downfall. Michael Joseph. pp. 36, 81 
  12. ^ 小西友七; 南出康世 (25 April 2001). "rear echelon". ジーニアス英和大辞典. ジーニアス. 東京都文京区: 大修館書店 (published 2011). ISBN 978-4469041316. OCLC 47909428. NCID BA51576491. ASIN 4469041319. 全国書誌番号:20398458
  13. ^ McCann (2006, p. 186)
  14. ^ Carpenter (2003, p. 112)
  15. ^ Carpenter (2003, p. 119)
  16. ^ Carpenter (2003, p. 182)
  17. ^ Carpenter (2003, p. 190)
  18. ^ Ventham, Maxine (2002). “Jeremy Robson”. Spike Milligan: His Part in Our Lives. London: Robson. pp. 46–47. ISBN 1-86105-530-7 
  19. ^ a b Carpenter (2003, p. 120)
  20. ^ Carpenter (2003, pp. 136–139)
  21. ^ Milligan, Spike (1973). More Goon Show Scripts. London: Sphere Books. ISBN 0-7221-6077-1 
  22. ^ Beryl Vertue CBE”. ハーツウッド・フィルムズ英語版. 2016年7月29日閲覧。
  23. ^ A Short History of The Telegoons... - History”. 2006年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年7月29日閲覧。
  24. ^ Ali Jaafar. “Curry and Chips (1969)”. BFI screen online. 英国映画協会. 2016年7月29日閲覧。
  25. ^ The Melting Pot - IMDb(英語)
  26. ^ The Other Spike - IMDb(英語)
  27. ^ Chapman, G., Cleese, J., Gilliam, T., Idle, E., Jones, T., & Palin, M. (2004). Edited by Bob McCabe. The Pythons Autobiography by The Pythons. Orion英語版 ISBN 0-7528-6425-4 Chapman's posthumous input via collateral sources
  28. ^ There's a Lot of It About - IMDb(英語)
  29. ^ Wolves, Witches And Giants”. ITV studios. ITV. 2016年7月29日閲覧。
  30. ^ Fry, Stephen (27 February 2002). “Fry's Milligan memories”. BBC News. http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/1844487.stm 12 June 2008閲覧. "I think some of his books, Puckoon, particularly and also his wonderful autobiographies, Rommel, My Part in his Downfall and his army reminiscences in the desert and some of his children's poetry and nonsense verse is absolutely immortal - greatly in the tradition of Lear." 
  31. ^ 実際の詩は以下の記事で読むことができる。:“Top poetry is complete nonsense”. BBC News. (10 October 1998). http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/190291.stm 12 June 2008閲覧。 
  32. ^ “Laureate attacks poetry teaching”. BBC. (7 December 2007). http://news.bbc.co.uk/1/hi/education/7131133.stm 7 December 2007閲覧。 
  33. ^ Milligan, Spike (1979). Open Heart University: poems. illustrations by Laura Milligan and Jack Hobbs and Spike Milligan. Walton-on-Thames: M. and J. Hobbs. ISBN 0718117573 
  34. ^ Scudamore & 1985), p. 198)
  35. ^ Barry Humphries, in Ventham (2002, pp. 92–97)
  36. ^ Scudamore (1985, pp. 200, 203–204, 242–243)
  37. ^ McCann (2006, pp. 157–159)
  38. ^ Scudamore (1985, pp. 214–215)
  39. ^ Scudamore (1985, pp. 215–216)
  40. ^ Paul Sutton (2012). Becoming Ken Russell. The authorised biography of Ken Russell. 1. ISBN 978-0-9572462-3-2. OCLC 840887170 
  41. ^ Paul Sutton (2014). Six English Filmmakers. ISBN 978-0-9572462-5-6 
  42. ^ Richard Lester, in Ventham (2002, pp. 73–74)
  43. ^ Scudamore, Pauline (1985). Spike Milligan: A Biography. London: Granada. ISBN 0-246-12275-7  pp.109–110, 258. (Published in 2003 as paperback under Spike, or Spike Milligan, depending on listing)
  44. ^ Antrobus, John (2002). Surviving Spike Milligan: A Voyage Through the Mind & Mirth of the Master Goon. London: Robson Books. ISBN 0-246-12275-7  pp. 17, 24.
  45. ^ a b Maurice A Smith (ed) (22 April 1967). “Camera spread: Taking a rise out of the serious supermen in TV commercials, Spike Milligan in Bat-Goons outfit leads BP's sales campaign ...”. Autocar 126 (3714): 22. 
  46. ^ Martin Chilton. “Spike Milligan: Man of Letters, review”. The Telegraph. 10 October 2015閲覧。
  47. ^ A Harlot's Progress”. Channel 4. 23 May 2014閲覧。
  48. ^ 小西友七; 南出康世 (25 April 2001). "shabash". ジーニアス英和大辞典. ジーニアス. 東京都文京区: 大修館書店 (published 2011). ISBN 978-4469041316. OCLC 47909428. NCID BA51576491. ASIN 4469041319. 全国書誌番号:20398458
  49. ^ Allen, Charles, ed. Plain Tales From the Raj (1978 ed.). Futura. pp. 141-2. ISBN 0860074552 
  50. ^ Alun Parker. “Profile: Spike Milligan – My dad the mad hatter; SPIKE MILLIGAN'S DAUGHTER JANE ON LIFE WITH THE GOON”. Free Online Library. 23 May 2014閲覧。
  51. ^ Spike Milligan: I told you i was ill”. Spikemilliganlegacy.com. 23 May 2014閲覧。
  52. ^ Jerome Taylor (18 November 2008). “Auction reveals the secret life of Spike Milligan”. The Independent (London). http://www.independent.co.uk/news/uk/this-britain/auction-reveals-the-secret-life-of-spike-milligan-1023107.html 18 November 2008閲覧。 
  53. ^ Weathers, Helen (8 November 2008). “A poisoned legacy: Why Spike Milligan's family will be deprived of their birthright”. Daily Mail. http://www.dailymail.co.uk/femail/article-1083967/A-poisoned-legacy-Why-Spike-Milligans-family-deprived-birthright.html 2016年7月31日閲覧。 
  54. ^ a b Eden, Richard (19 June 2011). “Comedian Spike Milligan's children await details of legacy after death of his widow Shelagh”. The Telegraph (London: Telegraph Media Group). http://www.telegraph.co.uk/news/celebritynews/8584266/Comedian-Spike-Milligans-children-await-details-of-legacy-after-death-of-his-widow-Shelagh.html 19 November 2011閲覧。 
  55. ^ a b Milligan, Spike; Clare, Anthony (1993). Depression and How to Survive It (first ed.). Ebury. ISBN 009177019X. OCLC 27379398 
  56. ^ Louvish, Simon (20 September 2003). “Nailing Spike”. The Guardian (London). http://www.guardian.co.uk/books/2003/sep/20/featuresreviews.guardianreview10 29 April 2013閲覧。 
  57. ^ 小西友七; 南出康世 (25 April 2001). "bastard". ジーニアス英和大辞典. ジーニアス. 東京都文京区: 大修館書店 (published 2011). ISBN 978-4469041316. OCLC 47909428. NCID BA51576491. ASIN 4469041319. 全国書誌番号:20398458
  58. ^ Caroline Davies (2001年3月2日). “Prince sees funny side of Spike's knighthood”. The Telegraph. 2017年12月28日閲覧。
  59. ^ Honorary knighthood for Spike”. BBC (2000年12月30日). 2017年12月18日閲覧。
  60. ^ Milligan, Spike (27 February 2002). “My Obituary, by Spike Milligan”. London Evening Standard. 30 October 2013閲覧。
  61. ^ Sapsted, David (9 March 2002). “Piper's farewell for Spike Milligan”. The Daily Telegraph (London). http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/1387211/Pipers-farewell-for-Spike-Milligan.html 23 May 2010閲覧。 
  62. ^ “Milligan gets last laugh on grave”. BBC News. (24 May 2004). http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/southern_counties/3742443.stm 
  63. ^ Milligan, Spike (4 November 2011). “Where's Spike gone?”. Rye and Battle Observer. 26 February 2015閲覧。
  64. ^ a b われヒトラーとかく戦えり - allcinema
  65. ^ “Spike 'wrote world's best joke'”. BBC News. (9 June 2006). http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/5064020.stm 
  66. ^ Games, Alexander (2003). The Essential Spike Milligan. London: Fourth Estate. ISBN 0-00-717103-X  p. vii.
  67. ^ Scudamore (1985, p. 170)
  68. ^ a b モンティ・パイソン(英語)『『ライフ・オブ・ブライアン』ができるまで』ソニー・ピクチャーズ (『ライフ・オブ・ブライアン』のメイキング・ドキュメンタリー、この作品のBlu-rayディスクに収録)
  69. ^ Australia: A town called Woy Woy”. The Telegraph. 10 October 2015閲覧。
  70. ^ “Why Spike Milligan wants to be Australian”. The Glasgow Herald. (1985年12月10日). https://news.google.com/newspapers?nid=2507&dat=19851210&id=fPQ9AAAAIBAJ&sjid=AUkMAAAAIBAJ&pg=5352,2028766 2016年7月31日閲覧。 
  71. ^ Spike Milligan Bridge, Woy Woy” (PDF). Rms.nsw.gov.au. 2014年4月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月23日閲覧。
  72. ^ Spike Milligan Room”. Gosford City Council. 2012年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年8月30日閲覧。
  73. ^ Milligan, Spike; Shand, Neil (1983). Spike Milligan's The Melting Pot. London: Robson Books英語版. introductory pages. ISBN 0-86051-195-2 
  74. ^ Badjelly's Bad Christmas”. Chickenshed Website. Chickenshed Theatre Trust. 2010年11月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年8月24日閲覧。
  75. ^ Let's Go Crazy (1951) - IMDb(英語)
  76. ^ Penny Points to Paradise (1951) - IMDb(英語)
  77. ^ スパイク・ミリガン - IMDb(英語)
  78. ^ とんだりはねたりとまったり - allcinema
  79. ^ Watch Your Stern (1961) - IMDb(英語)
  80. ^ The Times, 10 October 1961[要ページ番号]
  81. ^ 不思議な世界・未来戦争の恐怖 - allcinema
  82. ^ ピーター・セラーズのおとぼけパイレーツ - allcinema
  83. ^ 小さな漂流者 - allcinema
  84. ^ Vinyl Album – Spike Milligan – Milligan Preserved – Parlophone – UK”. 45worlds.com. 2015年10月10日閲覧。

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]

各種データベース

[編集]

その他番組ホームページなど

[編集]