ストライクザゴールド
ストライクザゴールド | |
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欧字表記 | Strike the Gold |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 栗毛 |
生誕 | 1988年3月21日[1][2] |
死没 | 2011年12月13日[1] |
父 | Alydar |
母 | Majestic Gold |
母の父 | Hatchet Man |
生国 | アメリカ合衆国 |
生産者 | Calumet Farm[1][2] |
馬主 |
BCC Gold Stable →William J. Condren & Joseph Cornacchia[1][2] |
調教師 | Nicholas P. Zito[1][2] |
競走成績 | |
生涯成績 | 31戦6勝[1][2] |
獲得賞金 | 3,457,026ドル[1][2] |
ストライクザゴールド(Strike the Gold、1988年3月21日 - 2011年12月13日)は、アメリカ合衆国のサラブレッドの競走馬、種牡馬。1991年のケンタッキーダービーに優勝した。
経歴
[編集]- 特記がない限り、競走はすべてダートコース。
出自
[編集]ケンタッキー州のカルメットファームで生産されたサラブレッドの牡馬である。ストライクザゴールドは生まれたばかりの時、脳への酸素の供給がうまくいかない「ダミーフォール症候群」を引き起こしており、最初の3日間は酸素吸入で命を永らえた[1]。母マジェスティックゴールドはポカホンタスステークス勝ち馬で、ストライクザゴールドはその4番目の仔であったが、出産から4か月後に疝痛のため死亡している[1]。そのような事情にもかかわらず、1歳時のストライクザゴールドは牧場内で最も速い馬であったという[3]。
ストライクザゴールドは2歳時の1990年、カルメットファームは深刻な財政危機に直面していた。そこでB・ジャイルズ・ブロフィを相手に、ストライクザゴールドを含む2歳馬8頭をまとめて購入する取引を持ち掛けた。この取引額は数百万ドルになるもので、ブロフィ単身では引き受けきれず、ウィリアム・J・コンドレンとジョセフ・M・コーンナチアの助力を得て成立にこぎつけた[3]。3名は「BCCゴールドステーブル」を結成し、ストライクザゴールドはその勝負服のもと競走馬となり、ニック・ジトー調教師のもとに預けられた[1]。
2歳-3歳前半(1990-1991年)
[編集]1990年にデビューしたストライクザゴールドは、10月11日の初出走で9着[2]、のちの11月15日に行われた3戦目のアケダクト競馬場での未勝利戦で初勝利を挙げた[3]。奇しくもこの日、カルメットファームの看板種牡馬で、ストライクザゴールドの父であるアリダーが不審な死を遂げている[1]。
1991年、3歳シーズン初戦は1月26日のガルフストリームパーク競馬場での一般戦で3着、2月23日の一般戦では2着であった。3月16日のフロリダダービー(G1・ガルフストリームパーク・9ハロン)にも挑戦したが、2歳チャンピオンのフライソーフリーに1馬身差抜かれて敗れている[3]。続く4月13日のブルーグラスステークス(G2・キーンランド・9ハロン)に向けて、ジトーはストライクザゴールドをまるでファーラップを鍛えるかの如く調教した。かくしてクリス・アントリー騎乗のもと出走したストライクザゴールドは、フライソーフリーに3馬身差をつけて重賞初勝利を挙げた[3]。
5月4日に迎えたケンタッキーダービー(G1・チャーチルダウンズ・10ハロン)ではジムビームステークスとレキシントンステークスを連勝してきたハンセルが1番人気で、続いてフライソーフリーが2番人気であった。3番人気であったストライクザゴールドはスタートからバックストレッチまで中団10番手付近に位置し、コーナーから6頭分ほど大きく回って追い上げ、直線入り口で先頭に立つと、同じく中団から追い上げてきたベストパルを1馬身3/4差抑えて優勝した。勝ちタイムの2分03秒は、良馬場のタイムとしては史上3番目に遅いタイムであった[3]。
続くプリークネスステークス(G1・ピムリコ・9.5ハロン)ではハンセルが優勝するなか6着、三冠最終戦のベルモントステークス(G1・ベルモントパーク・12ハロン)では再びハンセルを追い上げるも、アタマ差2着で勝利を逃した。
3歳後半-5歳(1991-1993年)
[編集]3歳シーズン後半はジムダンディステークス(G2・サラトガ・9ハロン)で3着をはじめ、トラヴァーズステークス(G1・サラトガ・10ハロン)やブリーダーズカップ・クラシック(G1・チャーチルダウンズ・10ハロン)といった王道路線を歩むもいずれも善戦に留まり、4歳時の1992年4月4日のサーティーシックスレッドステークス(L・アケダクト・9.5ハロン)での2着でダービーでの勝利から12連敗という不名誉な記録を作ってしまった。このためかジトーの調教に馬主側から疑義を呈され、ストライクザゴールドは5月にファシグ・ティプトンのセリ市に上場された。このセリは当初の馬主3人のうちの2人、コンドレンとコーンナチアが290万ドルで落札し、結局ジトーは調教師を継続することが出来た[1][2]。
セリ市から5日後の5月9日、ピムリコスペシャルハンデキャップ(G1・ピムリコ・9.5ハロン)でフライソーフリーを3/4馬身破って、ストライクザゴールドは久々の勝利を挙げた。その翌戦6月6日のナッソーカウンティハンデキャップ(G2・ベルモントパーク・9ハロン)ではプレザントタップをクビ差破って連勝を遂げた。しかしその後は再び善戦するに留まり、5歳時の4月21日の一般戦での勝利が最後の勝ち星となり、1993年6月5日のナッソーカウンティハンデキャップ3着を最後に引退した。
種牡馬入り後
[編集]引退後はケンタッキー州のヴァインリー牧場で種牡馬となったが、種牡馬成績は振るわず、1997年時点での種付け料は15000ドルであった。1998年にトルコジョッキークラブに売却され、カラジャベイペンションスタッドで繋養された[1]。トルコでは短距離界で活躍したサブルル(Sabırlı)などを輩出し、2011・2012年のトルコリーディングを獲得している[1]。
2009年3月にそれまでダービー馬としての最長生存記録を誇っていたアリシーバが死亡し、それから死ぬまでの間ストライクザゴールドが最長記録保持馬となった。2011年12月14日、ストライクザゴールドは左前肢の球節を骨折、そのため安楽死の処置がとられた。23歳であった[4]。
血統表
[編集]ストライクザゴールドの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | レイズアネイティヴ系 |
[§ 2] | ||
父 Alydar アメリカ 栗毛 1975 |
父の父 Raise a Nativeアメリカ 栗毛 1961 |
Native Dancer | Polynesian | |
Geisha | ||||
Raise You | Case Ace | |||
Lady Glory | ||||
父の母 Sweet Toothアメリカ 鹿毛 1965 |
On-and-On | Nasrullah | ||
Two Lea | ||||
Plum Cake | Ponder | |||
Real Delight | ||||
母 Majestic Gold アメリカ 芦毛 1979 |
Hatchet Man アメリカ 芦毛 1971 |
The Axe | Mahmoud | |
Blackball | ||||
Bebopper | Tom Fool | |||
Bebop | ||||
母の母 Majestic Secretアメリカ 鹿毛 1969 |
Pappa Fourway | Pappageno | ||
Oola Hills | ||||
Secret Session | Your Host | |||
Bravely Go | ||||
母系(F-No.) | (FN:16-c) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Bull Lea 5x5 | [§ 4] | ||
出典 |
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n Avalyn Hunter. “Strike the Gold (horse)”. American Classic Pedigrees. 2022年5月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “Strike the Gold (KY)”. EQUIBASE. 2022年5月21日閲覧。
- ^ a b c d e f William Nack (1991年5月13日). “Strike the Gold came from far behind to hit pay dirt in the Kentucky Derby”. Sports Illustrated. 2022年5月21日閲覧。
- ^ Jason Shandler (2011年12月14日). “KY Derby Winner Strike the Gold Dead at 23”. Blood-Horse. 2022年5月21日閲覧。
- ^ a b c “血統情報:5代血統表|Strike the Gold(USA)”. JBISサーチ. 2022年5月21日閲覧。
- ^ a b c d “Strike the Goldの血統表”. netkeiba.com. 2022年5月21日閲覧。