ジローラモ・クレシェンティーニ
ジローラモ・クレシェンティーニ(Girolamo Crescentini、1762年2月2日 - 1846年4月24日)は、イタリアのソプラノ・カストラート歌手、音楽教師。
19世紀のフェティスの音楽家事典では「イタリアの生んだ最後の大歌手」と評価している[1]。19世紀はじめにナポレオン・ボナパルトの宮廷歌手として歌ったことでも知られる。
生涯
[編集]クレシェンティーニはウルバーニアに生まれ、ボローニャでロレンツォ・ジベッリ (Lorenzo Gibelli) に学んだ[2]。はじめは女性役としてデビューし、その後に男性主役(プリモ・ウォーモ)として歌うようになった[2]。
1785年にはロンドンで歌ったが不評に終わった[3]。その後はふたたびイタリア各地で歌った。1786年にはミラノのスカラ座、1787年から1789年にかけてナポリのサン・カルロ劇場で歌っている[2]。
ジンガレッリは1793年に『アペッレとカンパスペ』(アペッレ役)、1796年には『ジュリエッタとロメオ (Giulietta e Romeo (Zingarelli)) 』(ロメオ役)をいずれもクレシェンティーニが歌うことを前提として書いた。『ジュリエッタとロメオ』はクレシェンティーニの当たり曲となり[4]、クレシェンティーニはこの作品のためのアリア「Ombra adorata aspetta」を自分で歌うために作曲している[3]。1796年のチマローザ『オラツィとクリアツィ (Gli Orazi e i Curiazi) 』のクリアツィオ役もクレシェンティーニにあてて書かれた[3]。
1797年にウィーン、ついでリスボンで4年間歌った。1804年に再びウィーンで歌って成功した[3]。翌1805年にウィーンに入城したナポレオン・ボナパルトに招かれてクレシェンティーニはパリへ行き、宮廷歌手および皇族の声楽教師をつとめた[2]。ナポレオンはクレシェンティーニを高く評価し、鉄冠勲章を授与した[3]。
1809年にケルビーニの『ピンマリオーネ (Pimmalione) 』(有名なルソーのメロドラマ『ピグマリオン』にもとづく)がテュイルリー宮殿で上演された。タイトルロールのピンマリオーネをクレシェンティーニが、ガラテアをナポレオンの愛人でもあったグラッシーニが歌った[5]。当時すでにカストラートは急速に衰退しつつあった。ナポレオンは1806年の勅令で去勢を禁じてカストラートを追放した張本人だったが、自分自身はクレシェンティーニに年俸3万フランの高給を与えて召し抱えていた[4]。
1811年にパリ音楽院のための教科書『ヴォカリッゾのための歌唱練習曲集』を出版している[6]。
- Girolamo Crescentini (1811). Raccolta di esercizi per il canto all'uso del vocalizzo con discorso preliminare. Paris
1812年にイタリアへ戻ってからは公開の場で歌うことはなく、音楽教育者として生活した[3]。ボローニャ音楽院を経てナポリ音楽院の声楽教師をつとめ[2]、1846年に没するまでナポリの地にあった[3]。
脚注
[編集]- ^ F. J. Fétis, “CRESCENTINI (Girolamo)”, Biographe universelle des musiciens, 2, Paris, p. 390 , "Crescentini fut le dernier grand chanteur qu'ait produit l'Italie"
- ^ a b c d e Nicola Lucarelli, “Crescentini, Girolamo (opera)”, Grove Music Online, doi:10.1093/gmo/9781561592630.article.O900913
- ^ a b c d e f g Maria Borgato (1984), “CRESCENTINI, Girolamo”, Dizionario Biografico degli Italiani, 30
- ^ a b 水谷彰良『カストラートの衰退とテノールの台頭』2017年(原著1997年) 。
- ^ Pimmalione, Opera Manager
- ^ 水谷彰良『ベルカント教育の歴史と方法論 ─ 16世紀末~19世紀半ばの声楽教育とそのメソッド』 。