ジョージ・ブラウン (第3代スライゴ侯爵)
第3代スライゴ侯爵ジョージ・ジョン・ブラウン(英語: George John Browne, 3rd Marquess of Sligo、1820年1月31日 – 1896年12月30日)は、アイルランド貴族。1845年までアルタモント伯爵の儀礼称号を使用した[1]。
生涯
[編集]第2代スライゴ侯爵ハウ・ピーター・ブラウンと妻(1800年1月 – 1878年2月17日)の息子として、1820年1月31日にメイヨー県のウェストポート・ハウスで生まれ、3月21日にウェストポートで洗礼を受けた[1]。1831年から1834年までイートン・カレッジで教育を受けた後[1]、1838年6月25日にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した[2]。1845年1月26日に父が死去すると、スライゴ侯爵位を継承した[1]。
爵位継承のすぐ後にジャガイモ飢饉が起こった。スライゴ侯爵は借地人の救済の一環として、メイヨー県の地主ジョージ・ヘンリー・ムーアやロバート・ブロス(Robert Blosse)とともにマーサ・ワシントン号(Martha Washington)をチャーターして食料を購入、マーサ・ワシントン号は4千トンの穀物を載せてウェストポートに入港した[3]。
1883年時点でメイヨー県に114,881エーカーの領地を所有したが、そのすべてが単純不動産の農地であり、領地からの年収は1万9千ポンドだった[1](1876年時点では114,881エーカー、年収16,157ポンド[4])。114,881エーカーという領地面積は1883年時点のイギリス貴族では23位だった[5]。
1896年12月30日にギルフォード近くのマウント・ブラウン(Mount Browne)で死去、弟ジョン・トマスが爵位を継承した[5]。
家族
[編集]1847年5月3日、ルイーザ・エレン・フランシス・オーガスタ・シドニー・スミス(Louisa Ellen Frances Augusta Sydney Smythe、1823年2月21日 – 1852年11月23日、第6代ストラングフォード子爵パーシー・クリントン・シドニー・スミスの娘)と結婚[1]、1女をもうけた[6]。
- キャサリン・フィリッパ・エレン(Catherine Philippa Ellen、1855年3月2日没) - 早世[6]
1858年7月20日、ジュリア・キャサリン・アン・ニュージェント(Julia Catherine Anne Nugent、1830年6月3日 – 1859年6月25日、第9代ウェストミーズ伯爵アンソニー・フランシス・ニュージェントの娘)と再婚したが、ジュリア・キャサリンは翌年に産褥死した[1]。2人は1女をもうけた[6]。
- ジュリア・エレン・アン・キャサリン(Julia Ellen Anne Catherine、1864年4月25日没) - 早世[6]
1878年6月6日、イザベル・レイモンド・ド・ペロネ(Isabelle Raymonde de Peyronnet、1841年10月29日 – 1927年5月26日、ド・ペロネ子爵の三女)と再婚[1]、2女(双子)をもうけた[6]。
- メアリー・イザベル・ペロネ(1881年11月6日[6] – 1948年12月18日[7])
- イザベル・メアリー・ペロネ(1881年11月6日 ロンドン – 1947年6月8日) - ロンドン大学で教育を受けた後、1909年にロンドン・リンネ協会フェローに選出された[8]。英国赤十字社にも加入して、1918年6月3日に大英帝国勲章オフィサーを授与された[9]
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h Cokayne, George Edward (1953). White, Geoffrey H. (ed.). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Skelmersdale to Towton) (英語). Vol. 12 (2nd ed.). London: The St Catherine Press. pp. 25–27.
- ^ "Browne, George John, Earl of Altamont. (BRWN838GJ)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ Cantwell, Paul (3 May 2014). "The blessing of the poor" (PDF). The Irish Field (英語). p. A26. 2021年10月23日閲覧。
- ^ De Burgh, U. H. Hussey (1878). The Landowners of Ireland (英語). Dublin: Hodges, Foster, and Figgis. p. 415.
- ^ a b Cokayne, George Edward, ed. (1896). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (S to T) (英語). Vol. 7 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 164–165.
- ^ a b c d e f Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. p. 1844.
- ^ "No. 38601". The London Gazette (英語). 3 May 1949. p. 2218.
- ^ Desmond, Ray (1994). Dictionary Of British And Irish Botanists And Horticulturists (英語). London: Taylor & Francis. p. 110. ISBN 0-85066-843-3。
- ^ "No. 30730". The London Gazette (Supplement) (英語). 4 June 1918. p. 6696.
外部リンク
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