ジョン・ポンソンビー (第5代ベスバラ伯爵)
第5代ベスバラ伯爵ジョン・ジョージ・ブラバゾン・ポンソンビー(英: John George Brabazon Ponsonby, 5th Earl of Bessborough PC、1809年10月14日 – 1880年1月28日)は、イギリスの貴族、政治家。1844年から1847年までダンキャノン卿の儀礼称号を使用した[1]。1830年代から1847年の爵位継承まで庶民院議員を務め、爵位継承以降は相次ぐ自由党政権でバックハウンド管理長官、王室家政長官を務めた[2]。
生涯
[編集]第4代ベスバラ伯爵ジョン・ウィリアム・ポンソンビーと妻マリアの長男として、1809年10月14日に生まれた[2]。1822年から1826年までチャーターハウス・スクールで教育を受けた[1]。
1831年初にグレイ伯爵内閣が第1回選挙法改正の法案を起草したとき、父が起草にかかわり、ポンソンビーも父を手伝った[1]。法案の否決により解散総選挙が行われると、ポンソンビーはホイッグ党のウィリアム・ラッセルの後援を得てブレッチングリー選挙区から出馬、無投票で庶民院議員に当選した[1][3]。議会で第1回選挙法改正に賛成票を投じた後、首相グレイ伯爵の意向により、同年7月に議員を退任して議席をインド庁秘書官トマス・ハイド・ヴィリアーズに譲った[3]。同年10月、祖父の姉の夫にあたる第4代フィッツウィリアム伯爵の後援を受けて、フィッツウィリアム伯爵の懐中選挙区であるハイアム・フェラーズ選挙区の補欠選挙に出馬、無投票で当選した[1][4]。2度目の議員期にも選挙法改正に賛成したが、演説の記録はなかった[1]。
第1回選挙法改正によりハイアム・フェラーズ選挙区が廃止され、ポンソンビーは続く1832年イギリス総選挙で議席を見つけられなかった[1]。代わりに外務省で1833年5月から1834年11月まで外務大臣の第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルの部下として要約筆者(précis writer)を務めた[1]。パーマストン子爵は厳しい人物であり、しかも務めている間(1834年3月)に母が死去したため、1835年イギリス総選挙でホイッグ党候補としてダービー選挙区から出馬したとき、ポンソンビーは突如神経衰弱に陥った[1]。それでも724票(得票数2位)で当選し、以降1837年に791票(得票数2位)、1841年に784票(得票数2位)で再選した[5]。
1838年にカーロウ県長官を務め[2]、同年11月から1880年に死去するまでカーロウ統監を務めた[6]。
1847年5月16日に父が死去すると、ベスバラ伯爵位を継承した[2]。
第1次ラッセル内閣期の1848年5月16日にバックハウンド管理長官に任命され[7]、同年6月27日に枢密顧問官に就任した[8]。1852年2月に内閣が倒れると辞任した[9]。アバディーン伯爵内閣期の1852年12月30日に再びバックハウンド管理長官に任命され[10]、第1次パーマストン子爵内閣で続投したのち、1858年2月に内閣が倒れると辞任した[11]。第2次パーマストン子爵内閣期の1859年6月18日に三たびバックハウンド管理長官に任命され[12]、第2次ラッセル内閣で続投したのち、1866年1月に王室家政長官に転じ[13]、内閣が倒れると1866年7月に辞任した[14]。第1次グラッドストン内閣期の1868年12月12日に再び王室家政長官に就任[15]、内閣が倒れると1874年3月に辞任した[16]。
1880年1月28日にベスバラ・ハウスで死去、2月3日にキルケニー県フィッダウンで埋葬された[2]。2度の結婚で子女をもうけず、爵位は弟フレデリック・ジョージ・ブラバゾンが継承した[2]。
「貴族に与えられる、仕事で押しつぶされないような官職」の話題になったとき、ベスバラ伯爵が「バックハウンド管理長官」と答えたという逸話があったが、保守党の首相ベンジャミン・ディズレーリはベスバラ伯爵を「判断力と機転が素晴らしい」と評価した[1]。
家族
[編集]1835年9月8日、フランシス・シャーロット・ラムトン(Frances Charlotte Lambton、1812年10月16日 – 1835年12月18日、初代ダラム伯爵ジョン・ラムトンの娘)と結婚したが、フランシス・シャーロットは結婚から3か月後に死去した[2]。
1849年10月4日、キャロライン・アミーリア・ゴードン=レノックス(Caroline Amelia Gordon-Lennox、1819年6月18日 – 1890年4月30日、第5代リッチモンド公爵チャールズ・ゴードン=レノックスの娘)と再婚したが、2人の間に子供はいなかった[2][17][18]。
再婚したときのハネムーン旅行で妻のパラソルが目に刺さり、片目の視力を失うという事故が起こった[1]。事故以降、ベスバラ伯爵は怒りっぽくなったという[1]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l Salmon, Philip; Fisher, David R. (2009). "PONSONBY, John George Brabazon (1809-1880).". In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年7月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1912). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Bass to Canning) (英語). Vol. 2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 172–173.
- ^ a b Spencer, Howard; Jenkins, Terry (2009). "Bletchingley". In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年7月5日閲覧。
- ^ Casey, Martin; Salmon, Philip (2009). "Higham Ferrers". In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年7月5日閲覧。
- ^ Craig, F. W. S. (1989) [1977]. British parliamentary election results 1832–1885 (英語) (2nd ed.). Chichester: Parliamentary Research Services. p. 104. ISBN 0-900178-26-4。
- ^ Sainty, John Christopher (September 2005). "Lieutenants and Lords-Lieutenants (Ireland) 1831-". Institute of Historical Research (英語). 2018年7月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月5日閲覧。
- ^ "No. 20858". The London Gazette (英語). 19 May 1848. p. 1940.
- ^ "No. 20872". The London Gazette (英語). 30 June 1848. p. 2435.
- ^ "No. 21298". The London Gazette (英語). 5 March 1852. p. 698.
- ^ "No. 21398". The London Gazette (英語). 4 January 1853. p. 1.
- ^ "No. 22106". The London Gazette (英語). 2 March 1858. p. 1207.
- ^ "No. 22279". The London Gazette (英語). 24 June 1859. p. 2472.
- ^ "No. 23062". The London Gazette (英語). 23 January 1866. p. 398.
- ^ "No. 23137". The London Gazette (英語). 13 July 1866. p. 3984.
- ^ "No. 23450". The London Gazette (英語). 15 December 1868. p. 6651.
- ^ "No. 24071". The London Gazette (英語). 3 March 1874. p. 1453.
- ^ Lodge, Edmund, ed. (1902). The Peerage and Baronetage of the British Empire as at Present Existing (英語) (71st ed.). London: Hurst and Blackett. p. 79.
- ^ Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth Peter, eds. (1934). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, The Privy Council, and Knightage (英語). Vol. 1 (92nd ed.). London: Burke's Peerage, Ltd. p. 281.
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Lord Duncannon
- ジョン・ポンソンビー - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- "ジョン・ポンソンビーの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
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先代 チャールズ・テニソン ウィリアム・ホーン |
庶民院議員(ブレッチングリー選挙区選出) 1831年 同職:チャールズ・テニソン |
次代 パーマストン子爵 トマス・ハイド・ヴィリアーズ |
先代 チャールズ・ペピス |
庶民院議員(ハイアム・フェラーズ選挙区選出) 1831年 – 1832年 |
選挙区廃止 |
先代 ヘンリー・キャヴェンディッシュ エドワード・ストラット |
庶民院議員(ダービー選挙区選出) 1835年 – 1847年 同職:エドワード・ストラット |
次代 エドワード・ストラット フレデリック・ルーソン=ゴア閣下 |
公職 | ||
先代 グランヴィル伯爵 |
バックハウンド管理長官 1848年 – 1852年 |
次代 ロスリン伯爵 |
先代 ロスリン伯爵 |
バックハウンド管理長官 1852年 – 1858年 |
次代 サンドウィッチ伯爵 |
先代 サンドウィッチ伯爵 |
バックハウンド管理長官 1859年 – 1866年 |
次代 コーク伯爵 |
先代 セント・ジャーマンズ伯爵 |
王室家政長官 1866年 |
次代 マールバラ公爵 |
先代 タンカーヴィル伯爵 |
王室家政長官 1868年 – 1874年 |
次代 ビーチャム伯爵 |
名誉職 | ||
先代 ベスバラ伯爵 |
カーロウ統監 1838年 – 1880年 |
次代 アーサー・マクマロー・カヴァナー |
アイルランドの爵位 | ||
先代 ジョン・ポンソンビー |
ベスバラ伯爵 1847年 – 1880年 |
次代 フレデリック・ポンソンビー |