コンテンツにスキップ

ジュール=アルマン=ルイ・ド・ロアン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジュール=アルマン=ルイ・ド・ロアン
Jules-Armand-Louis de Rohan
ルイ・ド・ロアン公子、アレクシ・ヴァルブラン英語版画、1830年

出生 (1768-10-20) 1768年10月20日
フランス王国ヴェルサイユ宮殿
死去 (1836-01-13) 1836年1月13日(67歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国シフロフ城ドイツ語版
配偶者 ザーガン女公ヴィルヘルミーネ
子女 マリー・ヴィルゾーン・フォン・シュタイナハ(庶子)
家名 ロアン家
父親 ゲメネ公アンリ・ド・ロアン
母親 ヴィクトワール・ド・ロアン
テンプレートを表示

ジュール=アルマン=ルイ・ド・ロアンJules-Armand-Louis de Rohan, 1768年10月20日 - 1836年1月13日)は、ブルボン朝末期フランスの貴族。フランス革命後はオーストリア帝国に移住・帰化した。

生涯

[編集]

ゲメネ公アンリ・ド・ロアンとその妻ヴィクトワール・ド・ロアンの間の第5子・三男。フランス革命勃発後、家族と共にオーストリア領ボヘミアに亡命する。2人の兄シャルル=アラン及びヴィクトルと一緒にオーストリア帝国軍に仕官し、陸軍少将の階級を授けられた[1]

1800年6月23日ザーガンにて、欧州有数の富裕な女子相続人だったザーガン女公ヴィルヘルミーネと結婚[2]。しかし妻の妹パウリーネと不倫関係に陥り、間に婚外子が生まれる結果となり、ヴィルヘルミーネとは1805年離婚した[3]。1806年ジェピーン城チェコ語版を購入し住まいとした。

1833年5月15日、相続人が無いため甥のカミーユ及びバンジャマン(1804年 - 1846年)と養子縁組をした[4]。ただしカミーユはルイの2人の兄の死後、ロアン家の家督・爵位・資産を継承する予定だったため、1836年ルイが死去した際は、バンジャマンがその個人資産を全て相続した。

子女

[編集]

義妹のパウリーネ・フォン・ザーガンとの間に婚外子の娘を1人もうけた[5]

引用・脚注

[編集]
  1. ^ Constantin von Wurzbach: Rohan, die Fürsten, Genealogie In: Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich. 26. Theil. Kaiserlich-königliche Hof- und Staatsdruckerei, Wien 1874, S. 276.
  2. ^ Paul Theroff. “BIRON von KURLAND”. Paul Theroff's Royal Genealogy Site. 2019年12月30日閲覧。
  3. ^ パウリーネと夫のホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯フリードリヒドイツ語版も同年離婚した。
  4. ^ Constantin von Wurzbach: Rohan-Rochefort-Montauban, Camille Joseph Philipp Idesbald Fürst In: Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich. 26. Theil. Kaiserlich-königliche Hof- und Staatsdruckerei, Wien 1874, S. 275.
  5. ^ Paul Theroff. “DOHNA”. Paul Theroff's Royal Genealogy Site. 2019年12月30日閲覧。