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ジャン=テオドール・ラドゥー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャン=テオドール・ラドゥー
Jean-Théodore Radoux
基本情報
生誕 1835年11月9日
ネーデルラント連合王国リエージュ
死没 (1911-03-22) 1911年3月22日(75歳没)
ベルギーの旗 ベルギー、リエージュ
ジャンル クラシック
職業 作曲家、ファゴット奏者

ジャン=テオドール・ラドゥー(Jean-Théodore Radoux, 1835年11月9日 - 1911年3月20日)は、ベルギー作曲家ファゴット奏者

生涯

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ラドゥーはリエージュに生まれた。彼は1845年、9歳の頃からリエージュ王立音楽院においてジョゼフ・ドーソワーニュ=メユールの下で対位法を学び始めた。翌年には音楽理論で1等賞を獲得し、その後はしばらくの間チェロピアノの訓練に励むようになる。しかしながら、これらの楽器演奏が上達しなかったことに落胆した彼は、続く2年間音楽から遠ざかってしまった[1]

1847年、教授のバッヒャ(Bacha)に説得されたラドゥーは音楽院に復帰し、教授から指導を受けてファゴットを学び始めた。ファゴットで才能を開花させたラドゥーは、数年間の研鑽の後にファゴット演奏で1等賞並びにゴールドメダルを受賞した[1]。彼は1850年代の初頭をしばらくパリで過ごし、ジャック・アレヴィ作曲を師事した[2]

ラドゥーは1858年に作曲していたカンタータLe Juif errant』により、1859年のベルギーのローマ大賞[注 1]を受賞した。彼は他にも2つのオペラ、1曲のオラトリオ、2つの交響詩、序曲を1曲と数曲の合唱、声楽作品、そして教会音楽を作曲している[2]

1856年にバッヒャが死去するとラドゥーは他の応募者との競争を勝ち抜き、師の跡を継ぎ音楽院でファゴットの教授となった。1872年には音楽院の院長に任用され、その後の生涯40年近くにわたってこの職を務めた。彼の著名な門下生にはジャン・ロジステルなどがいる。ラドゥーがリエージュで生涯を閉じると、シルヴァン・デュピュイが後任に就いた[1]

主要作品

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  • ソプラノ、チェロと管弦楽のためのカンタータ『Le Juif errant』 (1859年)
  • 3幕4場のコミック・オペラ『Le Béarnais』 (1866年、リエージュ); リブレット A. Pellier-Quesny
  • 4幕の歴史的小品『Les Maîtres flamands』 (1868年、ブリュッセル)
  • コミック・オペラ『La Coupe enchantée』 (1871年、ブリュッセル)
  • 独唱、合唱と管弦楽のためのPoème lyrique(オラトリオ)『Caïn』 (1877年); 詞 Pauline Braquaval-L'Olivier
  • 複数の独唱者、合唱と管弦楽のための3部のPoème lyrique『Patria』; 詞 Lucien Solvay
  • 1905年リエージュ万博のための『Cantate pour l'inauguration de l'Exposition universelle de Liège, 1905』; 詞 Jules Sauvenière
  • 女声合唱と管弦楽のための『Le Printemps
  • 交響詩『Ahasvire
  • 交響詩『Le festin de Balthasar
  • 交響的序曲『Apopee nationale
  • ミサ曲『Te Deum
  • ' ヴァイオリン、チェロと管弦楽のための『Lamento
  • ピアノのための『10の無言歌』
  • ピアノのための『12の小品』
  • 演奏会用バンドのための『Grande marche internationale』 (1877年)
  • チェロまたはファゴットと室内オーケストラ(もしくはピアノ)のための『Élégie
  • トロンボーンと弦楽オーケストラのための『Nocturne
  • Fraternité!, Hymne internationale (1869年)
著作

脚注

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注釈

  1. ^ 訳注:本家のローマ大賞に倣って1832年に創設された賞。(Prix de Rome (Belgium)

出典

外部リンク

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