ジャン=カルロ・メノッティ
ジャン・カルロ・メノッティ Gian Carlo Menotti | |
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1944年 カール・ヴァン・ヴェクテン撮影 | |
基本情報 | |
生誕 | 1911年7月7日 |
出身地 | イタリア王国、ロンバルディア州 |
死没 |
2007年2月1日(95歳没) モナコ、モンテカルロ |
学歴 | ヴェルディ音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | オペラ作曲家・台本作家 |
ジャン・カルロ・メノッティ[1](Gian Carlo Menotti 1911年7月7日、カデリアーノ=ヴィコナーゴ - 2007年2月1日、モンテカルロ)は、イタリア出身のアメリカ合衆国のオペラ作曲家・台本作家。アメリカにおけるクリスマス・オペラの定番『アマールと夜の来客』(Amahl and the Night Visitors, 1951年)が代表作。「二つの世界」音楽祭(別名スポレート音楽祭)などのフェスティバルの設立にも関わった。エリオット・カーターと並んでアメリカ合衆国における長老作曲家の一人。
経歴
[編集]イタリア王国ロンバルディア州出身。8人兄弟の6番目に生まれる。祖父はカデリアーノ=ヴィコナーゴの市長であった。7歳で作曲を始め、11歳で自ら台本を書いて最初のオペラ『ピエロの死』を作曲する。1923年にミラノのヴェルディ音楽院に入学する。コーヒー商人をしていた父親に先立たれると、母親とともに渡米し、アルトゥーロ・トスカニーニの推薦状とともにフィラデルフィアのカーティス音楽院に進学、ロザリオ・スカレロより作曲の指導を受ける。同世代の同校出身者にはレナード・バーンスタインやルーカス・フォス、ニーノ・ロータ、サミュエル・バーバーなどがいるが、そのうち1歳年上のサミュエル・バーバーとは在学中に知り合い、その後長らく同性愛の関係を続けた。メノッティはバーバーのオペラのうち『ヴァネッサ』(Vanessa)と『ブリッジ遊び』(A Hand of Bridge)に台本を提供しただけでなく、フランコ・ゼフィレッリ台本のバーバーのオペラ『アントニーとクレオパトラ』(Antony and Cleopatra)の改訂と再上演も行っている。
メノッティの最初の成熟したオペラ『アメリア舞踏会へ行く』(Amelia al Ballo, 1937年)は、まだカーティス在籍中に、自作のイタリア語の台本に曲付けしたものだった。この他のイタリア語オペラは、『島の神』(1942年)と『最後の野蛮人』(1963年)ぐらいしかない。メノッティは自作の全ての台本を自ら執筆している。最も成功した作品は、1940年代から1950年代にかけて創作された。母校カーティスで教鞭を執ったことがあり、そのうち最も成功した門人に作曲家のスタンリー・ホリングワースがいる。
『アメリア舞踏会へ行く』があまりに好評だったため、NBCからラジオ向けオペラを2曲委嘱される。まず最初に書き下ろされたのが『老嬢と泥棒』(The Old Maid and the Thief, 『泥棒とオールドミス』とも, 1939年)だった。これに続いて、バレエ音楽『セバスチャン』(1944年)とピアノ協奏曲(1945年)を完成させてから、『霊媒』(The Medium, 1946年)と『電話』(The Telephone, 『電話、または三角関係』(The Telephone, or L'Amour à trois)とも, 1947年)によってオペラに復帰する。
『電話』は現代的な素材を扱ったオペラとして特に注目される。男が婚約を申し込みに恋人の家へ行くと、電話が鳴ってことごとく邪魔され、最後は男も恋人の家を立ち去ってから電話でプロポーズするという内容の喜劇。同じ電話を扱ったオペラであるフランシス・プーランクの『人間の声』は悲劇で、対照的である(両方とも1幕ものの短編オペラであり、両者を一夜で上演することも可能である)。ソニーの会長だった大賀典雄はバリトン歌手としてドイツ留学時代、このメノッティの『電話』をSPレコードに録音している。
それまで1幕オペラばかりを書き継いできたメノッティであったが、1950年の『領事』(The Consul, 全3幕)によってこの習慣を破る。同年これが初演されると、ピューリッツァー賞に輝き、1954年にはニューヨーク演劇サークル批評家賞年間大賞も授与された。1951年に愛すべきクリスマス・オペラ(テレビ・オペラと銘打たれている)『アマールと夜の来客』を作曲する。
1958年にイタリアにスポレート音楽祭を創設した。1977年にはサウスカロライナ州のチャールストンに米国スポレート音楽祭も併設した。しかし、1993年にこれを辞してローマ歌劇場の支配人となった。
1984年に芸術界における長年の功労に対してケネディ・センター名誉賞を授与され、1991年に音楽雑誌「ミュージカル・アメリカ」の「今年の顔」に選ばれた。
サミュエル・バーバーとともに、30年間にわたって同棲していたニューヨーク州マウント・キスコのカプリコーンの家屋を売り払うと、今度はトーマス・シッパーズと関係を結んだ。シッパーズは1977年に、バーバーは1981年に鬼籍に入った。
メノッティは1974年にアメリカを去り、スコットランド・イースト・ロージアンのギフォードにあるツィードデール侯爵邸宅に移り住んだ(この家の音響効果が気に入ったため)。2007年にモンテカルロの病院で死去し、ギフォードのYester Kirkに埋葬された[2]。
メノッティの影響力は、クラシック音楽界を超えてポピュラー音楽にまで及んでいる。国際的なベストセラー歌手ローラ・ブラニガンは、1980年代から1990年代にかけて出したいくつかのアルバムに、発声教師としてメノッティの名を挙げている。
メノッティは『セバスチャン』以外にもいくつかのバレエ音楽を作曲しており、合唱曲も手懸けている。そのうち最も著名なのは、カンタータ『ブリンディジ司教の死』(The Death of the Bishop of Brindisi, 1963年)である。このほかにヴァイオリン協奏曲や舞台劇『らいを病む人』(The Leper)、交響曲第1番『ハルシオン』(The Halcyon)などがある。とはいえ、メノッティがアメリカ文化に対して最もよく貢献したのは、やはりオペラの分野においてであった。
作品
[編集]- アメリア舞踏会へ行く Amelia al Ballo (1937年)
- 老嬢と泥棒 The Old Maid and the Thief (1939年)
- 島の神 The Island God (1942年)
- Sebastian (1944年)
- 霊媒 The Medium (1946年)
- 電話 The Telephone (1947年)
- 領事 The Consul (1950年)
- アマールと夜の来客 Amahl and the Night Visitors (1951年)
- ブリーカー街の聖人 The Saint of Bleeker Street (1954年)
- ユニコーン、ゴーゴンおよびマンティコーア The Unicorn, the Gorgon, and the Manticore (1956年)
- マリア・ゴロヴィン Maria Golovin (1958年)
- テレビ・オペラ「迷宮」 Labyrinth (1963年)
- 最後の野蛮人 The Last Savage (1963年)
- マーティンの嘘 Martin's Lie (1964年)
- 助けて、助けて、宇宙人がやってきた! Help, Help, the Globolinks! (1968年)
- 最重要人物 The Most Important Man (1971年)
- タムタム Tamu-Tamu (1973年)
- 卵 The Egg (1976年)
- ヒーロー The Hero (1976年)
- ジプシー裁判 The Trial of the Gypsy (1978年)
- チップの飼い犬 Chip and his Dog (1979年)
- La Loca (1979年)
- Missa 'O Pulchritudo (1979年)
- 冥府から来た花嫁 A Bride from Pluto (1982年)
- 大きくなりすぎた坊や The Boy Who Grew Too Fast (1982年)
- ゴヤ Goya (1986年、1991年改訂)
- 結婚 The Wedding (Giorno da Nozze) (1988年)
- 歌う子供 The Singing Child (1993年)
脚注
[編集]- ^ 名は Gian-Carlo と綴られることも多く、日本語でもジャン=カルロ・メノッティとする表記もある。
- ^ https://www.findagrave.com/memorial/17832710/menotti
関連文献
[編集]- Wlaschin, Ken, Gian Carlo Menotti on Screen: Opera, Dance and Choral Works on Film, Television and Video. McFarland & Company, 1999. ISBN 0-7864-0608-9
- Gruen, John, Menotti: A Biography. Macmillan Pub. Co, 1978. ISBN 0-02-546320-9.