1950年代初期から自作曲をナイトクラブで歌いつつ歌手としてそこそこ知名度を得ていたジャックは、1953年に78回転のレコード「Il y a/La foire[2]」を発売した。これは200枚程度しか売れなかったが、新人発掘の手腕が知られていたジャック・カネッティの眼に止まった。板紙工場の仕事を辞めて単身パリに移り住み、キャバレーやミュージックホールでステージに立ちながら曲を書き溜める日々を送りつつ、1954年には初のアルバムを発表した。この中の一曲「オーケー悪魔 (Le Diable "Ça va")[3]]」をジュリエット・グレコが取り上げリサイタルで歌ったことからジャックの名は知られるようになった。1955年1月にはベルギーでのポップ・ミュージックなどを開拓した人物と言われるボブジャーン・ショーペンがブリュッセルの「アンシエンヌ・ベルジック」で行った公演のサポートに加わる程、彼の評価は高まって来ていた。
妻子をパリに呼び寄せた後、1956年にはヨーロッパツアーを敢行するとともに、翌年には初の本格的なレコーディングとなるアルバム『愛しかない時 (Quand on n'a que l'amour)[4]』を発売しACCディスク大賞を獲得した。さらに「行かないで (Ne me quitte pas)」、「フランドルの女たち (Les Flamandes)[5]」、「マリーク (Marieke)[5]」、「そよ風のバラード (Le Moribond)[6]」、「忘れじの君 (On n'oublie rien)[6]」などのヒットを次々と飛ばし、一流ミュージシャンの仲間入りを果たした[1]。また、モーリス・シュバリエやミシェル・ルグランとも共演をした。
1950年代末頃にミーシュと3人の娘はブリュッセルに戻り、ジャックは単身生活を始めた。その頃には、友人のジュルジュ・パスキエ(ブレルは親しみを込めて「ジョジョ(Jojo)」と呼んだ)や、ピアニストのジェラール・ジュアネストやフランソワ・ローベから影響を受け、ジャックはそのスタイルを変えた。彼はもはやカトリック人道主義組織の吟遊詩人ではなくなった。彼の詩は、愛や死を、また人生における苦闘を高らかに歌うものとなり、曲調はより複雑な構成へ変化した。そして、詩曲全体で取り上げるテーマは、愛の表現 ("Je t'aime"、"帰りくる人への祈り (Litanies pour un retour)[7]")、政治的なもの ("猿 (Les Singes)[5]"、"ブルジョワの歌 (Les Bourgeois)[5]"、"ジョーレスは殺された (Jaurès)"[8])、精神のあり方 ("ある夜のメルヘン (Le bon Dieu)"、"Dites, si c'était vrai"、"フェルナン (Fernand)[4]") など多岐にわたるようになった。また、ユーモアに溢れた曲 ("ライオンの唄 (Le Lion)[9]"、"復讐 (Comment tuer l'amant de sa femme quand on a été élevé comme moi dans la tradition)[8]") や情熱的な曲 ("涙(Voir un ami pleurer)[8]"、"子供はみんな (Fils de...)[10]"、"永遠なれジョジョ (Jojo)[8]") なども忘れられることなく続けざまに発表され、そのスタイルの自由さを示した。
ジャックの鋭敏な知覚は、彼をして日常から類まれな詩作を苦も無く生み出せる革新的かつ創造的な芸術家たらしめている。彼の知性溢れる言葉は、視覚的イメージを触発させやすくかつ豊富な語彙にあふれた表現で表され、それらは衝撃的であり、またシンプルでもある。作詞家の中で、ありふれた単語を並べただけの中に斬新さと芳醇さをもたらす能力において、彼と比肩する者を探し出すことは難しい。また、"夏の夜 (Je suis un soir d'été[5])"で歌われた夏の夕方頃になると漂い始める都市の雰囲気を表現したような、鋭敏とも言える隠喩のセンスをも持っている。その一方で優れた洞察力を持つジャックは、人間社会の暗部とも言える事柄を詞のテーマにすることを厭わなかった。"ジェフ (Jef)[15]"、"La chanson de Jacky"、"アムステルダム (Amsterdam)[16]"などでは、アルコール中毒患者・漂泊する者・麻薬常用者および売春婦などを取り上げ、決して同情だけではない辛辣さも含んだ詩作をしている。
ほとんどすべての詩はフランス語で創作されており、フランス語文化圏でジャックは最も優れた作詞家のひとりとして評価されている。ただ時に、一部フラマン語のパートがある。1961年に"マリーク (Marieke)"や、"Ne me quitte pas (Laat me niet alleen)"、"Les Singes (De apen)"、"On n'oublie rien (Men vergeet niets)"や、1962年に"Les Bourgeois (De Burgerij)"、"Le Plat Pays (Mijn vlakke land)"、"Rosa"、"Les paumés du petit matin (De nuttelozen van de nacht)" などオランダ語吹き替え版を発売した例もある。ただし、ジャックのオランダ語は構成力に乏しかったため[要出典]、有名なオランダ人翻訳家のエルンスト・ヴァン・アルテナが訳していた。
ジャックについては、その詩だけを論評しても不充分な感がある。彼の作曲は一見オーソドックスに思えるが、その実は幅広いスタイルに支えられたものである。彼は、"J'en appelle", "Pourquoi faut-il que les hommes s'ennuient?" のような物悲しく厳粛な曲だけではなく、"L'aventure", "ローザ (Rosa)[15]]", "春に (Au printemps)[17]" に代表されるリズミカルで躍動感に溢れた魅力的な作曲も得意とした。時にジャックは、ロマン主義的ながら世の闇をえぐるような詞に、あえてゆったりとしたラブソング調の曲を組み合わせ、湧き上がる不安感や苛立ちを抑える効果を生み出しもした。
娘のフランス・ブレルは、父親について「典型的なフランデレン人でした」と述べた。彼女は続いて「規律と勤労を重んじ、いつも几帳面で…。それはもうあらゆる意味で私たち一家はフランデレン人そのもの。父はそれを誇りに思っていました」と述懐した。この娘の言葉通り、ジャック・ブレルは自らをフランデレン人歌手だと表明していた。その心情は、田舎臭さを揶揄するコミックソング"Les Flamandes"のようなものもあるが、"平野の国 (Le Plat Pays)[18][19]"、"マリーク (Marieke)"、"オスタンドの女[9] (L'Ostendaise)", "子供の頃[10] (Mon père disait)" といった曲で歌ったフラマン人やフランデレン地域への愛情が顕著に見られ、反動としてフランス・ナショナリズムを嫌った。だが、のちにフランデレン民族主義(フランデレン分離独立主義)に対してはあからさまな嫌悪を隠そうとせず、1967年発表の"La, la, la"では"Vive les Belges, merde pour les flamingants"(「ベルギー人万歳、フランデレン分離独立主義者どもクソ食らえ」)と辛辣にこき下ろし、1977年の"エフ (Les F...)[8][20]"の中ではフランデレン民族主義者を"Nazis durant les guerres et catholiques entre elles"(「戦争の時にはナチス、そうでないときはカトリック」-教条と暴力を使い分ける節操のない連中)と痛烈に批判した。そのため極右勢力に目をつけられる結果ともなった[21]。
マレーネ・ディートリヒの「Bitte geh nicht fort」は「Ne me quitte pas」のドイツ語バージョンであり、同曲は少なくとも15カ国語以上に訳してカバーされ、オリジナルのフランス語版でもニーナ・シモン、ナターチャ・アトラス、カーリン・アリソン、スティング、ナナ・ムスクーリ、フリオ・イグレシアスなどのミュージシャンがレコーディングしている。
ジャック・ブレルのアルバムは数多くの国で、発売順や1枚毎の収録曲などがばらばらにリリースされた経緯から、統一的なディスコグラフィを規定しがたい面がある。また、タイトルも都度異なる場合がある。これらを簡略に整理するため、本項では2003年9月23日に発売された16枚のCDセットボックス『Boîte à Bonbons』に纏められたオリジナル・アルバムに限定し、このボックス特典CD『Chansons ou Versions Inédites de Jeunesse』を加えたリストを掲示し、各アルバムのタイトルもCDボックスの表記に準拠する。なお、1977年のアルバムにのみ邦題を加える。
漫画アステリックスのフランス語版「ベルガエにアステリックス (Astérix chez les Belges)」の回で、ジャック・ブレルが参照されている。登場人物たちがベルギーのまっ平らな地形を進んでいる時、その地の指導者が"Dans ce plat pays qui est le mien, nous n'avons que des oppidums pour uniques montagnes"(ここにあるただひとつの山はオッピドゥム‐ラテン語で町の意‐だけだ)と言っている。これは"Le Plat Pays"("The Flat Country")で、ベルギーにある山と同程度の高さを持つものは教会だけというフレーズを転用したものである。同じ回ではジャックの風刺画がベルギー人のメッセンジャーとして登場する。
2002年、グラスゴーのアシュトン通りにその名も"Brel Bar Restaurant"が開店した。壁に展示されたジャック・ブレルの新聞記事などを見ながらベルギー料理が楽しめる。ただ、背景音楽に彼の曲が用いられることは滅多に無い[24]。