ジャック・ビクトリー
ジャック・ビクトリー | |
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ロシアン・アサシン(2013年) | |
プロフィール | |
リングネーム |
ジャック・ビクトリー ジャッコ・ビクトリー ロシアン・アサシン2号 スーパー・デストロイヤー テロリスト ブラックメーラー タイタン ビッグバン |
本名 |
ケネス・ラインハースト (ケン・ラインハースト) |
ニックネーム | シークレット・サービス |
身長 | 191cm - 193cm |
体重 | 111kg - 114kg |
誕生日 | 1964年7月3日(60歳) |
出身地 |
アメリカ合衆国 ニュージャージー州 アトランティック郡アトランティックシティ |
デビュー | 1984年 |
ジャック・ビクトリー(Jack Victory、本名:Kenneth "Ken" Rinehurst、1964年7月3日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ニュージャージー州アトランティックシティ出身[1]。
来歴
[編集]キャリア初期
[編集]1984年、ビル・ワットがミッドサウス地区で主宰していたUWFにてジャック・ビクトリー(Jack Victory)のリングネームでデビュー。以降、UWFおよびフリッツ・フォン・エリックが主宰するテキサス州ダラスのWCCWの2団体を主戦場に活動。
リック・フレアーの影響下にある金髪ヒールとして、1986年より同タイプの "ハリウッド" ジョン・テータムとタッグを組み、ザ・ファンタスティックス(ボビー・フルトン&トミー・ロジャース)と抗争を展開した。UWFでは女性マネージャーのミッシー・ハイアットを従え、後にハイアットと結婚する "ホット・スタッフ" エディ・ギルバートがマネージメントしていた若手ヒール時代のスティングやリック・スタイナーとも共闘し、H&Hインターナショナル(Hot Stuff & Hyatt International)なるユニットのメンバーとしても活動した[2]。
WCW
[編集]1988年7月、UWFを買収した当時のNWAの基幹団体MACWに参戦し、ポール・ジョーンズをマネージャーに迎えて覆面レスラーのロシアン・アサシン2号(Russian Assassin #2)に変身。1号のデビッド・シェルダンとロシアン・アサシンズ(The Russian Assassins)なるタッグチームを結成し、当時ベビーフェイスのポジションにいたザ・ラシアンズ(イワン・コロフ&ニキタ・コロフ)と偽ロシア対決を繰り広げた[3]。
同年11月よりMACWを買収したWCWにも継続参戦。オリジナル・ミッドナイト・エクスプレスのランディ・ローズとのタッグを経て、1989年6月、リングネームをジャッコ・ビクトリー(Jacko Victory)へと変更し、ニュージーランド出身のリップ・モーガンとニュージーランド特殊部隊ギミックのニュージーランド・ミリティア(The New Zealand Militia)を結成。ダイナミック・デューズ(シェーン・ダグラス&ジョニー・エース)と抗争を展開した[4]。1990年からはチーム名をロイヤル・ファミリー(The Royal Family)に変更させ、12月16日開催のスターケードで行われたインターナショナル・タッグチーム・トーナメントにニュージーランド代表チームとして出場したが、1回戦でマサ斎藤とグレート・ムタの日本代表チームに敗退[5]。以降は出場機会が減少し、1991年6月にWCWを離れた。
1992年1月と7月、メキシコのCMLLにタイタン(Titan)のリングネームで参戦。MS1、ラ・フィエラ、ネグロ・カサスらと組み、レーザートロン、ブラック・マジック、ラブ・マシーンなどと対戦した[6]。
ECW
[編集]一時期プロレスの活動から離れていたが、1998年5月よりECWに参戦してトミー・ドリーマーと抗争を展開[7]。9月にはジャスティン・クレディブル、ワンマン・ギャング、サル・E・グラツィアーノを仲間に引き込んで、ドリーマー&ジョン・クローナス&ニュー・ジャック&スパイク・ダッドリーを相手に反則裁定なしのエニシング・ゴーズマッチを連日行った[1]。11月1日のPPV "November to Remember 1998" ではクレディブルと組んで、ドリーマーが助っ人に呼んだジェイク・ロバーツとスペシャル・タッグマッチを行うが[8]、試合中に脚を負傷して敗退。そのまま戦線を離脱することになった。
負傷中は車椅子に乗ってヒールのマネージャーとなって活動。1999年にサイラス・ザ・ヴァイラス率いるザ・ネットワーク(The Network)の一員となり[9]、8月より復帰した際にはスティーブ・コリノとのタッグでレイヴェン&ドリーマーと長期抗争を展開。2001年1月13日に開催されたECW最後のイベントではCWアンダーソンから勝利を収めた[10]。
インディー団体
[編集]ECW崩壊後、2001年5月よりコリノが主宰するペンシルベニア州のインディー団体PWF(Premier Wrestling Federation)に参戦し、2002年にPWFエクストリーム王座を保持するニュー・ジャックと抗争を展開[1]。2003年3月にはコリノ、アンダーソン、サモア・ジョー、マイケル・シェーンとザ・グループ(The Group)なるユニットを結成してROHに参戦[1]。同年12月にはブルー・ミーニーとジャスミン・セントクレアがペンシルベニア州で主宰する3PW(Pro Pain Pro Wrestling)に出場した[1]。
2004年2月、コリノが新たに旗揚げしたWORLD-1に参戦[1]。3月に初来日を果たし、WORLD-1と提携していたZERO-ONEに参戦。記者会見にてWORLD-1の会長に就任したことを自分から強引に宣言。同月5日に田中将斗とのWORLD-1ヘビー級王座戦を行うことを一方的に決めたが、ローリング・エルボーを喰らい5分56秒で敗退[11]。翌6日には、コリノとECW時代以来となるタッグを組んで横井宏考&佐藤耕平と対戦した[12]。
2006年よりセミリタイア状態となるも、2011年よりロシアン・アサシン2号としてNWA加盟団体のNWAトップ・オブ・テキサスにスポット参戦している。
得意技
[編集]- パイルドライバー
- ビクトリー・プレックス(ブリッジング・クレイドル・スープレックス)
獲得タイトル
[編集]- WCCW TV王座 : 1回[14]
他、アメリカのインディー団体を中心にタイトルを獲得。
入場曲
[編集]- Whiskey Bent And Hell Bound
- The Old School Style
脚注
[編集]- ^ a b c d e f “Jack Victory”. Online World of Wrestling. 2014年4月21日閲覧。
- ^ “Hot Stuff & Hyatt International”. Online World of Wrestling. 2016年1月14日閲覧。
- ^ “The WCW matches fought by Jack Victory in 1988”. Wrestlingdata.com. 2023年9月8日閲覧。
- ^ “The WCW matches fought by Jack Victory in 1989”. Wrestlingdata.com. 2023年9月8日閲覧。
- ^ “NWA Starrcade 1990 "Collision Course"”. Cagematch.net. 2016年1月14日閲覧。
- ^ “The CMLL matches fought by Jack Victory in 1992”. Wrestlingdata.com. 2023年9月8日閲覧。
- ^ “The ECW matches fought by Jack Victory in 1998”. Wrestlingdata.com. 2023年9月8日閲覧。
- ^ “ECW November To Remember 1998”. Cagematch.net. 2023年9月8日閲覧。
- ^ “The Network”. Online World of Wrestling. 2011年4月25日閲覧。
- ^ “ECW Event 2001/01/13”. Cagematch.net. 2023年9月8日閲覧。
- ^ “ZERO-ONE Sweep Away 2004 - Tag 1”. Cagematch.net. 2023年9月8日閲覧。
- ^ “ZERO-ONE Sweep Away 2004 - Tag 2”. Cagematch.net. 2023年9月8日閲覧。
- ^ “UWF World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2016年1月14日閲覧。
- ^ “World Class Television Title”. Wrestling-Titles.com. 2016年1月14日閲覧。
外部リンク
[編集]- Online World of Wrestling
- ジャック・ビクトリーのプロフィール - Cagematch.net, Wrestlingdata.com, Internet Wrestling Database