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シャルロット=アメリー・ド・ラ・トレモイユ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルデンブルク伯爵夫人シャルロット=アメリー、18世紀初頭の版画

シャルロット=アメリー・ド・ラ・トレモイユCharlotte-Amélie de La Trémoille, 1652年1月3日 トゥアール - 1732年1月21日 ユトレヒト)は、ブルボン朝時代フランスの貴族女性、回想録作者。同じ洗礼名を持つ従姉のデンマーク王妃シャロデ・アメーリエ(シャルロット=アメリー)に女官として仕え、王妃の厚い信任と寵愛を得た。

生涯

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トゥアール公アンリ1世の嫡男ターラント公アンリ・シャルルと、ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム5世の娘エミーリエの間の第1子・長女。父方祖母マリー・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュの手でユグノー信徒として育てられた。1665年に祖母が死ぬと、叔父のシャルー修道院長ルイ・モーリスフランス語版によってカトリックへの改宗を強要されそうになったため、オランダで亡命生活を送っていた両親の元に移り、1668年両親とともにトゥアールへ戻った。父は結局1670年カトリックに改宗し、家族にも同様に改宗を勧めたが、シャルロット=アメリーはこれを拒否した。

1672年、デンマーク王妃シャロデ・アメーリエは従妹の宗教上の苦境を聞き知ると、デンマーク宮廷に来て自分に女官として仕えてはどうか、という解決策を提案した。シャルロット=アメリーはフランス国王の許可を取り付けたうえで、母に伴われてコペンハーゲンを訪ねた。最初は苦労もあったものの、シャルロット=アメリーはドイツ語で会話がなされるデンマークの宮廷生活に順応し、すぐに王妃の一番お気に入りのの女官となった。彼女は信心深く、同時に大胆で型破りな人物だったと記録されている。

1680年5月29日[1]、フランス王ルイ14世の仲立ちにより[2]アントン1世・フォン・アルデンブルク伯爵と結婚。この縁組は王妃の夫のクリスチャン5世王及び王母ソフィー・アメーリエからは歓迎されたが、当の王妃は許しを与えなかった。アルデンブルクが王妃に敵対的な宮廷内のグループに属していたためである。王妃はシャルロット=アメリーに暇を出し、もし未亡人になったら再び女官として出仕せよと言い渡した。シャルロット=アメリーは夫がデンマーク王の総督として治めるオルデンブルクに移った。

果たして夫は結婚してわずか5か月後の1680年10月27日に亡くなり、シャルロット=アメリーは未亡人となった。ところが彼女は妊娠しており、1681年5月に一人息子のアントン2世・フォン・アルデンブルクを出産する。これ以降、シャルロット=アメリーは息子の相続権を守るために、亡夫の親族たちと長きにわたる係争を繰り広げた。この法廷闘争で自分と息子に加勢をしてもらうため、彼女は何度もデンマーク宮廷を訪れたが、国王は彼女の敵側を支持する立場をとった。しかし王妃は反対に味方になってくれたため、シャルロット=アメリーはこの縁で再び宮廷に足繁く出入りするようになった。アントン2世は1706年にようやく父の遺領を相続することが認められた。以降、シャルロット=アメリーはユトレヒトに住み、同地で亡くなった。

シャルロット=アメリーは息子のために1652年から1719年までの半生を綴った回想録を執筆し、自分と交流のあった人々や、息子の相続権をめぐる係争について、詳細な記録を残した。この回想録は長く忘れ去られていたが、19世紀末頃から大きく注目を集めるようになった。

著作

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  • Édouard de Barthelemy (Hrsg.) Mémoires de Charlotte-Amélie de la Trémoille, comtesse d’Altenbourg (1652–1719), 1876, Reprint 2002, ISBN 978-0-54370-179-4

参考文献

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  • Ellen Jorgensen, Johanne Skovgaard, Danske dronniger; fortaellinger og karakteristikker, Kopenhagen 1910 (online, abgerufen am 24. Mai 2021)
  • Umar Sayyed, Trémoïlle, Charlotte Amélie de La, in: Digitaal Vrouwenlexicon van Nederland. (online, abgerufen am 24. Mai 2021)
  • Detlev Schwennicke, Europäische Stammtafeln, Band 10, 1986, Tafel 3

引用

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  1. ^ Schwennicke: 19. Juni 1680; Pattou: 19. Mai 1680
  2. ^ Dansk biografisk Lexikon / XV. Bind. Scalabrini - Skanke

外部リンク

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  • Étienne Pattou, Maison de La Trémoille, S. 7 (online, abgerufen am 24. Mai 2021)