シャムスッディーン・イリヤース・シャー
シャムスッディーン・イリヤース・シャー(Shamsuddin Ilyas Shah, 生年不詳 - 1357年)、東インドのベンガル・スルターン朝、イリヤース・シャーヒー朝の君主(在位:1342年 - 1357年)。
生涯
[編集]シャムスッディーン・イリヤース・シャーの出生に関しては、東部イランのシースターンの出身と記録があるのみで、それ以上のことは不明である[1]。
イリヤース・シャーは北ベンガルの長官であるアラー・ウッディーン・アリー・シャーの下で台頭したが、1342年に彼を殺害し、その地位を奪った[2]。当時、ベンガル地方は北ベンガル(ラクナーワティー)、西ベンガル(サトガーオン)、東ベンガル(ソーナールガーオン)に分かれており、それぞれ長官が統治していた[3]。
同年、長官であったイリヤース・シャーはトゥグルク朝から独立し、ベンガル・スルターン朝を創始した(イリヤース・シャーヒー朝)[4][2][5]。創始者シャムスッディーン・イリヤース・シャーはベンガルの独立を強く意識し、その正当性と権威と明白にするため、自分の硬貨に「第2のアレクサンドロス、カリフの右腕」と記している[4]。
1346年までにイリヤース・シャーはベンガル地方の政治的統一に成功したのち、対外遠征を敢行した[2]。彼はビハールを征服、オリッサ(東ガンガ朝)とネパール(マッラ朝)にも侵攻し、遠くチベットにまで遠征した[2]。ネパールやオリッサとの戦いでは莫大な戦利品を獲得した[2]。
ことに1349年のイリヤース・シャーのネパールのカトマンズ盆地への侵攻は、この地を支配していたマッラ朝に壊滅的な打撃を与え、政情不安をもたらした[6]。彼の軍勢は首都バクタプルのみならず盆地の都市カトマンズ、パタンを蹂躙し、その地の寺院、家屋を破壊・放火して、全土を灰燼に帰した[6]。盆地では7日間にわたり徹底して破壊、略奪を行い、そののちベンガルへと帰還した[6]。
また、イリヤース・シャーはオリッサに侵入した際、ジャージナガルを攻撃し、あらゆる抵抗を打ち破ったのち、チルカー湖まで進撃したという[7]。ベンガルに帰還したとき、彼は多数のゾウを含めた戦利品を持ち帰ったとされる[7]。
イリヤース・シャーの絶え間ない征服活動の結果、領土はティルフットからチャンパラン、ゴーラクプルへと広がり、ヴァーラーナシーにまで版図を広げた[5]。だが、ベンガル・スルターン朝の台頭はトゥグルク朝にとって脅威であった[5]。
そのため、1353年にトゥグルク朝の君主フィールーズ・シャー・トゥグルクは失地回復のため、ベンガルへと遠征軍を進めた。軍勢はチャンパランやゴーラクプルを通過し、ベンガルの首都パーンドゥアーを攻め落とした[2]。
イリヤース・シャーはガンジス川とその支流に囲まれた強力なエクダーラーの要塞へと逃げ、そこに籠城した[5][2]。2ヶ月の包囲ののち、フィールーズ・シャーは退却するそぶりを見せ、イリヤース・シャーを誘い出して出てきたところで打ち破った[5]。だが、イリヤース・シャーはエクダーラーへと再び逃げ、籠城し続けた[5]。
その後、1354年にトゥグルク朝とベンガル・スルターン朝の間で和平が結ばれ、コシ川を両国の国境とすることが定められた[5][8]。イリヤース・シャーはフィールーズ・シャーと贈り物を交換し、トゥグルク朝の軍はデリーへと引き上げた[5][2]。デリーとの友好的な関係を構築したことにより、イリヤース・シャーは東のアッサム方面へと支配を拡大することが出来た[5]。
1357年、イリヤース・シャーは死亡し、息子のシカンダル・シャーが王位を継承した[5]。
イリヤース・シャーは治世中に多くの業績を残した。そのの成功の要因のひとつは彼自身の人気にあったことである、と歴史家サティーシュ・チャンドラは述べている。フィールーズ・シャーがパーンドゥアーを占領したのち、貴族や聖職者らに人気を得るために土地を与え、都市の住民を味方にしようと試みたが、失敗している[5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。
- 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。
- サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。
- 堀口松城『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』明石書店、2009年。
- 佐伯和彦『世界歴史叢書 ネパール全史』明石書店、2003年。