サン=ポル=ド=レオン
Saint-Pol-de-Léon | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | ブルターニュ地域圏 |
県 (département) | フィニステール県 |
郡 (arrondissement) | モルレー郡 |
小郡 (canton) | サン=ポル=ド=レオン小郡(小郡庁所在地) |
INSEEコード | 29259 |
郵便番号 | 29250 |
市長(任期) |
Nicolas Floc'h (2014年-2020年) |
自治体間連合 (fr) | ペイ・レオナール(fr) |
人口動態 | |
人口 |
6 711人 (2012年) |
人口密度 | 292人/km2 |
住民の呼称 | Saintpolitain,Saintpolitaine |
地理 | |
座標 | 北緯48度41分10秒 西経3度59分06秒 / 北緯48.6861度 西経3.985度座標: 北緯48度41分10秒 西経3度59分06秒 / 北緯48.6861度 西経3.985度 |
標高 |
平均:?m 最低:0m 最高:57 m |
面積 | 23km2 |
公式サイト | http://www.saintpoldeleon.fr |
サン=ポル=ド=レオン (フランス語:Saint-Pol-de-Léon、ブルトン語:Kastell Paol)は、フランス、ブルターニュ地域圏、フィニステール県のコミューン。
地名の由来
[編集]コミューンの名は、ブルターニュを伝道した伝説的な聖人、ポル・オレリアン(ラテン語名:パウリヌス・アウレリアヌス)(fr)に由来する。聖ポル・オレリアンはバ島を恐ろしいドラゴンから解放したため、伯爵は島と本土の広大な土地を彼に与えた。その土地は、Castel-Paol と呼ばれる要塞(オッピドゥム)の周りにあった。6世紀、町はブルトン語の名 Kastell-Paol を有していた。10世紀の文書によると、町はオシスミイ(fr)の時代には Occismor を名乗り、古代ローマの支配時には Legio と称していた。legio はローマ軍団を意味し、当時の町には古代ローマの軍隊が駐屯していた。その後、町の名は何度か変化し、1296年に Saint Pal en Léon、1405年に Saint Poul en Leon、1451年に Saint Paoul de Léon の名が確認されている。
歴史
[編集]古文書によると、古代のこの場所は要塞で囲まれていた。城塞は、ケルト人の部族オシスミイ(fr)によって占領され、次に Legionenses により支配された。中世後期の聖人伝によると、聖ポル・オレリアン(fr)がイギリスから渡来し、510年にウェサン島に上陸した。その後、サン=ポル=ド=レオンに来た彼は、周辺の地域で福音を説き、フランク人の王キルデベルト1世により、レオン司教区(fr)の最初の司教を命じられた。
司教座のある町の大聖堂のまわりには、Minihi-Paol と呼ばれる地域が生まれた。minihi(fr)は、ブルトン語で修道院領を意味する。Minihi-Paol はレオン司教区の一部をなし、その中心であった。修道院領内には7つの小教区があったが、1687年に司教区の決定により、ひとつにまとめられた。Minihy du Léon(fr)は、現在のサン=ポル=ド=レオン、ロスコフ、サンテックを管理していた。その後、ロスコフは1789年に、サンテックは1920年に独立した。
フランス革命時、レオン司教区の最後の司教となったジャン=フランソワ·ド·ラマルシェ(fr)は、議会により司教職を奪われ、ロンドンへの亡命を強いられた。レオン司教区は、カンペール・レオン司教区(fr)に合併された。1793年、農民らはフランス革命軍(fr)への徴兵(fr)に反対し、サン=ポル=ド=レオンの戦い(fr)と呼ばれる反乱を起こした。町は共和派の軍隊に鎮圧され、弾圧を受けた。
1883年に鉄道が開通し、野菜の集約栽培が大きく発展した。1890年、サン=ポル=ド=レオンはフランスで最も重要な野菜の輸出元になった[1]。
聖ポル・オレリアン大聖堂は、トロ・ブレイスの巡礼地となっている。
2008年12月、サン=ポル=ド=レオンはYa d'ar brezhoneg(日常生活におけるブルトン語使用を奨励する憲章)を批准した。
人口統計
[編集]1793年 | 1800年 | 1851年 | 1901年 | 1954年 | 1962年 | 1968年 | 1975年 |
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4,832 | 5,385 | 7,059 | 7,846 | 8,585 | 8,347 | 8,044 | 8,044 |
1982年 | 1990年 | 1999年 | 2006年 | 2010年 | 2012年 | ||
7,462 | 7,261 | 7,121 | 7,068 | 6,904 | 6,711 |
参照元:1999年までEHESS[2]、2000年以降INSEE[3][4]
文化遺産
[編集]- 聖ポル・オレリアン大聖堂(fr)
- 最初の教会は9世紀にノルマン人により破壊され、現在の建物は12世紀から16世紀にかけて造られた。伝説の聖人ポル・オレリアン(fr)に捧げられたこの教会は、フランス革命までレオン司教区(fr)の司教座が置かれていた。
- Kreisker 聖母礼拝堂(fr)
- 設立は6世紀にさかのぼる。最初の礼拝堂は9世紀にノルマン人に破壊された。現在の建物は14世紀から15世紀にかけて建設された。78mの鐘楼はブルターニュで最も高い。
- 聖ジョセフ礼拝堂
- 1846年建設。司教区の聖職者の老人福祉施設に付属する礼拝堂である。鐘楼は、以前近くにあった聖ウルスラ会修道院のものが移設された[5]。
- 聖ピエール教会(fr)
- 14世紀から15世紀にかけて造られ、18世紀にファサードや鐘楼が再建され、19世紀に骨組みや屋根が修理された。教会に隣接する墓地を囲む壁には、16世紀と17世紀に作られた納骨堂が残る。
- Boutouiller の巨石記念物
- ケラングエの支石墓とも呼ばれる。サン=ポル=ド=レオンに残る最後の巨石記念物。
- 庁舎
- 1706年建設。1750年に西翼が増築された。フランス革命までは司教邸として使われていた。1830年に町が買い取り、役所として使用されている[6]。
- メゾン・プリボンデイル
- プティ・クロワトル広場にあるこの建物は、1530年頃に司教座聖堂参事会員のリシャールによって建てられた。建物名は、彼の肩書きが prébendes(聖職禄)に結びつくことに由来する。ファサードには、レオンの旗章であるライオンと、聖ポル・オレリアンへの敬意を示すドラゴンの飾りが見られる。
- Lenn Ar Gloar の泉
- 壁龕の中に16世紀の聖母マリア像が置かれている。聖ポル・オレリアンの来訪の際に祝福を与えられたとされ、奇跡の泉として長い間存在していた。泉は近くの共同洗濯場にも水を提供しており、家庭用の洗濯場になる前は、リンネルの糸の漂白や食肉の洗浄のために使用された[7]。
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聖ポル・オレリアン大聖堂
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Kreisker 聖母礼拝堂
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聖ピエール教会
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Boutouiller の巨石記念物
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メゾン・プリボンデイル(プティ・クロワトル広場)
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Lenn Ar Gloar の泉
姉妹都市
[編集]交通
[編集]- フランス国鉄のサン=ポル=ド=レオン駅(無人駅)(fr)があり、モルレー・ロスコフ間の路線を走るTERブルターニュの列車またはバスが発着する。
- フィニステール県会が運営する長距離バス(fr)によって、ブレスト、モルレー、ロスコフと結ばれている。
脚注
[編集]- ^ Pierre Guivarc'h et Philippe Abjean, St-Pol-de-Léon : Mémoire en Images, 1995, p. 46
- ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=34256
- ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
- ^ http://www.insee.fr
- ^ Chapelle Saint-Joseph Saint-Pol-de-Léon officiel
- ^ Hôtel de ville Saint-Pol-de-Léon officiel
- ^ Fontaine de Lenn ar Gloar Saint-Pol-de-Léon officiel
- ^ Jumelage avec Penarth. Dissolution du comitéLe Télégramme