サルグミーヌ
Sarreguemines | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | グラン・テスト地域圏 |
県 (département) | モゼル県 |
郡 (arrondissement) |
サルグミーヌ郡 (郡庁所在地) |
小郡 (canton) | サルグミーヌ小郡 |
INSEEコード | 57631 |
郵便番号 | 57200 |
市長(任期) |
セレスト・レット (2014年-2020年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Communauté d'agglomération Sarreguemines Confluences |
人口動態 | |
人口 |
20944人 (2016年) |
人口密度 | 706人/km2 |
住民の呼称 | Sarregueminois, Sarregueminoises |
地理 | |
座標 | 北緯49度06分40秒 東経7度04分05秒 / 北緯49.11111111度 東経7.068055556度座標: 北緯49度06分40秒 東経7度04分05秒 / 北緯49.11111111度 東経7.068055556度 |
標高 |
平均:220 m 最低:192 m 最高:293 m |
面積 | 29,67km2 (2 967ha) |
公式サイト | http://www.sarreguemines.fr |
サルグミーヌ(フランス語:Sarreguemines、ドイツ語:Saargemünd、ザールゲミュント)はフランス共和国、グラン・テスト地域圏、モゼル県のコミューン。歴史的なロレーヌの一部である。
市街地は、ドイツ国境に沿って広がっており、1997年より、ドイツのザールブリュッケンとトラムで結ばれている。
地理
[編集]ドイツとの国境である、ザール川およびブリー川に面している。ラテン語で合流点を意味する"gemundia" が語源となっている。
由来
[編集]- 標準ドイツ語でSaargemünd、ライン・フランケン語でSaargemìnn[1] · [2]
- Sarreとge-mündを付けて『河口』であり、『ザールから』(de la Sarre)ではなく『ザールの中の』(dans la Sarre)である[3]。Sarregueminesという書記法は、おそらく、この町の方言名Saargemìnnをフランス語化した正書法である。似た地名としてGemündがある。
- 地名が初めて記されたのは、アウストラシア公ピピンが出した706年のエヒタナハ修道院を支持する憲章においてである[4]。
歴史
[編集]公文書でサルグミーヌに言及されたのは777年にさかのぼる。それはピピン短躯王とカール大帝の顧問を務めた聖職者フルラートが、サルグミーヌ(当時はラテン語名のGaimundia)を含むこの地域に所有していた自らの財産をサン・ドニ修道院に寄付した、記述が証である。10世紀から12世紀にかけて、ザール川とブリー川の合流地点を監視するため建てられた城の周りで、サルグミーヌの村は成長していった。1297年、サルグミーヌはツヴァイブリュッケン公国から、神聖ローマ帝国を宗主国に持つロレーヌ公国の支配下に移り、ウィーン条約によって1766年にフランス王国に併合された。
それにもかかわらず、ロレーヌ公国は1737年から1766年までスタニスワフ・レシチニスキ(元ポーランド王かつ、ルイ15世王の義父で、かつてツヴァイブリュッケン公国に亡命していた)が治め、レシチニスキは公国南部のリュネヴィル、ナンシー、コメルシーで暮らした。宗主国の傀儡として、彼は義理の息子の実際の権力に屈していた。王はロレーヌ大執事にラ・ガレジエール大臣を任命していた。スタニスワフは重税を強いたため民衆の人気がなかったが、彼はラ・ガレジエールを支持した。また、この時代に、ゲルマン語起源で一般に用いられていたプラット・ロレーヌ語の使用を抑制する最初の処置がとられた。
町は1698年にドイツの代官区の中心地となっていた。住民たちはゲルマン語方言であるロートリンゲン・フランケン語またはプラットを話していた。1748年まで、ドイツの代官区で出される公文書はドイツ語で書かれていた。大執事が想起させた命令で、ロレーヌにおいて公文書はフランス語が強制されるようになった。
人口統計
[編集]2016年時点のコミューン人口は20944人で[5]、2011年時点の人口より3.05%減少した。
1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2006年 | 2016年 |
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17866 | 24284 | 25684 | 24763 | 23117 | 23202 | 21733 | 20944 |
参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[6]、2006年以降INSEE[7][8]
ファイアンス焼き
[編集]18世紀終わりから、サルグミーヌにファイアンス焼きの工房がおかれた。陶器産業は、製造所を最高ランクに推進させたPaul UtzschneiderとPaul de Geigerから賞賛を得ていた。19世紀に初頭には、サルグミーヌは世界中に膨大な陶器コレクション、花瓶、植木鉢、壁掛けのフレスコ画、暖炉などを提供していた。
拡大の時代の後、サルグミーヌのファイアンス焼きは徐々に活動を鈍らせ、2007年2月に最終的に消滅した。
姉妹都市
[編集]- グミュント、オーストリア
出身者
[編集]脚注
[編集]- ^ Geoplatt
- ^ Hervé Atamaniuk、Marianne Haas および Marielle Rispail, Le Platt lorrain pour les Nuls : Guide de conversation, First, , 352 p. (ISBN 9782754036061), p. 16.
- ^ Toponymie générale de la France: Tome 2, Formations non-romanes - Ernest Nègre.
- ^ "Bouteiller - Dictionnaire topographique"
- ^ Population municipale légale en vigueur au 1er janvier 2019, millésimée 2016, définie dans les limites territoriales en vigueur au 1er janvier 2018, date de référence statistique : 1er janvier 2016.
- ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=35361
- ^ https://www.insee.fr/fr/statistiques/3293086?geo=COM-57631
- ^ http://www.insee.fr