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ゴットフリート (ライン宮中伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゴットフリート・フォン・カルフ
Gottfried von Calw
ライン宮中伯
在位 1113年 - 1126/9年

称号 カルフ伯:1094/5年 - 1131年
死去 1131年2月6日
配偶者 リウトガルト・フォン・・ツェーリンゲン
子女 ゴットフリート
リウトガルト
ウタ
家名 カルフ家
父親 カルフ伯アーダルベルト2世
母親 ヴィルトルーデ・フォン・ロートリンゲン
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ゴットフリート・フォン・カルフ(Gottfried von Calw、? - 1131年2月6日)は、カルフ伯(在位:1094/5年 - 1131年)、ライン宮中伯(在位:1113年 - 1126/9年)。

生涯

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ゴットフリートはカルフ伯アーダルベルト2世とヴィルトルーデ(ロートリンゲン公ゴットフリート3世の娘)の間の息子で、兄にアーダルベルト3世がいる。母ヴィルトルーデは最後のロタリンギア宮中伯ヘルマン2世の従姉にあたる。ゴットフリートは1095年にヒルシャウのフォークトとなり、1094年または1095年に父アーダルベルト2世が修道院に隠棲したためカルフ伯を継承した。ゴットフリートは最初ハインリヒ4世に従っていたが、1105年にハインリヒ4世とその子で王位継承者のハインリヒ(後のハインリヒ5世)との間に争いが勃発した後は、継承者ハインリヒを支持した。また、ハインリヒ5世の最初のイタリア遠征に参加し、1111年のポンテ・マンモロ協約、1119年のムーゾン(アルデンヌ)協約および1122年のヴォルムス協約の成立にも関与した。

1113年3月9日、皇帝軍との戦いでライン宮中伯ジークフリート1世が死去した後、4月6日にゴットフリートは宮中伯を継承するため宮中伯領を占拠した。ゴットフリートが宮中伯となったことで、翌年にロートリンゲンで紛争が生じ、マインツ大司教アーダルベルト1世・フォン・ザールブリュッケンとトリーア大司教ブルノ・フォン・ラウフェンとの衝突が起こった。1116年の第二回イタリア遠征時に、ハインリヒ5世はシュタウフェン家のシュヴァーベン公フリードリヒ2世およびコンラートとともにゴットフリートをドイツの代官に任じたが、このことがマインツ大司教アーダルベルトの皇帝からの離反を招いた。1125年にハインリヒ5世が死去し、ロタール3世がローマ王に選ばれると、ロタールはゴットフリートの権力の弱体化を図った。ゴットフリートはライン宮中伯位を取り上げられなかったものの、前宮中伯の息子ヴィルヘルムから訴えられた。ヴィルヘルムは父ジークフリートが死去した時は未成年であったが、1126年から1129年までゴットフリートがヴィルヘルムの後見役となり、1129年には宮中伯位をヴィルヘルムに譲り渡すよう決められた。

子女

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ツェーリンゲン公ベルトルト2世の娘リウトガルトと結婚し、三人の子をもうけた。

  • ゴットフリート(? - 1131/2年以前)
  • リウトガルト - Verli家の騎士某と結婚
  • ウタ(1115/20年 - 1196/7年) - シャウエンブルク公夫人とよばれた。1191年にアラーハイリゲン修道院創設。1133年1月以前にヴェルフ家のスポレート公兼トスカナ辺境伯ヴェルフ6世(1114/6年 - 1191年)と結婚。

参考文献

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  • Peter Fuchs: Gottfried. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 6, Duncker & Humblot, Berlin 1964, ISBN 3-428-00187-7, S. 665 f. [1]
  • Wilhelm Kurze: Adalbert und Gottfried von Calw, in: Zeitschrift für württembergische Landesgeschichte XXIV, 1965, Heft 2, S. 241–308.
先代
ジークフリート1世
ライン宮中伯
1113年 - 1126/9年
次代
ヴィルヘルム