コール・ポーター
コール・ポーター | |
---|---|
基本情報 | |
出生名 | Cole Albert Porter |
別名 | Cole Porter |
生誕 | 1891年6月9日 |
出身地 | アメリカ合衆国 インディアナ州 |
死没 | 1964年10月15日(73歳没) |
学歴 | イェール大学、ハーバード大学 |
ジャンル | ミュージカル・映画音楽 |
職業 | 作曲家 |
コール・ポーター(Cole Porter、1891年6月9日 - 1964年10月15日)は、アメリカ合衆国の作曲家・作詞家。本名コール・アルバート・ポーター(Cole Albert Porter)。機知に富んだ都会的な詞で知られ、ミュージカルや映画音楽の分野で多くのスタンダード・ナンバーを残した。ミュージカル『キス・ミー・ケイト』は特に人気が高く、日本でもしばしば上演される。
来歴
[編集]インディアナ州生まれ。6歳でヴァイオリンを、8歳でピアノを習う。イェール大学在学中に大学公式応援歌『ブルドッグ』を作曲する。『ブルドッグ』はラグビーのタッチダウンが成功した時に歌われる[1]。卒業後、ハーバード大学に入学するが、最終的に音楽家としての道を選ぶ。
1915年、ブロードウェイ・ミュージカル『Hands Up』に楽曲提供し、本格的に作曲家として活動を開始する。しかし、翌年手がけた『まずアメリカを見よ』が、2週間で打ち切られるという挫折を経験し、その後パリに渡る。1918年、リンダ・リー・トーマスと出会う。コールは自分が同性愛者であることを告白するが、リンダは結婚に応じた[注釈 1]。ヨーロッパでも作曲活動を続け、1923年にはバレエ曲「Within The Quota」を作曲した。しかし、依然として成功に恵まれず、1920年代後半に帰国した。
1930年、ミュージカル『ザ・ニューヨーカーズ』(en:The New Yorkers)に「ラブ・フォー・セール」等の楽曲を提供した。この時も成功には至らず、逆に歌詞の内容が物議を醸しラジオ放送禁止となるが、「ラブ・フォー・セール」は後年スタンダード・ナンバーとなった。そして、1932年にはミュージカル『陽気な離婚(Gay Divorce)』が大ヒットする。ここでフレッド・アステアが歌った「夜も昼も」は、コールの代表曲の一つと目される。1936年には映画『踊るアメリカ艦隊』に「イージー・トゥ・ラヴ」等を提供し、映画音楽の分野にも進出した。
1948年、ミュージカル『キス・ミー・ケイト』が大ヒットし、トニー賞を受賞した。1958年には落馬による負傷が元で右足に潰瘍ができ、手術を繰り返した末に切断して義足を付ける。その後も多くの曲を作るが、1964年、腎不全のためカリフォルニア州サンタモニカで亡くなる。
代表作
[編集]- 「アイ・ゲット・ア・キック・アウト・オブ・ユー(君にこそ心ときめく)」
- 「アイ・ラヴ・ユー」
- 「アイ・ラヴ・パリ」
- 「アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン(あなたはしっかり私のもの)」(en:I've Got You Under My Skin)(1936年) - フランク・シナトラやフォー・シーズンズにカバーされた[2]。
- 「イージー・トゥ・ラヴ」 - チャーリー・パーカーやハンク・モブレー等が取り上げた。
- 「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」
- 「エニシング・ゴーズ」
- 「オール・オブ・ユー」 - マイルス・デイヴィスのレパートリーとなり、アルバム『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』に収録された他、初来日公演でも演奏された。モダン・ジャズ・カルテット、ビル・エヴァンス、キース・ジャレット・トリオ等も取り上げる。
- 「ゲット・アウト・オブ・タウン」
- 「ソー・イン・ラヴ」 - モートン・グールド編曲のバージョンが、日本のテレビ番組『日曜洋画劇場』のエンディング・テーマに使われた。
- 「トゥルー・ラヴ」 - ジョージ・ハリスンのアルバム『33 1/3』で取り上げられた。
- 「ナイト・アンド・デイ」
- 「ビー・ア・クラウン」
- 「ビギン・ザ・ビギン」
- 「マイ・ハート・ビロングス・トゥ・ダディ」
- 「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」
- 「ユーアー・ザ・トップ(en:You're The Top)」
- 「ラヴ・フォー・セール」
ミュージカル
[編集]- 1930年:ザ・ニューヨーカーズ(The New Yorkers) - 「ラヴ・フォー・セール」
- 1932年:陽気な離婚(Gay Divorce) - 「ナイト・アンド・デイ」
- 1934年:エニシング・ゴーズ(Anything Goes) - 「エニシング・ゴーズ」「アイ・ゲット・ア・キック・アウト・オブ・ユー」「ユーアー・ザ・トップ(en:You're The Top)」
- 1935年:ジュビリー(en:Jubilee (musical)) - 「ビギン・ザ・ビギン」
- 1938年:リーヴ・イット・トゥ・ミー(Leave It To Me) - 「ゲット・アウト・オブ・タウン」「マイ・ハート・ビロングス・トゥ・ダディ」
- 1943年:メキシカン・ヘイライド(Mexican Hayride) - 「アイ・ラヴ・ユー」
- 1948年:キス・ミー・ケイト(Kiss Me, Kate) - 「ソー・イン・ラヴ」
- 1953年:カン・カン(Can-Can) - 「アイ・ラヴ・パリ」
- 1954年:絹の靴下(Silk Stockings) - 「オール・オブ・ユー」
コール・ポーター作品による映画
[編集]- 1936年:踊るアメリカ艦隊(Born To Dance) - 「イージー・トゥ・ラヴ」「あなたはしっかり私のもの」
- 1937年:ロザリー(:en:Rosalie) - 「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」
- 1942年:サムシング・トゥ・シャウト・アバウト(Something To Shout About) - 「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」
- 1948年:踊る海賊(The Pirate) - 「ビー・ア・クラウン」
- 1953年:キス・ミー・ケイト(:en:Kiss Me Kate)
- 1955年:上流社会(High Society) - 「トゥルー・ラヴ」
- 1968年:キス・ミー・ケイト(:en:Kiss Me Kate 1968)
伝記映画
[編集]- 夜も昼も(:en:Night and Day 1946) - 1946年公開、マイケル・カーティス監督。コール・ポーター役はケーリー・グラント。レイ・ハインドルフとマックス・スタイナーによる音楽はアカデミー賞にノミネートされた。
- 五線譜のラブレター(De-Lovely) - 2004年公開、アーウィン・ウィンクラー監督。コール・ポーター役はケヴィン・クライン。アラニス・モリセット、シェリル・クロウ、エルヴィス・コステロ、ダイアナ・クラール、ナタリー・コールなどがコールの曲を歌った。
バレエ作品
[編集]1923年、ジェラルド・マーフィーと共同で「Landed」という短いバレエ作品を作曲した。パリで1920年に創設されたバレエ団「バレエ・スエドワ」のために書かれた16分あまりのこの作品は、後に「Within the Quota」に改題され、アメリカ移民が映画スターになるまでを風刺的に描いている。シャルル・ケクランによりオーケストレーションされ、ダリウス・ミヨーの世界の創造と同夜に初演された。ジョージ・ガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーに先立つこと4カ月前の、もっとも初期のシンフォニックジャズの一つである。1923年10月にシャンゼリゼ劇場で行われた初演は、フランス、アメリカの双方の観客から好意的に受け入れられた[注釈 2]。
翌月、成功裡に終わったニューヨーク公演を皮切りに「バレエ・スエドワ」は、全米で69回公演を行った。1年後の1925年、「バレエ・スエドワ」が解散すると曲のスコアは失われたが、残された原稿をもとに1966年から1990年にかけてミヨーらによって復元された。
トリビュート・アルバム
[編集]コールの楽曲はジャズの素材として好まれ、多数のトリビュート・アルバムがある。
- エラ・フィッツジェラルド『シングス・ザ・コール・ポーター・ソングブック』(1956年)
- オスカー・ピーターソン『プレイズ・コール・ポーター』(1959年)
- ステファン・グラッペリ『プレイズ・コール・ポーター』(1976年)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “Yale Fight Songs | Yale Bands”. bands.yalecollege.yale.edu. 2021年1月22日閲覧。
- ^ ベスト 2017
- ^ "Paris", The Musical Times, December 1923, p. 874
参考資料
[編集]- ヴェリー・ベスト・オブ・フランキー・ヴァリ&フォー・シーズンズ (ライナーノーツ). フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズ. ワーナーミュージック・ジャパン. 2017. WCR26211。